【Ⅰ列王記20:40~21:4】(2024/08/25)
【20:40】
『すると、イスラエルの王が彼に言った。「あなたはそのとおりにさばかれる。あなた自身が決めたとおりに。」』
預言者は自分に起きたかのごとき出来事を知らせたことで、アハブにどうしたらいいか聞いたわけです。何故なら、古代において王は裁判官の役割も持っていたからです。ですから、ここにおいてアハブはこの預言者に対する裁判官となったわけです。しかし、預言者がここで本当にどうすればいいか聞いたのではありません。預言者が話していたのは他でもないアハブのことだったからです。こうしてアハブは、この預言者が『そのとおりにさばかれる』と言いました。つまり、預言者は見張りで失敗した代償として『いのち』か『銀一タラント』を失わねばなりません。何故なら、もし見張りを失敗したらそのような代償があっても構わないと預言者『自身が決めた』のだからです。この話の中で、預言者は見張りを引き受けることに同意したわけです。もし見張れなかったことによる代償を払うのが嫌ならば、最初から見張りを引き受けなければ良かったのです。しかし見張りを引き受けると『決めた』のですから、預言者は見張れなかった代償を払うべきだったのです。このようにアハブが言ったのは誠にもっともでした。アハブは理に適ったことを言いました。しかし、そのように言わせることこそ預言者の狙いでした。既に述べた通り、預言者が話しているのは正しくアハブのことだったからです。こうしてアハブは自分自身で自分から弁解の余地を全く失わせてしまいました。
【20:41】
『彼は急いで、ほうたいを目から取り除いた。そのとき、イスラエルの王は、彼が預言者のひとりであることを見た。』
預言者はもうアハブから求めていた応対を引き出せました。このため、預言者は『ほうたいを目から取り除』きます。アハブが自分のことであるとは知らず自分について厳しく語ったため、もう弁解の余地は無くなったのですから、預言者がまだ自分を隠し続ける必要も無くなったのです。これから預言者は、預言者として神からの御言葉をアハブに告げ知らせなければなりません。ですから、預言者は『ほうたいを目から取り除い』て自分を明らかにする必要がありました。こうして、アハブは『彼が預言者のひとりであることを見た』のです。それまでアハブはまさかこの人が預言者であるなどと少しも思わなかったことでしょう。であれば、この預言者はかなり上手く自分を隠していたことになります。預言者がそのようにしているのは正しいことでした。何故なら、もし最初からアハブに預言者だと気付かれたならば、アハブはそもそも預言者とのやり取りに応じていなかった可能性があるからです。
【20:42】
『彼は王に言った。「主はこう仰せられる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」』
預言者が預言者として神からの御言葉をアハブに告げ知らせています。『主はこう仰せられる。』とは、それが正しく神からの御言葉であることを示しています。つまり、この預言者から出た言葉ではないわけです。
ここで神が『わたしが聖絶しようとした者』と言われたのは、ベン・ハダデを指します。神はベン・ハダデの聖絶を求められました。何故なら、アラム人たちはヤハウェを単なる山の神に過ぎないとしたからです。このような冒涜の侮辱は、聖絶に値しました。だからこそ、神はこのベン・ハダデおよびアラムをアハブの手に渡されたのです。ところが、アハブはこのようなベン・ハダデを殺して聖絶しませんでした。それどころかアハブは契約を結んでベン・ハダデが逃れるようにしました。つまり、アハブは御心と真逆のことをしました。アハブは実に大きな罪を犯したのです。アハブは致命的なことをしました。ですから、神はこのような罪を犯したアハブが罰されるようにされます。まず、アハブの命はベン・ハダデの命に代えて失われねばなりません。神の御心はベン・ハダデが死ぬことでした。アハブはその御心を全く妨げたのです。よって、アハブはベン・ハダデを死なせなかった代わりに死ななければなりません。また、それだけでなくアハブの民すなわちイスラエル国民も、ベン・ハダデの民の『代わり』として罰されねばなりません。アハブがベン・ハダデを逃がした際は、ベン・ハダデと共にいたアラム人たちも聖絶されませんでした。本来であれば王だけでなくアラム人の全てが聖絶されるべきだったのに、アハブは王以外の民をも聖絶することがありませんでした。このため、アラムの民に変わってイスラエルの民が罰せられねばなりませんでした。このようにしてアハブは自分が犯した致命的な罪に対する正当なる罰を受けることとなりました。忌まわしい罪を犯したので、こうなったのです。もしアハブが御心を行なっていれば、アハブは寧ろ祝福されていたことでしょう。
【20:43】
『イスラエルの王は不きげんになり、激しく怒って、自分の家に戻って行き、サマリヤに着いた。』
アハブは、まさか預言者が自分について言っているなどと気付かず、自分のことを厳しく取り扱いました。アハブは、話の中における者が見張れなかった代償を払うべきだと言いました。しかし、その者こそ正にアハブだったのです。ですから、アハブは自分で言った通り、自分がベン・ハダデを逃した代償をしっかり払わねばなりませんでした。アハブは、預言者からこのようにして神の宣告を告げ知らされるなどと予想してもいなかったことでしょう。アハブは恐らく騙されたと感じた可能性もあるでしょう。そもそもアハブは自分が悪いことをしたと感じていなかったかもしれません。すなわち、ただアハブはベン・ハダデに憐れみを与えただけのつもりだったかもしれません。しかし、その憐れみは、神の御前において正しい憐れみではありませんでした。この通り、アハブは自分の致命的な過ちに対する宣告を受けました。このため、アハブは『不きげんになり』ました。しかし、こうなったのはアハブが罪を犯したからです。アハブが神を不快にさせたので、神も報いとしてアハブを不快にされたのです。こうしてアハブは『激しく怒』りました。何故なら、預言者から告げ知らされた神の御言葉に反論できないからです。アハブは話の中において自分自身から弁解の余地を取り去ったのですから、神の宣告を黙って聞き入れる他はありませんでした。ですから、アハブはどうしようもなくなり怒るしかなかったのです。そして、アハブは『自分の家に戻って行き、サマリヤに着』きました。本来であればアハブは勝利の喜びに満ちつつ帰れたことでしょう。しかし、アハブは神の御心を損ねましたから、帰りの歩みは怒りに満ちたものとなったのです。「自業自得」とは正にこのことでしょう。私たちもアハブのようにならないため、神の御心を損ねないようにすべきです。もし神の御心を損ねるならば、私たちはアハブのようになっても文句を言えないのです。
【21:1】
『このことがあって後のこと。イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていた。それはサマリヤの王アハブの宮殿のそばにあった。』
『このこと』すなわち預言者が神からの御言葉をアハブに告げ知らせ、アハブがサマリヤに着いたことから『後のこと』が、これから書かれています。この『後』がどれぐらいの時間だったかは分かりません。この箇所から新しい章が始まるのは適切な区切りでした。聖書の章と節における区切りは人間が勝手に割り振った霊感されていない区切りですから、適切でなければ問題視しても罪にはなりません。
ここで書かれている『イズレエル』とはイスラエル王国の場所であり、それはティルツァから30kmほど北に位置しています。この『イズレエル』にいた『イズレエル人ナボテ』はイスラエル人です。この『イズレエル』はイッサカル族の相続地でしたから、ナボテはイッサカル族だったはずです。このナボテは『イズレエルにぶどう畑を持っていた』のですが、これは先祖からナボテが受け継いだ地所でした。神がその御恵みにより、この場所をナボテに与えて下さったのです。その『ぶどう畑』は『サマリヤの王アハブの宮殿のそばにあった』のですが、これは神の定めによりこうなっていたのです。神がナボテの畑をアハブ宮殿の側に置いておられたのは、これから起こる出来事が聖書において書き記されるためでした。
【21:2】
『アハブはナボテに次のように言って頼んだ。「あなたのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の家のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑をあげよう。もしあなたがそれでよいと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」』
『宮殿のそばにあった』ナボテの葡萄畑は、アハブにとって魅力的に見えたことでしょう。何故なら、アハブはその場所が『野菜畑』に使えると思ったからです。こんなにも良い場所は他に無い、とアハブが思っていた可能性もあります。アハブはその土地を得たいと思いました。このため、アハブはナボテに対し『あなたのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。』と『言って頼』みます。アハブはもし畑をナボテが譲るならば、『もっと良いぶどう畑』か銀による『それ相当の代価』を与えると約束します。この『もっと良いぶどう畑』が、ナボテの所有する畑より何倍ぐらい良かったのかは分かりません。銀による『それ相当の代価』も、どれぐらいの代価なのか分かりません。アハブは王ですから、もしナボテが畑を譲るのであれば、かなりの対価をナボテに与えていた可能性が高いでしょう。しかし、アハブがこのようにナボテの畑を得ようとしたのは、全く間違っていました。何故なら、律法では次のように言われているからです。『あなたの先祖から受け継いだ昔からの地所を移してはならない。』誰であっても先祖から相続した相続地を売ったり別の場所に変えたりすべきではありませんでした。恐らくアハブはこの律法について知らなかったのでしょう。もしアハブが忠実な人であり、この律法を知っていたとすれば、間違ってもナボテにこのようなことを求めたりはしなかったはずです。この通り、アハブはまたもや最悪に愚かなことをしました。アハブのような愚か者は、何度も愚かなことをするものです。何故なら、愚かな根を持つ愚かな木であれば、愚かな実しか結ぶことができないからです。愚かな木が善良な実を結ぶことは決してできない話なのです。
【21:3】
『ナボテはアハブに言った。「主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」』
アハブは、ナボテにかなり良い条件で交渉したと言えるでしょう。一般的に考えれば、アハブの交渉は何か悪かったと思えないかもしれません。しかし、アハブがした交渉は神の御前で良くありませんでした。ですから、ナボテは『主によって、私には、ありえないことです。』と言ってアハブの求めを拒みます。何故なら、『私の先祖のゆずりの地をあなたに与える』のは、神の御前で罪を犯すことだからです。ナボテが神の御心をよく弁えていたことは間違いありません。このように拒んだナボテは正しかったのです。ナボテに土地を求めたアハブが間違っていました。神の御心に適っていたのはアハブでなくナボテでした。しかし、もしナボテが忠実な人でないか、神の律法を知らなければ、ナボテはアハブの求めに応じていた可能性があります。けれども神はナボテがそうしないように御恵みを注いでおられました。
【21:4】
『アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家にはいった。イズレエル人ナボテが彼に、「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲れません。」と言ったからである。彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった。』
ナボテに求めを拒まれたアハブは『不きげんになり』、『激しく怒り』ましたから、寝台の上で『顔をそむけて食事もしようとはしなかった』ほどになりました。この振る舞いはアハブがどれだけ不満を持ったかよく示しています。しかし、アハブはそもそもこのような事柄を求めたことからして間違っていました。アハブは本来ならば求めるべきでない事柄を求めたのですから、このように拒まれて『不きげんにな』ったとしても自業自得なのです。しかし、アハブは拒まれたからといっても、ナボテを捕えたり酷くしたりしませんでした。そこまでするほどアハブは分別を失っていませんでした。これがカリグラ帝であれば、拒んだナボテを捕えて酷くしていた可能性が高いでしょう。カリグラならばナボテから強制的に土地を取り上げていたかもしれません。