【Ⅰ列王記20:33~40】(2024/08/18)


【20:33】
『ベン・ハダデが彼のところに出て来ると、王は彼を戦車に乗せた。』
 これまで敵対していたベン・ハダデがアハブのもとに連れて来られ、2人は会うこととなりました。そして、アハブはベン・ハダデを『戦車に乗せ』ます。これはアハブがベン・ハダデを『兄弟』と言ったからであり、仲間であることを示しているのです。恐らくベン・ハダデは戦車でアハブの隣に座らせられたと考えられます。このようにしてアハブは死なず、ベン・ハダデも死なず、2人は幸いな関係へと導かれました。神がこのような状態を造り出されたのです。

【20:34】
『ベン・ハダデは彼に言った。「私の父が、あなたの父上から奪い取った町々をお返しします。』
 もう立場は完全にアハブの有利な状態でしかありません。ベン・ハダデはもう逆らったりすることが許されません。寧ろ、ベン・ハダデはアハブに尽くさねばなりません。何故なら、敗北した者は勝利した者の僕となるからです。そこでベン・ハダデは自分の父がアハブの父から『奪い取った町々』をイスラエルに返すと言います。アハブに敗北しながら、いつまでもそれを持ち続けることはすべきでないからです。ベン・ハダデの父はイスラエルの町々を奪い取っていました。その町々の詳細については、ここで書かれていません。このようにして幸いがイスラエルに与えられることとなりました。神が御自分のためにイスラエルを勝たせられたからです。

『あなたは私の父がサマリヤにしたように、ダマスコに市場を設けることもできます。」』
 これまでベン・ハダデの父は、イスラエル王国の首都である『サマリヤ』に市場を設けていました。アラムのことですから、強制的に傲慢な態度で市場を設けていた可能性があります。しかし、ベン・ハダデはこれからイスラエルのほうがアラムの首都である『ダマスコ』に『市場を設け』て構わないと言います。ベン・ハダデは完全に敗北しただけでなく、命もアハブに助けられました。ですから、ベン・ハダデはこのようにしてアハブに良い態度を示すのが相応しかったのです。もしアラムが敗北していなければ、イスラエルが『ダマスコに市場を設けること』は出来なかったかもしれません。

『「では、契約を結んであなたを帰そう。」』
 ベン・ハダデがアハブに話した事柄は、アハブにとり良いと思えたでしょう。アハブに対しベン・ハダデは良い態度を示しています。ですから、アハブはベン・ハダデと『契約を結』ぼうとします。この『契約』とは仲間として一体になる同盟契約のことでしょう。それは『契約』であり単なる約束とまた違います。ですから、アハブがこのような契約を結ぼうとしたのは大きな意味があります。それは決定的なことでした。ここでアハブが『あなたを帰そう。』と言っているのは、ベン・ハダデがそこから北東にあるアラムの場所へ帰ることです。ベン・ハダデは生きて帰ることが出来ましたが、アハブの求めとして、まずその前に『契約を結んで』からにすべきでした。

『こうして、アハブは彼と契約を結び、彼を去らせた。』
 ベン・ハダデと結ばれた契約は、アハブが自ら進んで結んだ契約でした。アハブは誰かから強制されたりせず、自らこうすることを決定したわけです。ベン・ハダデは自分からこのような契約を結んでほしいと言いませんでした。アハブがこのような『契約を結』んだのは、致命的な過ちでした。まずアハブが異邦人であるベン・ハダデと『契約を結』んだのは、それ自体からして既に間違っていました。何故なら、神は律法でイスラエル人が異邦人と契約を結ばないように命じておられるからです。イスラエルは神の民として聖でなければなりません。もしイスラエルが汚れた異邦人と契約を結べば、異邦人の汚れに伝染することとなります。ですから、アハブは異邦人であるベン・ハダデと契約を結ぶべきでありませんでした。またこのベン・ハダデは、神が聖絶しようとされた者でした。だからこそ、このベン・ハダデはアハブの手に神から渡されたのです。そのため、アハブはベン・ハダデと契約を結ばず、寧ろベン・ハダデを殺すべきでした。それなのにアハブはベン・ハダデを殺さず逃がしました。つまり、アハブはここにおいて二重の致命的な過ちを犯したことになります。

【20:35】
『預言者のともがらのひとりが、』
 ここで言われているのは、イスラエル王国に多くいた預言者の一人です。彼は、神に立てられた本物の預言者でした。しかし、この預言者の名前や詳細については何もここで示されていません。

『主の命令によって、自分の仲間に、「私を打ってくれ。」と言った。』
 この預言者は、同じ預言者である仲間に対し『私を打ってくれ。』と求めました。この求めは預言者が自分で求めたというより、『主の命令によって』求めたものです。ですから、このように求められた仲間は、必ず求められた通りに、その求めた預言者を打つべきでした。そのようにして打たれるのには、後の箇所から分かる通り、しっかりとした意味がありました。

【20:35~36】
『しかし、その人は彼を打つことを拒んだ。それで彼はその人に言った。「あなたは主の御声に聞き従わなかったので、あなたが私のもとから出て行くなら、すぐ獅子があなたを殺す。」その人が彼のそばから出て行くと、獅子がその人を見つけて殺した。』
 預言者から打つように命じられた仲間は、その命令通りにしませんでした。その仲間がどうして命令通りに打たなかったのか何もここで示されていません。推測しか出来ませんが、恐らく人間的な優しさから打とうにも打てなかったのかもしれません。他の理由から打てなかった場合もあるでしょう。いずれにせよ、彼が命令通りに打たなかったのは致命的な過ちでした。何故なら、その命令通りに打たなかったのは、その預言者に聞き従わなかったというより、『主の御声に聞き従わなかった』のだからです。これは誠に大きな罪でした。彼は主の御前で反逆者となったのです。

 この仲間が主の御声に聞き従わなかったため、預言者はこの仲間に対して呪いの宣告を下しました。すなわち、『あなたが私のもとから出て行くなら、すぐ獅子があなたを殺す。』という宣告です。預言者が主の御声に聞き従わないというのは、極めて大きな罪です。それゆえ、そのような預言者は当然の報いとして殺されなければなりませんでした。こうして預言者がここで言った通り、命令通りにしなかった仲間の預言者はすぐ獅子から殺されました。これは正にソロモンがこう言った通りのことです。『御言葉を蔑む者はその身を滅ぼす。』もしこの仲間が命令通りに打っていれば、殺されることも無かったでしょう。この時に用いられた『獅子』は、神の憤りを示しています。神はこの獅子において御自分の怒りを現わされたのです。ですから、この獅子は非常に恐ろしかったと考えて問題ないでしょう。

【20:37】
『ついで、彼はもうひとりの人に会ったので、「私を打ってくれ。」と頼んだ。すると、その人は彼を打って傷を負わせた。』
 預言者が打たれることこそ主の御心でした。ですから、この預言者は誰かから必ず打たれねばなりませんでした。預言者は『もうひとりの人に会った』時、また『私を打ってくれ。』と頼みます。このように頼むのが正しかったのです。この『もうひとりの人』における詳細は何もここで示されていません。この人も、先の人と同じで、預言者の『仲間』だった可能性があります。今度の人は、預言者が頼んだ通り、しっかりと打ちました。今度の人は神に反逆しなかったのです。預言者が打たれた場所は頭部だったはずです。何故なら、このように打たれたので、預言者はこれから『目の上にほうたいを』(Ⅰ列王記20章38節)することとなったからです。この時に預言者を打った人は、打ったからというので、神から罪に定められることがありませんでした。何故なら、その人は暴力の罪を犯したのでなく、神に聞き従っただけだからです。このようにして預言者は頭部が打たれねばなりませんでした。しかし、誰かから打たれなくても頭部に包帯をすることが可能だったのではないでしょうか。このような疑問を持つ人がいるかもしれません。確かに打たれなくても打たれたかのように包帯をすることは出来たでしょう。しかし、神はこの預言者が打たれることを望まれました。それは預言者が打たれるように求めることで、誰が忠実であるか明らかになるためです。人間的に考えれば不条理であると思えても、神の命令だからというので従うのであれば、そこに忠実さが現われることとなります。自分を打つように頼んだ預言者は忠実であり、頼まれた通りに打ったこの人も忠実でしたが、先に打とうとしなかった人は不忠実さを持った人だったのです。

【20:38】
『それから、その預言者は行って道ばたで王を待っていた。彼は目の上にほうたいをして、だれかわからないようにしていた。』
 打たれた預言者は、打たれてからアハブ王に会うため、『道ばたで王を待ってい』ました。この『道ばた』の具体的な場所が何処だったかは示されていません。その時の預言者は打たれた場所に『ほうたいをして』、『だれかわからないようにしてい』ました。これはこれから行なわれるアハブとの話の流れを円滑に進めるためでした。

【20:39】
『王が通りかかったとき、彼は王に叫んで言った。』
 預言者は、明らかに王が通る道を前もって知っていました。でなければ、道にいて王に会うことはかなり難しかっただろうからです。こうしてアハブ王は預言者と会いましたが、アハブはこの預言者が預言者であると分かりませんでした。何故なら、預言者は包帯をして誰か分からないようにしていたからです。これは、これからの流れを妨げなく進めるために必要なことでした。そして、預言者は『王に叫んで言』いました。『叫ん』だのは、力強くアハブに語るためです。

【20:39~40】
『「しもべが戦場に出て行くと、ちょうどそこに、ある人がひとりの者を連れてやって来て、こう言いました。『この者を見張れ。もし、この者を逃がしでもしたら、この者のいのちの代わりにあなたのいのちを取るか、または、銀一タラントを払わせるぞ。』ところが、しもべが何やかやしているうちに、その者はいなくなってしまいました。」』
 アハブに会った預言者は、自分に起きた出来事を語ります。しかし、これは実際に預言者に起きた出来事だと言えません。つまり預言者は、自分に起きたかのようにしてここで語っているわけです。預言者は、まず自分が『戦場に出て行』ったと語ります。すると、ある人に見張りを命じられることとなりました。もし見張ることが出来なければ、預言者は『いのち』か『銀一タラント』の代償を払わねばなりませんでした。こうして預言者は、命じられた通り見張ることになったのです。しかし、この預言者は完全に見張ることができず、見張るべき者を逃してしまいました。これは預言者にとって大変な事態となったわけです。しかし、ここで言われているのは預言者というよりアハブのことでした。すなわち、この話の中で見張りを命じられた者はアハブであり、見張られるべき者はベン・ハダデでした。これは直接に対応する者を示さないことで、アハブに弁解の余地を無くすためでした。これ以外にも、このような言い方の話を、神と預言者はしばしば語っていました。それは語られている者がまさか自分について語られているとは思わないようにするためでした。もし最初からそのことが分かれば、語られている者から望みの反応を得られなくなりかねないからです。