【Ⅰ列王記21:29~22:6】(2024/09/15)
【21:29】
『しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」』
アハブが真に悔いたので、神はもうアハブに災いを下されません。しかし、その代わり、神はアハブ『の子の時代に、彼の家にわざわいを下す』こととされました。神の憤りは罰することを求められます。ですから、アハブに罰が下されないとすれば、本来であればアハブに下されるはずだった罰は、その子孫に持ち越されるわけです。このようにアハブは災いを受けないので、何とか良い状態となりました。しかし、その代わりに子孫が悲惨となります。その災いが下されるのは、アハブの子だけというのでなく、アハブの『家』全体に対してです。つまり、アハブの子だけでなくアハブ王家に属する者であれば誰でも罰せられるというわけです。
神は、そもそも最初からアハブに災いを下すつもりがありませんでした。何故なら、神はアハブが悔いることを予め知っておられたからです。神は、最初からアハブの子孫たちにアハブが受けるべきだった災いを下すつもりでおられました。ですから、アハブが悔いて災いを受けないため、先に見たあのような呪いを告げられたわけなのです。神はこのようにすることがある御方です。ヒゼキヤ王に対しても神はこうされました。
【22:1】
『アラムとイスラエルの間には戦いがないまま三年が過ぎた。』
アハブがアラム王ベン・ハダデと契約を結んでから、『戦いがないまま三年が過ぎ』ました。アハブとベン・ハダデは契約を結んだのですから、アラムとイスラエルが平和な状態を保っていたのは当然のことです。契約を結んだ以上、戦うことはすべきでないからです。この『三年』という年数における「3」は、象徴性を持っているでしょう。これは「3」ですから、戦いがないままの状態がしっかり確認されているのです。このように神は、戦いがない状態が確認されることを望まれました。ですから、神のゆえにこでは『三年』だったわけです。この『三年』は実際の年数です。しかし、これは象徴性を含んだ実際数です。この『三年』の間は戦いが無かったのですから、アハブはすっかり安心していた可能性もあります。しかし、これからアハブは罰せられて悲惨となるのです。
【22:2】
『しかし、三年目になって、ユダの王ヨシャパテがイスラエルの王のところに下って来ると、』
アラムとイスラエルが平和になってから『三年目』になると、『ユダの王ヨシャパテがイスラエルの王のところに下って来』ました。『ヨシャパテ』はユダ王国における4代目の王です。治世の期間は、アハブとほぼ変わりません。支配していた時期もだいたい同じであり、紀元前870年頃~850年頃です。後の箇所を見るならば、ヨシャパテは平和なことでイスラエルに来たのでしょう。この時のイスラエルとユダには平和な状態があったのです。
【22:3】
『イスラエルの王は自分の家来たちに言った。「あなたがたは、ラモテ・ギルアデが私たちのものであることを知っているではないか。それなのに、私たちはためらっていて、それをアラムの王の手から奪い返していない。」』
ヨシャパテがイスラエルに来ると、アハブは『家来たちに』『ラモテ・ギルアデ』のことで話しました。この『ラモテ・ギルアデ』はマナセ族に与えられた相続地でした。しかし、その場所はアラムの王に奪われ、ずっと奪われたままの状態が続いていました。本来であればこのラモテ・ギルアデはイスラエルのものです。このことは家来たちが『知っている』ことでした。今の日本で言えば、北方領土問題を日本人が誰でも知っているようなものでしょうか。このラモテ・ギルアデはイスラエル王国の北東にあります。アハブはこのラモテ・ギルアデを、『アラムの王の手から奪い返し』たい思いがありました。この時にはユダ王ヨシャパテも来たことですから、ユダに協力をお願いして『奪い返し』たいと思い、そのことで家来たちに話したのでしょう。つまり、アハブは『ラモテ・ギルアデ』のことで『家来たち』に相談したわけです。王がこのように家来に相談するのは普通であり、アハブも例外ではありませんでした。
【22:4】
『それから、彼はヨシャパテに言った。「私といっしょにラモテ・ギルアデに戦いに行ってくれませんか。」』
ラモテ・ギルアデのことで家来たちに話したアハブでしたが、家来たちはラモテ・ギルアデを奪い返したいというアハブの意思に賛同したはずです。家来たちもラモテ・ギルアデがイスラエルに与えられた相続地であることを知っていました。しかし、それはもう自分たちの支配下になく、異邦人であるアラムの王がずっと支配していたままだったのです。このようではどうして家来たちが耐え忍び続けられたでしょうか。ですから、家来たちもラモテ・ギルアデを奪い返そうと願ったことは間違いありません。そこでアハブは、イスラエルに来ていたユダ王ヨシャパテに対し、ラモテ・ギルアデを奪い返すため協力してほしいと願い求めます。『私といっしょにラモテ・ギルアデに戦いに行ってくれませんか。』という言葉は、協力し助けてほしいという意味です。アハブはヨシャパテの協力を得れば、それだけラモテ・ギルアデを奪い返せる可能性が高まると思ったことでしょう。アラムは非常に強い国でした。ですから、ユダ王が来ていたこともあり、アハブは何とかユダと共にラモテ・ギルアデを奪い返したいと強く願ったはずなのです。もしヨシャパテがアハブのもとに来ていなければ、アハブがラモテ・ギルアデを奪い返そうとしていたか定かではありません。ヨシャパテが来ていなかった場合、アハブはずっと奪い返すのを『ためらってい』た可能性もあります。
『ヨシャパテはイスラエルの王に言った。「私とあなたとは同じようなもの、私の民とあなたの民、私の馬とあなたの馬も同じようなものです。」』
ラモテ・ギルアデを共に奪い返してくれと求めるアハブに対し、ヨシャパテは同意します。この時のイスラエルとユダは平和だったため、このように同意できたのです。もし不和の状態があれば、ヨシャパテは恐らく同意していなかったでしょう。『私とあなたとは同じようなもの』とは、つまりヨシャパテとアハブは運命共同体だという意味です。アハブの意思にヨシャパテは全面同意することを伝えたわけです。『私の民とあなたの民』も『同じようなもの』というのも、やはりユダ王国の民とイスラエル王国の民は一心同体だという意味です。ヨシャパテはこのように言い、ユダ王国から兵士たちをイスラエルに協力させてもいいと伝えました。『私の馬とあなたの馬も同じようなもの』であるというのも、やはり意味は同じです。ヨシャパテは自分の国に属する馬を、イスラエルがラモテ・ギルアデを奪い返すために使わせると言っているわけです。このようにヨシャパテは自分も含めユダに関する事柄は、イスラエルの事柄も同然であるとの意思を示しました。ここで3つの事柄が『同じようなもの』と言われているのは、ヨシャパテが必ずイスラエルの戦いに協力するつもりでいたことを示します。ヨシャパテはユダヤの強調する言い方を弁えていたでしょうから、「3」が強調する意味を持つことから、ここで「3」つの事柄について述べたのでしょう。
【22:5】
『ヨシャパテは、イスラエルの王に言った。「まず、主のことばを伺ってみてください。」』
ヨシャパテは全面的に協力するつもりでいたでしょうが、しかし主の御心を重視していました。協力するつもりがあっても、もし主の御心でなければどうしようもありません。御心でない場合、協力すればヨシャパテは罪を犯すことになるのです。ですから、ヨシャパテは『まず、主のことばを伺ってみてください。』とアハブに言います。そうすれば、主がこの戦いについて御心を示して下さるからです。もし御心であればヨシャパテは協力し、御心でなければ協力できません。つまり、ヨシャパテが協力するかどうかは『主のことば』に全くかかっていました。このようにまず主の御言葉を伺うというのは、完全に正しい態度でした。何故なら、聖徒たちは御心を抜きに何かすべきでないからです。ですから、私たちはまず伺いを立ててから事を行なうべきなのです。そうすれば、神は何らかの形で御心を必ず示して下さいます。そうしてから私たちは、このことを、またはあのことをすべきなのです。ダビデも、いつも伺いを立てていました。もし伺いを立てなければ、神の御心を損ない、罪に陥ることともなります。
【22:6】
『そこで、イスラエルの王は約四百人の預言者を召し集めて、』
ヨシャパテが主の御言葉を伺うべきだと言ったのは、アハブにもその通りだと思えたことでしょう。アハブも神の民でしたから、「どうしてそんなことをするのか。」などとは言えませんでした。ですから、アハブはヨシャパテが言った通り、『主のことばを伺』うことにします。こうしてアハブは『預言者を召し集め』ました。この預言者たちから神の御言葉を受けるのです。この『預言者』は偶像の預言者と違ったことでしょう。何故なら、偶像の預言者はもう既にエリヤとの戦いで消し去られていたからです。この預言者が『約四百人』だったのは、十分な数を示す「40」かける完全数「10」に分解できるでしょう。つまり、預言者たちは多くおり十分だったことを示しています。