【Ⅰ列王記20:12~16】(2024/07/21)
【20:12】
『ベン・ハダデは、このことばを聞いたとき、王たちと仮小屋で酒を飲んでいたが、家来たちに、「配置につけ。」と命じたので、彼らは、この町に向かう配置についた。』
ベン・ハダデは『王たちと仮小屋で酒を飲んでいた』のですが、この『仮小屋』がどこにあったのか、またどのような『仮小屋』だったのか、そして『王たち』は何人いてどのような王だったのか、といった事柄までは分かりません。いずれにせよ、この時のベン・ハダデが特に何事もない状況だったことは間違いないでしょう。何故なら、もし何事かでもあれば『王たちと仮小屋で酒を飲んでいた』余裕はなかっただろうからです。このように酒を飲んでいる時、アハブに遣わした使者がやって来ました。そしてその使者はアハブからの言葉をベン・ハダデに告げ知らせました。この言葉を聞いたことで、ベン・ハダデはもうすぐにも戦うことを決定しました。このため、ベン・ハダデは『家来たちに、「配置につけ。」と命じ』ます。すると『彼らは』サマリヤ『に向かう配置につ』きました。こうしてイスラエルとアラムの戦いが始まりました。イスラエルが勝つか、アラムが勝つか、引き分けとはなりそうもない。こうった感じの状況が生じていたのです。
【20:13】
『ちょうどそのころ、ひとりの預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。』
ベン・ハダデが家来たちを配置に付けた頃、『ひとりの預言者がイスラエルの王アハブに近づ』きました。この預言者の名前や詳細はここで何も示されていません。この預言者がアハブに近付いたのは、神からの御言葉をアハブに告げ知らせるためでした。アハブ時代のイスラエルには、このような預言者が多くいました。ここでの『預言者』は、イゼベルに虐殺されなかった預言者の一人です。この時にアハブに近付くようにと、神がこの預言者を虐殺から免れさせ残しておかれたのです。
『「主はこう仰せられる。』
ここで預言者が『主はこう仰せられる。』と言っているのは、語る言葉が神からの言葉であることを証明する定型句でした。預言者が神からの御言葉を語る際は、このような定型句をいつも語っていました。何故なら、それが神からの御言葉であるにもかかわらず神からの御言葉であると示さないのは、望ましくないからです。皇帝や天皇からの言葉を誰かが告げ知らせるならば、それが皇帝や天皇からの言葉であると聞く人に対し示さないのは、かなりまずいはずです。であれば神の御言葉は尚のこと神からの御言葉であると示さないのは、まずいことなのです。イスラエルには、それが本当は神からの御言葉でないにもかかわらず、『主はこう仰せられる。』と言う者もいました。そのようにして自分の言葉を神からの御言葉であると見せかけるのは、致命的に最悪でした。そのようにする者は偽預言者であり、忌まわしい存在でした。この箇所で『主はこう仰せられる。』と言っている『ひとりの預言者』は、偽預言者でなく真の預言者でした。
『『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。』
ここで神が言っておられる通り、ベン・ハダデは『おびただしい大軍』を動員しました。このようにして全力投球するのがベン・ハダデのやり方だったのでしょう。戦力の温存はしないのです。これは何としても征服を成し遂げるためだったはずです。大軍を動員すれば、それだけ征服を成し遂げる可能性が高まるのは間違いないだろうからです。この『おびただしい大軍』が、実際にどのぐらいの軍団だったのか、また実際の人数はどれぐらいだったのかは、分かりません。
『見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。』」』
ベン・ハダデは『おびただしい大軍』を動員しましたから、アハブとイスラエルは勝てそうもないと感じたかもしれません。ベン・ハダデは32人もの王を服させた強大な大王なのです。その大王ベン・ハダデが全力を出すのですから、勝利の見込みを持てなくても不思議ではありませんでした。先にアハブが勝利宣言をしたのは、単に強がっていただけでしょう。何故なら、最初にサマリヤが包囲された際、アハブはベン・ハダデに対して降伏したのだからです。しかし、神は『おびただしい大軍』を動員させたベン・ハダデをアハブ『の手に引き渡』されます。このため、アハブが勝ち、ベン・ハダデが負けることになります。もし神が働きかけて下さらなければ、アハブはとてもベン・ハダデに勝てなかったでしょう。けれども神がベン・ハダデを渡されるので、アハブは本来であれば勝てない相手に勝てるわけです。人間の見方がどうであれ、神が勝利させて下さる側こそ勝利を得られるのです。神はここで『見よ』と言っておられます。これは、これから神が実現して下さる勝利をよく注目せよという意味でしょう。神がアハブに敵を渡して下さるのです。であれば、どうしてアハブはその出来事を重視しなくていいことがあるのでしょうか。
このようにしてアハブは神こそ『主であることを知』ることとなります。何故なら、イスラエルがアラムに打ち勝つというのは、神の働きかけがなければ起こり得ない出来事だからです。ですから、アハブはその勝利において神こそ真の神であられることを知るわけです。神がこのように御自分をアハブに知らせて下さるのは、御自分の栄光を現わされるためです。アハブがそれまで拝んでいたバアルを偽りの神であると知り、神こそ真の神であると知って恐れたり崇めたりするならば、それは神の栄光となるからです。
【20:14】
『アハブが、「それはだれによってでしょうか。」と尋ねると、その預言者は言った。「主はこう仰せられる。『諸国の首長に属する若い者たちによって。』」』
ベン・ハダデの大軍に打ち勝てるなどと、アハブはそれまで思っていなかったかもしれません。それは驚くべきことだったはずです。しかし、誰がアラムに勝たせてくれるのかまだ示されていませんでした。アハブはこのことを知りたく思いましたから、『それはだれによってでしょうか。』と預言者に聞きます。
アハブの質問に対し、神は預言者を通して『諸国の首長に属する若い者たちによって』勝利が与えられると答えられました。『諸国』とは、ソロモン時代からイスラエルに服している諸外国のことでしょう。『首長』とはその外国を統治する権力者だったはずです。『若い者たち』はその権力者に直属する仕え人だったはずです。アハブはまさかこのような者たちがアラムに勝たせてくれるなどと思っていなかったかもしれません。しかし、この『若い者たち』を用いることこそ神の御心だったのです。
『アハブが、「だれが戦いをしかけるのでしょうか。」と尋ねると、「あなただ。」と答えた。』
アハブは『若い者たち』がイスラエルを勝たせてくれると知ったものの、まだアラムに戦いを仕掛ける者が誰なのか知りませんでした。ですからアハブが『だれが戦いをしかけるのでしょうか。』と聞いたところ、神は預言者を通して『あなただ。』と答えられました。何故なら、アハブはイスラエルの王であり、これからイスラエルとアラムが戦うのだからです。王が戦いを仕掛け指揮するのは理に適っています。王ほど『戦いをしかける』のに相応しい人間が他にいるでしょうか。
【20:15】
『彼が諸国の首長に属する若い者たちを調べてみると、二百三十二人いた。そのほか、民の全部、すなわちイスラエル人全部を調べたところ、七千人いた。』
アハブが『若い者たち』を調べたところ、『二百三十二人い』ました。これは実際の人数でしょう。しかし、この「232」(人)という数字に象徴性はありません。「232」に聖書的な意味はないからです。分解して意味を見出すこともできません。この『二百三十二人』が多かったのか少なかったのかは分かりません。しかし、これが多かったにせよ少なかったにせよ、数に問題はありませんでした。何故なら、この『若い者たち』により神が働きかけて下さることは分かっていたからです。彼らにより神はイスラエルに勝利を与えて下さいます。よって、この232人が少なかったとしても、イスラエルが勝利できることは変わりませんでした。神はこの『二百三十二人』を通して、イスラエルが勝利するようにされます。彼らはイスラエル人でなく異邦人でした。つまり、神はイスラエル人を勝利のために用いられません。これはイスラエル人に思い知らされるためでしょう。何故なら、イスラエル人は酷い偶像崇拝の罪に陥っていたからです。このような罪深いイスラエル人に勝利のため用いられる御恵みは与えられないわけです。
アハブは『民の全部、すなわちイスラエル人全部』も調べましたが、こちらは『七千人』がいました。この7000人はサマリヤにいたイスラエル人だったはずです。これがイスラエル人の全てだったと考えるのは難しいでしょう。全イスラエル人が7000人だけしかいないというのは、あまりにも少ないと感じられるからです。7000人であれば、どれか一つの部族における総人数でしょう。この「7000人」は実際的な数だったはずです。しかし、これには象徴性も含まれているでしょう。何故なら、これは完全数「7」かける完全数「1000」に分解できるからです。この分解の内容は、イスラエルがこれから必ず勝利できることを意味しています。神の摂理により、この時のサマリヤには7000人が存在するようになっていたのです。
【20:16】
『彼らは真昼ごろ出陣した。』
イスラエルの群れは『真昼ごろ出陣』しました。すなわち、夕方とか夜中の出陣ではありませんでした。神が『真昼』の出陣を命じられたかどうかは何も示されていません。しかし、真昼の出陣であれ真夜中の出陣であれ、あまり変わりはありませんでした。何故なら、いつの出陣であれ、この戦いでイスラエル側が勝利するのはもう決まっていたからです。このようにして出陣した『彼ら』はアハブにより指揮されていました。何故なら、神が先に言われた通り、この『戦いをしかける』のはアハブだったからです。