【Ⅰ列王記21:17~29】(2024/09/08)
【21:17~19】
『そのとき、ティシュべ人エリヤに次のような主のことばがあった。「さあ、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いに下って行け。今、彼はナボテのぶどう畑を取り上げようと、そこに下って来ている。彼にこう言え。『主はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。』』
アハブが『ナボテのぶどう畑を取り上げようと』している『そのとき』、エリヤに『主のことば』がありました。神はエリヤに実際の音声で語りかけられたのでしょう。アハブは正に悪事を行なうとしていました。ですから、『そのとき』に神がエリヤを通して働きかけるのです。
神は、アハブのことを全て完全に見ておられました。ですから、神はアハブがナボテの畑を取り上げようとしているとエリヤに知らせます。神はエリヤにこのアハブに『会いに下って行け』と言われます。ですから、エリヤは必ずそうせねばなりませんでした。神はエリヤを通してアハブに『あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。』と言われます。実際にナボテを殺したのはイゼベルだったと言えます。しかし、神はイゼベルの妻もイゼベルのように『人殺しをし』たと言われるのです。ですから、アハブもイゼベルと共犯者であるため責められねばなりませんでした。この箇所で書かれている通り、エリヤが『主はこう仰せられる。』と言うべきなのは、それが本当に主からの御言葉であることを示すためです。すなわち、エリヤがこれからアハブに告げるのは「私は自分自身でこう告げる。」という意味合いを全く持っていませんでした。もしそれが神からの御言葉でも無いのに、『主はこう仰せられる。』と言えば、それは大きな罪となりました。そのようにする者は、そもそも最初から神の御言葉を受けていないのでしょう。
【21:19】
『また、彼に言え。『主はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。』」』
ナボテがイゼベルにはめられて殺された際は、その死体の血が『犬ども』に舐められました。このように死体の血が舐められたからといって、ナボテが呪われていたことを示すのではありません。もし本当にナボテが呪われていれば、その死体が喰われていただろうからです。血が舐められるぐらいならば、呪われていたとは言えないでしょう。実際にナボテは呪われていなかったはずです。これは単にナボテが悲惨な状態になったことを示しているだけでしょう。この『犬ども』が、どれぐらいの数だったか、またその品種は何だったか、ということは分かりません。しかし、このような犬の詳細は別に分からなくても構いません。神は、この犬どもがアハブの血をもまた舐めると言われます。つまり、これからアハブも殺されて死体になるということです。ナボテの血を舐めたのと同じ犬が、アハブの死体における血も舐めるのです。これは神がアハブに対して報いられるためです。神は、人がした通りのことをその人にもされるからです。『あなたがしたように、あなたにもされる。』と聖書で書かれている通りです。
【21:20】
『アハブがエリヤに、「あなたはまた、私を見つけたのか。わが敵よ。」と言うと、エリヤは答えた。』
エリヤがアハブに会うと、アハブは良い態度を示しませんでした。『あなたはまた、私を見つけたのか。』とアハブはエリヤに言ったからです。これはアハブにとりエリヤが『敵』だったからです。敵とは、いつでもだいたい会いたくないものでしょう。
『「あなたが裏切って主の目の前に悪を行なったので、私は見つけたのだ。』
アハブは神の民イスラエル人でしたから、主なる神に従うべきでした。神の民が神に従うのは、当然のことだからです。ところが、アハブはそのようにしていませんでした。アハブは神を『裏切って』いたのです。アハブは『主の目の前に悪を行なっ』ていました。しかも、それは極めて酷い悪でした。
このため、エリヤはアハブを探して『見つけた』のです。それは神がアハブと会うようエリヤに命じられたからです。神はアハブに対して語ろうとされましたから、エリヤがそのことを告げ知らせるため、どうしてもエリヤはアハブに会わねばなりませんでした。もしアハブが罪深くなければ、エリヤがアハブに会う必要は無かったかもしれません。
【21:21~22】
『今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで断ち滅ぼし、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。』
神が、アハブに対する罰を告げておられます。アハブはその犯した罪のため、自分に属する者をも不幸にすることとなりました。すなわち、アハブに属する者は全て罰され除き去られるのです。これは神が契約的な御方だからです。アハブに属する者は、アハブの部分また延長です。本体であるアハブが神により呪われます。であれば、本体であるアハブに属する部分また延長も呪われるわけです。このようにして神はアハブに対する報いがどのようであるか示されました。
神がアハブにこのような『わざわいをもたらす』のは、決して理由なきことではありませんでした。その理由として、ここでは2つが示されています。まず一つ目は、アハブが神の『怒りを引き起こした』からです。アハブはその罪により神を怒らせました。ですから、神の怒りによりアハブは罰せられねばなりません。二つ目は、アハブが『イスラエルに罪を犯させたため』です。アハブは自分が罪を犯すだけでなく、自分の支配する民衆にも罪を犯させました。これは神の御心に適わないため、アハブは報いを受けなければならないのです。もしアハブが罪を犯していなければ、このような『わざわい』は注がれなかったことでしょう。ですから、アハブに悲惨が齎されるのはアハブの自業自得だったわけです。
【21:23】
『また、イゼベルについても主はこう仰せられる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。』』
神は、アハブだけでなく『イゼベルについても』呪いを告げられます。これはイゼベルがアハブと共犯者だったからです。アハブだけが罰されるということはありません。イゼベルに対する罰は、『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう』ことでした。つまり、これはイゼベルが自分の寿命を全うせずに死ぬことです。イゼベルは罪深くナボテを殺しました。ですから、イゼベルも報いられて殺されるわけです。『いのちにはいのち』と聖書が述べている通りです。『犬が』イゼベルの死体を『食らう』のは、イゼベルに対する呪いを示しています。死体が動物に食われるのは呪いです。これは律法から分かります。ナボテの場合は死体が食われませんでしたから、呪われていませんでした。
【21:24】
『アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」』
『アハブに属する者』は殺されますが、それには『町で死ぬ者』と『野で死ぬ者』の2種類がいます。一方であればもう一方の死に方ではありません。『町で死ぬ者は犬どもがこれを食ら』うというのは、つまり呪われていることを意味します。アハブの呪いが、『アハブに属する者』へも及ぶのです。犬に死体が食われるという惨めさは呪いでなくて何でしょうか。また『野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう』のですが、これも呪われていることを意味します。アハブのゆえ『アハブに属する者』はこういった悲惨を受けねばならないのです。ここで書かれている『犬』と『空の鳥』における数や詳細は、別に分からなくても問題ありません。
【21:25~26】
『アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、主がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行なった。』
アハブは、神をあからさまに『裏切って』いました。アハブは本来ならば神に忠実な態度で従うべきでした。神の民しかも王である神の民が、神に従おうとせず、寧ろ裏切る。これは実に酷いことなのです。このようなアハブは『主の目の前に悪を行な』いました。しかも、アハブのように悪を行なった者は『だれもいなかった』のです。つまり、アハブはこれまでのイスラエル王の中で最も邪悪だったわけです。これでは神から罰されたとしても文句は言えませんでした。
アハブの行なった悪として、ここでは『偶像につき従』ったことが言われています。アハブは神の民でありながら神に従わず偶像に従いました。これは何という忌まわしさでしょうか。これは『主がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのこと』でした。エモリ人がそれにより追い払われることとなった悪を、アハブも行なうとは何ということでしょうか。これはとんでもないことです。ですから、ここではその悪が『忌みきらうべきこと』だと言われています。しかも、それは『大いに』でした。『大いに』とは、悪い意味で酷過ぎたということです。これでは神から罰されたとしても自業自得なのです。
このようにアハブが悪に陥ったのは、『彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからで』した。つまり、もしイゼベルが存在していなければ、アハブはイゼベルからそそのかされていませんでしたから、このような悪に陥ることも無かったはずなのです。聖書が教えるように、夫と妻は『一心同体』です。このため、夫は妻から影響され作用されることから免れません。もし何の影響も作用も受けないとすれば、『一心同体』では無いのでしょうが、そのようなことはありません。それゆえ、アハブは妻イゼベルの唆しを通して大きな悪に陥ったわけです。
【21:27】
『アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。』
神から呪いを告げ知らされたアハブは、かなり激しく揺り動かされたでしょう。偶像崇拝をしていたものの、あくまでもアハブは神の民でした。ですから、神からの御言葉を聞いて、その脳内に激しい動揺が生じたはずです。すると、アハブは『すぐ』に悔いた態度を取りました。これはアハブが本当に強く反省したことを意味しています。そうでなければ『すぐ』には反応しなかったかもしれません。ここで書かれている5つの振る舞いは、どれも本当にアハブが悔いたことを示しています。パリサイ人どもであれば、見せかけからこのような振る舞いをしました。それは実に忌まわしいことでした。しかし、アハブの場合は心からの反省によりこうしたのです。それは次の節を見ても分かることです。ここでアハブの悔いた振る舞いが「5」つ示されているのは、象徴的な意味を何も持たないでしょう。単にアハブが強く悔いていたということ。これがこの「5」つの振る舞いからよく分かることです。
【21:28~29】
『そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。「あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。』
神の御言葉を聞いたアハブが悔いた態度となったので、『ティシュベ人エリヤに』対し『主のことばがあ』りました。神は、アハブの態度を全て御覧になっておられました。その態度は神の注目するところとなりました。ですから、神はエリヤに御言葉を告げられたのです。ここで神が言っておられる通り、アハブは神『の前にへりくだってい』ました。神がこう言われたのです。ですから、アハブの悔いた態度は本物の態度でした。もしこれがパリサイ人のような見せかけであれば、神はこのように言われなかったでしょう。この通り、アハブは『へりくだってい』ましたから、神は『彼の生きている間は、わざわいを下さない』と言われました。これは神が悔い改める者には憐れみ深い御方だからです。神は憤りより憐れみに傾かれる御方です。ですから、もし神が憐れむならば憤りのほうは取り下げられるわけです。このようにアハブが悔いた態度を見せたのは、アハブにとり幸いな結果となりました。アハブは本当に悔いたからこそ良かったのです。もしこのようにアハブが悔いていなければ、そのまま下されるべき『わざわい』がアハブに対し下されていたことでしょう。