【Ⅰ列王記19:17~20:1】(2024/07/07)
【19:17】
『ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。』
ここで言われている『剣』とは、王権に基づく処刑また死刑命令のことです。パウロもローマ書13章で、権威という意味の剣について述べています。ですから、ここで言われている『剣』は実際の剣というより権威における処罰であると解するべきでしょう。これから『ハザエル』がアラムの王となります。この『ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し』ます。『エフー』もこれからイスラエルの王となります。そして、この『エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺』します。エリシャもこれからエリヤの後継者として正式に任じられます。ここで言われているのは、神の宣言です。神の言われることは全て真理です。ですから、この宣言はその通りになります。また、この箇所から、エリシャの預言者としての権威は王権に等しいことが分かります。何故なら、エリシャは王の処罰から逃れた者を殺すからです。エリシャのような預言者が持つ権威は、絶大な輝きを帯びているわけです。
【19:18】
『しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」』
エリヤは、前に自分だけがイスラエルの中で残されたと嘆きました。エリヤを中心の視点とする限りでは、確かにエリヤは自分だけしか残っていないと思えたのです。しかし、エリヤはイスラエルの全体を見ることができていませんでした。実はイスラエルの全体では『七千人』もの正しい者が残されていたのです。その『七千人』は『バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者』でした。それ以外のイスラエル人たちは、バアルに膝をかがめ、バアル像に口づけしていました。これは紛れもない偶像崇拝の罪です。これほどの忌まわしい振る舞いがイスラエルに見られたというのは、何という悲惨さだったでしょうか。ここで言われている『七千人』とは、実際の数でしょう。つまり、この「7000」が単なる象徴数に過ぎないというのではありません。しかし、これは実際数であると同時に象徴性をも含んでいるはずです。何故なら、この数字は「70かける100」に分解できるからです。この分解から分かるのは、この『七千人』が霊的に恵まれた多くの強者だったということです。「70」は、ユダヤの議会が70の議席から成り立っていたことからも分かる通り、有力性を意味します。「100」は完全数10の二乗ですから、量か質またはその両方が完全また十分だったことを意味します。ですから、残された「7000人」は神の御前で霊的な有力者だったことが分かります。
このように、いつの時代であっても、必ず正しい者が多かれ少なかれ残されているものです。エリヤの時代におけるイスラエルは極めて大きな堕落で満ちていました。このように悲惨な状態であったのにもかかわらず、そこには『七千人』もの正しい者が残されていたのです。エリヤ時代のイスラエルでさえこうだったのならば、尚のこと他の時代では正しい者が残されているはずでしょう。
【19:19】
『エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。』
エリヤは神からの命令を受けると、その命令の通りに行きました。エリヤが命令を受けた場所はホレブ山の場所です。このホレブ山から、エリシャの出身地である『アベル・メホラ』までは、北に極めて遠く離れています。この箇所では書かれていませんが、エリヤは恐らくこの『アベル・メホラ』まで行ったと考えられます。そうだとすれば、エリヤはエリシャのいる場所まで本当に長い距離を移動したことになります。エリヤが移動にどれだけかかったか想像もできないほどです。しかし、その移動の際における詳細は何も聖書で示されていません。ですから、その歩みについては何も分かりません。エリヤは、アハブの前を猛スピードで走ったように、この時もエリシャのいる場所まで猛スピードで走って行ったのでしょうか。これもここでは何一つ書かれていませんから、どうだったか分かりません。そうだったかもしれませんし、そうでなかった可能性もあります。しかし、どのように移動したにせよ、移動の時にイゼベルの危機があったのではないでしょうか。確かにイゼベルにまだエリヤは狙われていたはずですから、イゼベルに捕らえられる危機はあったかもしれません。そのような危機があったとしても、エリヤは神によりイゼベルの手から全く守られました。こうしてエリヤは『シャファテの子エリシャを見つけ』ました。エリヤは神の命令を受けてから、従順に聞き従ったのです。しかも、エリヤはすぐに聞き従ったことでしょう。何故なら、エリヤは『神の人』だったからです。ヨナの場合は、神の命令を守らず、自分勝手な道に進みました。
『エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。』
エリヤがエリシャのもとに行った時、エリシャは農耕をしている最中でした。神はエリシャがこのようにしている時、エリヤがやって来るよう定めておられたのです。その時のエリシャは『十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕してい』ました。これには明らかに象徴があります。これは「12」ですから、エリシャが選ばれていたことを意味しています。事実、エリシャはエリヤの後継者として神から選ばれていました。神は、エリヤにエリシャがこのように『十二番目のくびきのそばで耕してい』るのを見るよう全て調整しておられました。何故なら、エリヤは「12」の数字が何を意味するか知っていたはずだからです。この場面における「12」を無視することは決してできません。この時にエリシャは意味なく『十二番目のくびきのそばで耕していた』のではありません。
『エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、』
エリヤがエリシャ『のところを通り過ぎ』る際、エリヤは『自分の外套を彼に掛け』ました。これはこれからエリシャがエリヤの後継者となるからです。この『外套』そのものに何か特別な意味があったのではありません。この外套がエリヤからエリシャに移されることに大きな意味がありました。この外套の移行は、エリヤの職務がエリシャに移行することを示しているからです。この外套がどのようだったかは知らなくても問題のない事柄です。またエリヤがこの外套をどのような感じでエリシャに掛けたかも、知らないで構わない事柄です。
【19:20】
『エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。』
エリヤから外套を掛けられたエリシャは、『エリヤのあとを追いかけて行』きました。あの大預言者エリヤがやって来て、外套を掛けたのです。聖徒であれば誰がこのような時に追いかけないでいられるでしょうか。牛のことを気にかけている余裕はありませんでした。もし牛に気を取られていれば、エリヤを追いかけることはできなくなるからです。この時にエリシャがどのぐらいの速度でエリヤを追いかけたのかは分かりません。かなり急いで追いかけた可能性も十分にあります。エリヤが通り過ぎて行った様子もどのようだったか分かりません。
『「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」』
エリシャはエリヤのことを知っていたでしょう。またエリヤが外套を掛けた意味もよく分かったでしょう。このエリシャはこれからエリヤに付いて行くつもりだったはずです。何故なら、神がこのエリシャをエリヤの後継者として定めれておられたからです。しかし、エリヤはまず先に『父と母に口づけさせて』ほしいと願い求めます。この『口づけ』とは要するに別れの挨拶です。エリシャがこのようなことを願ったのは、人間的な感情からでした。健全な精神を持った人間であれば、このようなエリヤの願いを決して理解できないことはないはずです。ですから、これについて詳しい説明をする必要はないでしょう。エリシャはあまり気が進まなかったので、少しでも出発の時間を遅らせようとしてこう願ったのではありませんでした。エリシャはこれから行こうとする気持ちに満ちていた可能性が高いのです。しかし、行くにしても父と母に子どもとしての義務を果たしてから出発したかったのです。
『エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」』
エリシャの求めを聞いたエリヤは、その求めを承諾します。エリヤは『私があなたに何をしたというのか。』とエリヤに言います。これは、エリシャを後継者として任命したからといって自由を妨げることはしない、という意味でしょう。要するにエリヤはエリシャの求めを悪いとしませんでした。エリシャは『父と母とに口づけ』しに行っていいのです。この時にエリシャが求めを承諾されなかったとしても、エリシャはエリヤに仕えたことでしょう。実際はエリヤに承諾されましたから、エリシャにとっては幸いでした。しかし、そもそもエリシャはこのような求めをしてよかったのでしょうか。これは問題のない求めでした。何故なら、聖書は『父と母を敬え。』と命じているからです。この時のエリシャの求めは律法に適っていたのです。
ここにおいて思い出されるのは、福音書のキリストです。主も、御自分に仕えるべき者たちを召し出されました。しかし、主は御自分に仕えるべき者たちが、本当にすぐ付いて来るよう求められました。エリヤの場合は、すぐにでなくても構わないとしました。これはキリストとエリヤにおける非常に大きな違いです。キリストがもうすぐにも付いて来るよう言われた命令は、家族を無視してでも必ず従われるべきでした。何故なら、キリストは親族よりも優先されねばならない御方だからです。もしキリストよりも親族を優先したとすれば、そのようにする者はキリストを主としていないことになるでしょう。一方でエリヤはエリシャの主ではありませんでした。エリシャの主はエリヤでなく神です。このため、エリシャの場合は、家族の義務を果たすため遅らせたとしても問題視されなかったのです。もしエリヤがエリシャの求めを承諾せず、すぐエリシャが付いて来るように命じたとすれば、エリヤがエリシャの主でもあるかのようになったでしょう。
【19:21】
『エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えて食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。』
エリシャはエリヤから求めを承諾されたので、『家族の者たち』のもとへ行きました。『引き返して来て』と書かれているのは、エリヤを追いかけて行ったその場所から、農耕をしていた場所にです。この『引き返して来』た時間はそれほど長くなかったと思われます。そしてエリヤは『一くびきの牛を取り』、『その肉を調理し、家族の者たちに与えて食べさせ』ました。こうしてエリヤは親族への義務を果たしたのです。この時に『調理し』た『牛』は恐らく最も上質な個体だったことでしょう。このように特別な時なのです。まさかエリシャがどうでもいいような個体を選んで調理したとは考えにくいのです。このようにしてエリシャは『立って、エリヤについて行って、彼に仕え』ました。神がエリシャを選ばれ、エリヤがエリシャを召しの道に導き、エリシャは神とエリヤの導きに歩みました。こうして神の御計画が進むこととなったのです。もしエリヤでなくこれがキリストであれば、エリシャはすぐにも付いて行かねばならなかったと思われます。
【20:1】
『アラムの王ベン・ハダデは』
アハブ時代のアラム王は『ベン・ハダデ』でした。『アラム』とはイスラエル王国の北東に位置するアラム人が住む地域です。
『彼の全軍勢を集めた。彼には三十二人の王と、馬と戦車とがあった。』
ベン・ハダデは『全軍勢を集め』、戦いの準備をします。これは続く箇所から分かる通り、イスラエル王国を征服するためです。このような征服は、今に至るまで珍しくありません。『彼には三十二人の王』があったのは、つまりベン・ハダデが32人もの王たちを服従させていたことです。ベン・ハダデは多くの王たちを支配する王すなわち大王だったわけです。これほどの王たちを支配していたのは、ベン・ハダデがいかに強大だったかよく示しています。この時のアラムはかなり強い国でした。神がアラムを強くしておられたからです。このベン・ハダデは『馬と戦車』を持っていましたが、その数はかなりだったと思われます。古代において『馬と戦車』は強さの象徴でした。今で言えば戦闘機を多く所有しているようなものでしょう。
このベン・ハダデに支配されていた王が『三十二人』だったのは、象徴的な意味を持っています。これからベン・ハダデがイスラエルの王アハブを服従させるならば、この32人は「33」人に増えます。聖書において「33」は清めや幸いな状態を意味します。ですから、ベン・ハダデが33人目としてアハブを服従させたならば、ベン・ハダデの征服における実績は彼にとって真に豊かなものとなるわけです。それゆえ、ここでは「33に至る直前の32」として32を解するべきです。パウロが言っている通り、『聖書はすべて神の霊感によるもの』です。このため、このような数字に象徴性が含まれている場合は決して珍しくありません。