【Ⅰ列王記20:16~23】(2024/07/28)


【20:16】
『そのとき、ベン・ハダデは味方の三十二人の王たちと仮小屋で酒を飲んで酔っていた。』
 イスラエルの群れが『出陣した』時、ベン・ハダデは32人の王たちと『酒を飲んで酔ってい』ました。ベン・ハダデは酔うまで多く酒を飲んでいたのです。ベン・ハダデ以外の王たちも酔っていたかどうかまでは分かりません。ここでは『仮小屋』と言われていますが、これは32人もの王たちがいた場所ですから、かなり大きい小屋だったはずです。この時にベン・ハダデが飲んでいた酒の種類については分かりません。恐らく葡萄酒だったかもしれませんが、他の種類の酒だった可能性もあります。この時は王たちの宴が開かれていたのかもしれません。32人もの王たちが集まっていたのですから、そこにはかなりの雰囲気があったことでしょう。

【20:17】
『諸国の首長に属する若い者たちが最初に出て行った。』
 アハブ指揮のもと『若い者たちが最初に出て行』きました。神はこの『若い者たち』によりイスラエルを勝利させられます。ですから、彼らこそが先に出陣せねばなりませんでした。これはイスラエルがアラムと戦う戦いです。しかし、勝利を作り出すのはイスラエル人でなく異邦人でした。イスラエル人は異邦人の後に付いて行かねばなりません。これは神がイスラエルに思い知らせようとされたからです。イスラエルが罪を犯していたので、このようになりました。もし罪を犯していなければ、イスラエル人が最初に出て行って勝利を得ていたことでしょう。神に忠実な者であれば勝利の誉れに与かることもできるからです。

『ベン・ハダデが人を遣わしてみると、「人々がサマリヤから出て来ている。」との報告を受けた。』
 ベン・ハダデは『人を遣わしてみ』たのですが、その理由については分かりません。恐らく様子を確認させるためだったと思われます。この時に遣わされた使いが、どういった種類の者だったか、またその人数はどのぐらいだったか、といった事柄は分かりません。すると、その使いは『人々がサマリヤから出て来ている。』とベン・ハダデに報告しました。アハブが動いたことは明らかでした。これからイスラエルとアラムの戦いが始まるのです。

【20:18】
『それで彼は言った。「和平のために出て来ても、生けどりにし、戦うために出て来ても、生けどりにせよ。」』
 使いから報告を受けた時点で、ベン・ハダデはまだアハブが動いた理由について知りませんでした。すなわち、アハブたちが『和平のために出て来』たのか、それとも『戦うために出て来』たのか、まだ分かりませんでした。ベン・ハダデからすれば可能性としてどちらも想定できたことでしょう。しかし、どちらだったにせよベン・ハダデは『生けどりにせよ』と命じます。これはベン・ハダデがイスラエルを支配することしか考えていなかったからです。ベン・ハダデはイスラエルの群れを生けどりにできると思っていました。もしそう思っていなければ『生けどりにせよ。』とは命じていなかったかもしれません。しかし、アラムがイスラエルの群れを生け捕りにすることはできませんでした。

【20:19】
『町から出て来たのは、諸国の首長に属する若い者たちと、これに続く軍勢であった。』
 サマリヤから出陣した第一の群れは『諸国の首長に属する若い者たち』でした。彼らが第一に出陣することこそ主の指令だったからです。彼らに続いてイスラエルの群れが出陣しました。イスラエルは罪を犯していたので、第二番目に位置しなければなりませんでした。

【20:20】
『彼らはおのおのその相手を打ったので、アラムは逃げ、イスラエル人は追った。』
 神によりイスラエルの勝利が定められていましたから、イスラエル側は『おのおのその相手を打』ちました。すなわち、神がイスラエルの側に敵を打たせて下さいました。もし神が働きかけておられなければ、イスラエルがアラム側から打たれていたことでしょう。こうして『アラムは逃げ、イスラエル人は追』うことになりました。アラムは屈辱を受け、イスラエルは奮い立つことができました。全ては神の働きかけによりました。

『アラムの王ベン・ハダデは馬に乗り、騎兵たちといっしょに、のがれた。』
 イスラエルの群れがアラムを打ち負かしたので、アラム王ベン・ハダデは『のがれ』ました。ベン・ハダデが逃れたのは『馬に乗』ってです。これは馬に乗って素早く逃げなければ、危険な状態となるからです。その逃げる時には『騎兵たち』も『いっしょ』でした。騎兵とは古代の軍隊における最強の兵士たちです。古代ではこの騎兵が王の護衛をいつもしていました。この時にベン・ハダデと共にいた騎兵たちがどれぐらいだったかは分かりません。まさか、ベン・ハダデはこのような敗北を味わうなどと思っていたでしょうか。恐らく少しも思っていなかったでしょう。しかし、思っていなかったことがベン・ハダデに起こりました。これは神がこの戦いにおいて強く働きかけたからなのです。

【20:21】
『イスラエルの王は出て来て、馬と戦車を分捕り、』
 こうしてイスラエルは勝利の流れに乗りました。この時のイスラエル人たちには勝利者らしい勢いがあったはずです。そのためでしょう、ここにおいて『イスラエルの王は出て来』ました。これは陣頭指揮を取りながら戦いが行なわれたということです。このような時であれば王が進み出ても多かれ少なかれ安全な状況だからです。そしてアハブはアラムの『馬と戦車を分捕り』ました。戦争において敵からその所有物を奪い取るのは罪となりません。そのようにして得た物は、盗んだ物というより「戦利品」なのだからです。ですから、この時にアハブが『馬と戦車を分捕』ったとしても問題はありませんでした。神がアハブに『馬と戦車』を与えて下さったのです。

『アラムを打って大損害を与えた。』
 神がイスラエルに勝利を得させて下さったので、イスラエルの群れは『アラムを打って大損害を与え』ました。まさかアハブはこのように勝利できるなどと予想していなかったかもしれません。何故なら、先に見た通り、アハブは初めアラムに対して降伏したからです。降伏したというのは、つまり勝てる見込みが無かったということでしょう。しかし、このようにイスラエルの側が勝つこととなりました。神が働きかけて下さったからです。人間的な強さがどうであれ、神の定められた側が必ず勝つことになります。

【20:22】
『その後、あの預言者がイスラエルの王に近寄って来て言った。』
 イスラエルがアラムに勝利して後、『あの預言者がイスラエルの王に近寄って来』ました。これはアハブに対し神の御言葉を告げるためでした。この22節目において、預言者は「神はこう仰せられる。」と言っていません。しかし、この箇所における言葉が神からの言葉だったことは確かとしていいでしょう。アハブは、この預言者が『近寄って来て』も拒絶したりしませんでした。もしこれがイゼベルであれば、近寄った預言者は悲惨な状態になった可能性が高いでしょう。

『「さあ、奮い立って、これからなすべきことをわきまえ知りなさい。来年の今ごろ、アラムの王があなたを攻めに上って来るから。」』
 預言者は、アラムの王がまたイスラエルを攻めに来ると告げ知らせます。これは明らかに預言です。預言は全て神から出ます。ですから、この箇所で言われているのは、神からの御言葉であることが分かります。アラムがまたイスラエルを攻めるというのは、つまりアラムの心が挫けていなかったことを意味します。もし挫けていればもう二度とイスラエルを攻めようとはしなかったはずだからです。このようにまたアラムが攻めて来るのですから、アハブは『奮い立って、これからなすべきことをわきまえ知』らねばなりませんでした。『来年の今ごろ』にまた敵が攻めて来ることは決定事項でした。神がこの預言者を通してこう言われたからです。それゆえ、アハブは前もってその出来事のため備えをすべきだったのです。『奮い立って』とは、つまり「本気で」というほどの意味です。

【20:23】
『そのころ、アラムの王の家来たちは王に言った。』
 『王に言った』『アラムの王の家来たち』が何人ぐらいだったかは分かりません。『そのころ』とは、22節目で書かれている出来事が起きた頃でしょう。

『「彼らの神々は山の神です。』
 アラム王の家来たちは、真の神のことを『山の神』と言っています。これは神がよく山の場所でイスラエル人に御自分を示しておられたからです。モーセが神の御前にいたのはシナイ山でした。エリヤの求めに神が答えて下さったのも、山においてでした。神の神殿が建てられたエルサレムは山の場所です。キリストも祈るためによく山に行かれました。このように真の神を『山の神』と言うのは、アラム人でない他の民族でもそうだったはずです。つまり、ヤハウェが『山の神』だというのは当時の異邦人社会における一般的な理解だったと考えられます。

 しかし、真の神を『山の神』とするのは正しくありませんでした。何故なら、これは神が単に『山の神』でしかなく、低地の神ではないとすることだからです。実際にアラム人たちは『主は山の神であって、低地の神でない』(Ⅰ列王記20章28節)と言っていました。神が『山の神』であられるのは確かです。しかし、神は『山の神』であると同時に『低地の神』でもあられます。何故なら、神は全宇宙の神であられるからです。神は全宇宙の神であられるものの、山の場所で御自分をイスラエル人によく示しておられただけでした。これはイスラエル人に御自分の至高性をよく分からせるためなのです。しかし、このためにアラム人は、神が単に『山の神』でしかないと思ってしまったのです。「とんでもない思い違い」とは正にこのことでしょう。またアラム人が神を『神々』と言っているのも正しくありませんでした。『神々』であれば多神教となります。真の宗教は多神教でありません。モーセはこのように言いました。『聞きなさい。イスラエルよ。ヤハウェはただ一人である。』パウロもこう言っています。『神は唯一です。』既に知られている通り、神には3つの位格があります。しかし、だからといって3人の神々がおられるというのではありません。何故なら、神は三位一体であられる御方だからです。