【Ⅰ列王記20:23~28】(2024/08/04)


【20:23】
『だから、彼らは私たちより強いのです。しかしながら、私たちが平地で彼らと戦うなら、私たちのほうがきっと彼らより強いでしょう。』
 アラム王の家来たちは、真の神を『山の神』としか思っていなかったため、イスラエルのほうが強かったと考えました。先の戦いは山の場所で行なわれたのでしょう。『山の神』であれば山の場所でイスラエルに味方し力を与えるであろう。そのため、山で戦っていたイスラエルは強かった。このようにアラム人たちは考えたはずです。ですから、彼らはもし『平地』で戦うならば自分たちのほうが強いと考えました。何故なら、もし平地であれば彼らが『山の神』としか思っていなかった真の神はイスラエルに味方しないと思えたからです。確かに、もし神が『山の神』に過ぎなければ、アラム人の言った通り、平地ではアラムのほうが強かったかもしれません。しかし、既に述べたように神は全宇宙の神であられましたから、このようにアラム人が考えたのは間違っていました。アラム人の致命的な思い違いは、真の神を単なる『山の神』とか思っていなかったことです。アラム人は明らかにヤハウェを多く存在する色々な神々の一人に過ぎないと思っていました。しかし、ヤハウェが他の神々と明白に区別されるべき御方であることは間違いありません。何故なら、ヤハウェこそが唯一真の神であられ、他の神々は存在しない偽りの神に過ぎないからです。

【20:24】
『こういうようにしてください。王たちをそれぞれ、その地位から退かせ、彼らの代わりに総督を任命し、』
 アラム王の家来たちが、今度は勝利できるだろうと彼らの考える方法をアラム王に提案します。まず家来たちは、『王たちをそれぞれ、その地位から退かせ』るように求めます。『退かせ』る『地位』とは、戦争における指導の地位だと考えられます。すなわち、これは王職を王たちから取り上げるという意味ではないはずです。先にイスラエルと戦った王たちは、山で戦うことをしたのでしょう。ですから、家来たちから戦争の指導者たちとしてどうかと問題視されたと思われます。これは社長たちが組合の会員から除名されるのと似ているかもしれません。その社長たちは組合の会員としては除名され地位を失うものの、しかし社長であることはずっと変わらないままの状態なのです。家来たちはそれから王たち『の代わりに総督を任命』するように求めます。『総督』とは、アラムの属国に監督官として遣わされていた権力者のことでしょう。古代ローマ帝国もこのような総督を属州に遣わしていました。ユダヤであれば、ローマはこのユダヤに総督ピラトを監督官として遣わしていました。家来たちは、王よりも総督のほうが指揮官としてイスラエル戦により相応しいと考えたはずです。何故なら、総督であればアラム王の意思に全く聞き従うことができるからです。アラム王にとって、支配下にある王たちよりも総督たちのほうが動かし易かったのは間違いありません。

【20:25】
『あなたは失っただけの軍勢と馬と戦車とをそれだけ補充してください。彼らと平地で戦うなら、きっと私たちのほうが彼らより強いでしょう。」彼は彼らの言うことを聞き入れて、そのようにした。』
 アラム王の家来たちは、総督を新しく戦いの指揮官に任命したなら、『失っただけの軍勢と馬と戦車とをそれだけ補充』するように提案します。この失われた『軍勢と馬と戦車』とは、先の戦いで失われたものです。つまり、家来たちは戦力を元通りにすべきだと言うのです。アラムは強大な国でしたから『補充』することができたでしょう。このような補充もできないぐらいであれば、そもそもアラムは32人もの王を服させるまで強大にはならなかったはずです。このように戦力を補充するのは、これからまたイスラエルに戦いを仕掛けるためでした。アラムはイスラエルに負けたものの全く懲りていませんでした。もし懲りていたならば、またイスラエルと戦おうとはしなかったはずです。アラム人たちは、ヤハウェを単なる『山の神』としか思っていませんでしたから、山の戦いでイスラエルが強かったと考えました。しかし、もしアラムがイスラエル『と平地で戦うなら、きっと私たちのほうが彼らより強い』とアラム人たちは考えました。確かに、もしヤハウェが単なる山の神でしかなければ、彼らが考えた通りアラムはイスラエルより平地において強かったでしょう。間違った理解に基づくならば、その結果も間違ったこととなるのがしばしばです。この時のアラム人たちはヤハウェについて間違った認識を持ちましたから、これからアラム人たちが味わう結果も想定と違ったものになったのです。

 このような家来たちの提案は、それを聞いたアラム王にも恐らく良いと思えたはずです。そのためでしょう、アラム王はこの提案『を聞き入れて、そのようにした』のです。アラム王が家来たちの提案を聞き入れたのは、神がそうなるのを御心とされたからです。それというのも神はこれからアラムをイスラエルに対してまた負けるように定めておられたからです。つまり、アラムがまたイスラエルに負けるため、アラムは思い違いに基づく戦争の準備をするべきだったのです。

【20:26】
『翌年、ベン・ハダデはアラムを召集し、イスラエルと戦うために、アフェクに上って来た。』
 神が預言された通り、『翌年』になると、『ベン・ハダデはアラムを召集し』て戦おうとしました。『召集』したのは、前と同じで全軍を召集したと考えられます。しかし、戦争を指揮するのは王たちでなく総督たちとなっていました。このアラム軍が『上って来た』『アフェク』とは、アラムの最も南西に位置しています。そこはキネレテの海の東にあります。アラム軍は、北のほうからこの『アフェク』にやって来たのです。この通り、アラムは自分たちが負けるとも知らず、戦いの準備をしました。もしアラムが自分たちの敗北を予め知っていたとすれば、このように戦おうとしてはいなかった可能性もあります。

【20:27】
『一方イスラエル人も召集され、糧食を受けて出て行き、彼らを迎えた。』
 イスラエル人たちも戦うため『召集され』ました。もう1年前からイスラエルは預言により、このような戦いが起こることを知っていました。ですから、イスラエルは事前にしっかりした戦いの準備をすることができました。この時にイスラエル人が『糧食を受け』たのは、戦いの際に食べるためです。この『糧食』がどのぐらい与えられたかは分かりません。また、どのような食糧だったかも分かりません。ここでイスラエルが『彼らを迎えた』と書かれているのは、攻めて来るアラム軍をイスラエルが対抗する形の戦いだったからです。この逆ではありませんでした。もしこれが逆であれば、イスラエルがアラムに乗り込み、アラムはイスラエルに対抗していたでしょう。このような戦いが起きたのは、神がそのようになるのを望まれたからです。それは神が御自分をイスラエルに示そうとしておられたからです。もし御心でなければ、このような戦いは決して起こらなかったでしょう。

『イスラエル人は彼らと向かい合って陣を敷いた。彼らは二つの群れのやぎのようであったが、アラムはその地に満ちていた。』
 こうしてイスラエル軍とアラム軍が『向かい合って陣を敷いた』状態になりました。まだ血の流れる殺し合いは行なわれていません。この時はただ『陣を敷いた』だけです。しかし、これから血の流れる本格的な戦いが始まるのです。このようにして向かい合ったイスラエルとアラムは『二つの群れ』でした。どちらも群れであることは変わりません。しかし、その群れは一つの群れでありませんでした。この2つの群れはこれから戦い合う敵対した状態にあったからです。この群れはここでどちらも『やぎのようであった』と言われています。異邦人であるアラムだけでなく、イスラエルのほうも『やぎのよう』だと言われているのは注目すべきです。何故なら、これはイスラエルが堕落した異邦人のようになっていたことを示していると考えられるからです。もしこの時のイスラエルが堕落していなければ、イスラエルのほうは「羊」と言われていたかもしれません。ここでアラムが『その地に満ちていた』と書かれているのは、アラム軍の数が豊かだったことを示しています。イスラエルのほうも多い数だったことは確かだろうと思われます。しかし、アラムはこのイスラエルと比較にならないほど多かったはずです。もしイスラエルもアラムと同じぐらいの数だったならば、ここではイスラエルも『その地に満ちていた』と書かれていたに違いありません。しかし、このようにここで書かれているのは『アラム』だけなのです。なお、この戦いにユダは関わっていませんでした。何故なら、これは「イスラエル」がアラムと戦う戦いだからです。ユダとイスラエルが仲良く出来ない敵対した状態にあったことを忘れてはなりません。

【20:28】
『ときに、ひとりの神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「主はこう仰せられる。』
 イスラエル軍とアラム軍が互いに向かい合っているその時、『ひとりの神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言』いました。この人は『神の人』でしたから、モーセやエリヤのごとく神に忠実な人でした。この『神の人』がどのような名前だったかは分かりません。どのような人だったのかも分かりません。この人がアハブに近付いたのは、『主はこう仰せられる。』と言って神からの御言葉を告げ知らせるためでした。

『『アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、』
 ここで神が言っておられる通り、アラム人は『主は山の神であって、低地の神でない』などと言っていました。これはとんでもない間違いでした。確かにヤハウェは『山の神』であられます。しかし、ヤハウェは『低地の神』でもあられます。神は万物を創造された至高の支配者であられるからです。このような間違いをアラム人は言いましたが、それを神は全て聞いておられました。アラム人は神に直接こう言ったつもりなどなかったでしょう。しかし、このように言ったのは、神に直接言ったのも同然でした。ですから、神はこのようなアラム人の言葉を問題視されたわけです。神は、いつでも、どこでも、どのような人の声でも、僅かさえ漏らさず聞かれる御方です。ですから、私たちがアラム人のようになってはなりません。もし私たちがアラム人のようにふざけたことを言うならば、悲惨になることは避けられないだろうからです。

『わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ主であることを知るであろう。』」』
 アラム人たちがヤハウェを単なる『山の神』に過ぎないと言っていたので、神はアハブに『このおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。』と言われました。アラム軍は、本来的にイスラエル軍の勝てる相手でなかったはずです。しかし、神がアラムをアハブの『手に渡』して下さるので、イスラエルはアラムに勝てるのです。本来的に起こり難いことが起こる。これは勝利するのが神にこそかかっているからなのです。神がこのようにアラムをイスラエルに渡して下さるのは、御自分の栄光のためです。何故なら、もしこのまま通常通りの戦いが行なわれてアラムの勝利となるならば、アラム人たちはずっと『主は山の神であって、低地の神でない』と言い続けることになるからです。つまり、ヤハウェは単なる山の神でしかないから、低地でイスラエルに味方できなかったと思うわけです。これは全宇宙を支配しておられる神の栄光に関わります。ですから、神は御自分の栄光ゆえ、イスラエルが本来的に勝てなかった敵に勝利できるようにされるのです。つまり、神はイスラエルのためにイスラエルを勝たせられません。イスラエルは罪深い歩みをしていたため、勝利するのに相応しくなかったからです。しかし、神は御自分の栄光が蔑ろにされることを望まれません。このため、神は御自分のためイスラエルを勝利させられるのです。もし神の栄光がここで関わっていなければ、何か他に特別な理由でもない限り、罪深いイスラエルはアラムに勝つことができなかったでしょう。

 このような勝利により、イスラエルは神『こそ主であることを知る』ようになります。何故なら、本来であれば勝てない敵に勝てたのであれば、その勝利が神により与えられたことは明らかだからです。こうしてイスラエルはヤハウェこそが真の神であられると知るようになります。ここにおいてイスラエルはバアルが虚しい偽りの神に過ぎないと悟れるようになります。このようにして御自分をイスラエルに知らせることが神の御心でした。