【Ⅰ列王記21:5~16】(2024/09/01)
【21:5】
『彼の妻イゼベルは彼のもとにはいって来て言った。「あなたはどうしてそんなに不きげんで、食事もなさらないのですか。」』
イゼベルはアハブ王の妻でしたから、アハブの『もとにはいって』来ることができました。その時にイゼベルは『不きげんで、食事もなさらない』アハブの姿を見ましたから、どうしてそのようにしているのか不思議に感じたはずです。そのためでしょう、イゼベルはどうしてアハブがそのようにしているのか聞きます。この時のイゼベルは、まだアハブとナボテのやり取りについて知らなかったのです。イゼベルがこのように聞いたこと自体は何もおかしくありません。しかし、これからのイゼベルはおかしくなります。
【21:6】
『そこで、アハブは彼女に言った。「私がイズレエル人ナボテに『金を払うからあなたのぶどう畑を譲ってほしい。それとも、あなたが望むなら、その代わりのぶどう畑をやってもよい。』と言ったのに、彼は『私のぶどう畑はあなたに譲れません。』と答えたからだ。」』
イゼベルから不満の理由を聞かれたアハブは、ナボテとのやり取りについて詳しく話します。ここでアハブが話している内容は、既に見たことですから、どういうことなのか説明する必要は無いでしょう。アハブは確かなところ、イゼベルにこうして話すべきではありませんでした。何故なら、イゼベルとは邪悪な者だったからです。アハブがナボテのことをイゼベルに話したのは、現代日本で言えば極悪の犯罪者に善良な人の情報を知らせるのと一緒です。ここでアハブは、あたかも自分が惨めな被害者でもあるかのごとくイゼベルに話しています。しかし、ナボテは何も悪くありませんでした。既に述べた通り、悪いのは全くアハブのほうでした。それなのにアハブはここでナボテこそ悪者なのだと言わんばかりに話をしています。ここに罪深いアハブの愚かな異常さがありました。
【21:7】
『妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権をとっているのでしょう。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私はイズレエル人ナボテのぶどう畑をあなたのために手に入れてあげましょう。」』
不満の理由をアハブから聞いたイゼベルは、アハブのためにナボテが所有する畑を得ようとします。ここでイゼベルはかなりの自信を持っているように見えます。しかし、その自信は傲慢に基づく自信でした。イゼベルはアハブが『起きて食事をし、元気を出』すように求めます。イゼベルの企みによれば、もうアハブにはナボテの畑が手に入るからです。アハブがこう言われた通りに食事をしたかどうかは分かりません。ここでイゼベルはアハブが『イスラエルの王権をとっている』と言いました。これは「王権があるならば国内で出来ないことなどあるのか。」という意味でしょう。しかし、王権があっても非道なことをしていいはずはありません。アハブは、このようなイゼベルの意思を拒まなかったようです。それは、これから書かれている内容でイゼベルが好き放題にしていることからも分かります。
【21:8】
『彼女はアハブの名で手紙を書き、』
こうしてイゼベルはナボテの畑をアハブに得させるべく、『アハブの名で手紙を書き』ました。しかし、手紙の内容自体はイゼベルの作ったものでした。ここにイゼベルの狡猾さがあります。
『彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った。』
イゼベルは邪悪な手紙を、アハブ『の印で封印し』ました。これは、もう手紙の内容が決定的になったことを意味します。何故なら、古代において王の封印は絶対的な意味を持っていたからです。こうしてイゼベルは『ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った』のです。この『長老たちとおもだった人々』の詳細については分かりません。その人たちに、イゼベルはアハブの名のもとに忌まわしい手紙を書き送ったのです。この通り、イゼベルはまたもや邪悪なことをしました。このイゼベルもそうでしたが、邪悪な者の邪悪さは、その行ないにおいてまざまざと現われます。ですから、キリストも言われたように、私たちは実を見て木を知ることができるのです。
【21:9~10】
『手紙にはこう書いていた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせ、彼の前にふたりのよこしまな者をすわらせ、彼らに『お前は神と王をのろった。』と言って証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」』
手紙の中で、イゼベルはナボテの畑を得るため、忌まわしいことを命じました。ナボテは自分の畑をアハブに譲りそうにありません。ですから、イゼベルはナボテを殺すべきだと考えたのです。もしナボテが殺されたら、アハブはナボテの所有していた土地を奪い取ることができるからです。それでイゼベルは、『ナボテを民の前に引き出してすわらせ』るよう命じます。これはナボテを極悪の罪人として示すためでした。そして、ナボテの前に『ふたりのよこしまな者をすわらせ』るようにも命じます。これはナボテに対する偽りの証言を行なわせるためには、こういった『よこしまな者』のほうがぴったりだからです。イゼベルは、この『よこしまな者』がナボテに『お前は神と王をのろった。』と言うべきだと命じます。これはナボテを死刑にするためでした。何故なら、律法では神と王を呪うなと命じられているからです。確かにナボテがこのような罪を犯したとすれば、死刑になったとしても文句は言えませんでした。しかし、ナボテは神と王を呪っていなかったでしょう。神において先祖から受け継いだ土地を渡さないよう拒んだナボテが、このような罪を犯すとは考えにくいからです。つまり、これはイゼベルがナボテをはめようとしたのです。イゼベルは本当に忌まわしい邪悪な者だったことが分かります。『よこしまな者』が『ふたり』指定されたのも、律法と関わりがあるでしょう。律法は、2人また3人の証人でなければ罪を立証できないと定めているからです。
【21:11~14】
『そこで、その町の人々、つまり、その町に住んでいる長老たちとおもだった人々は、イゼベルが彼らに言いつけたとおり、彼女が手紙に書き送ったとおりを行なった。彼らは断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせた。そこに、ふたりのよこしまな者がはいって来て、彼の前にすわった。よこしまな者たちは民の前で、ナボテが神と王をのろった、と言って証言した。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石打ちにして殺した。こうして、彼らはイゼベルに、「ナボテは石打ちにされて殺された。」と言ってよこした。』
手紙を受け取った『長老たちとおもだった人々は』、手紙に書かれていた通りのことを行ないました。彼らが『言いつけたとおり』のことを曲げることはありませんでした。この時は、イゼベルにもイゼベルの言葉通りに行なった人々にも、サタンの働きがあったに違いありません。サタンの働きが無ければ、どうしてこのような酷いことを行なえたでしょうか。考えられない話です。この時に殺されたナボテが、死ぬ時にどのような振る舞いをしたかは分かりません。聖書はただナボテが殺された出来事を短く示しているのみです。
こうしてナボテはイゼベルにはめられて、殺されてしまいました。ナボテは処刑されるに値する罪を何か犯していたとでもいうのでしょうか。それについて聖書は何も書いていません。ナボテがそのような罪を犯していたことは恐らく無かったでしょう。つまり、ナボテが殺されたのは、もう全くイゼベルに非があります。このような嘆くべき死に方があるのです。ソロモンもそのような死について語っています。すなわち、「私は正しい者が正しいのに死ぬのを見た。」と。
【21:15】
『イゼベルはナボテが石打ちにされて殺されたことを聞くとすぐ、アハブに言った。「起きて、イズレエル人ナボテが、あなたに売ることを拒んだあのぶどう畑を取り上げなさい。もうナボテは生きていません。死んだのです。」』
こうしてイゼベルの邪悪な企みが全て上手く成し遂げられました。『イゼベルはナボテが石打ちにされて殺されたことを聞』いたからです。神は、このようにイゼベルの邪悪な企みを妨げられませんでした。アハブも事実上、イゼベルの企みに賛同しています。これはイゼベルとアハブの罪深さが神から罰せられるためでした。つまり、この2人は神の御恵みを受けていませんでした。もし受けていれば、罰せられるため罪を犯さないように守られていたはずだからです。このようにしてイゼベルは、アハブにナボテとその土地のことで話をします。イゼベルは、もうナボテの土地をアハブが入手できると話します。ナボテは極悪の冒涜者と見做されて公的に処刑されました。ですから、そのようなナボテの土地をアハブが獲得するのは合法的だと言わんばかりです。ナボテは恐らく子どもや近い親族を持たなかったでしょう。もし持っていれば相続の問題が生じていただろうからです。イゼベルはこの話を『すぐ』アハブに言いました。イゼベルは邪悪だったので、悪を行なうのに素早かったのです。ここでイゼベルがアハブに『起きて』と言っているのは、アハブが不満がってずっと寝台で横になっていたからなのでしょう。イゼベルがアハブから不満の理由を聞いて、ナボテがイゼベルに殺されるまでの間、ずっとアハブは不満のためこのようにしていたと思われます。アハブがそのようにしていたのはかなり長い時間だったと考えられます。このことから、アハブがどれだけ不快になっていたかよく分かるというものでしょう。アハブは自分の支配する民衆の一人から強く拒まれたのです。ですから、人間的な見方をすれば、アハブがナボテのことで不快になるのは自然だったと言えるかもしれません。この通り、イゼベルはまたもや自分の邪悪さをまざまざと示しました。彼女はもう既に預言者の虐殺という極めて邪悪なことをしていました。それに加えてこの度の極悪です。このことから、イゼベルがどれだけ邪悪な者だったか分かります。アハブはこのような者を自分の妻として持っていたのです。
【21:16】
『アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って、イズレエル人ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った。』
ナボテが死んだとイゼベルから聞いたアハブは、『イズレエル人ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行』きました。アハブはイゼベルからナボテがどのように死んだか知らされたのか分かりません。もしかしたら、イゼベルは詳しくナボテの死について話していたかもしれません。しかし、詳しくは伝えなかった可能性もあります。いずれにせよ、アハブにとって、ナボテの死は益となりました。何故なら、ナボテが死んだからこそナボテの畑を入手できるのだからです。このためにこそ、アハブはナボテの畑にまで行くわけです。ここで『立って』と書かれているのは、つまりアハブが不満になって横になっていたからなのでしょう。これは精神的な意味において立つというより、実際的な意味での立つという意味でしょう。アハブがナボテの畑を取り上げに向かったのは『すぐ』でした。これはアハブがどれだけナボテの畑を得たかったかよく示しています。『すぐ』に行けば、それだけアハブの不満もすぐ鎮まることになるのです。このようにアハブはナボテの畑を取り上げるつもりでいました。この時のアハブはどのような思いだったでしょうか。畑が得られることを考えて非常な喜びに満たされていたでしょうか。それともイゼベルがナボテに対してどのような企みをしたのか少し心配していたでしょうか。実際にどうだったか聖書はここで示していません。アハブのことですから、喜びに溢れて『ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った』可能性も高いと見てよいでしょう。