【Ⅰ列王記22:12~21】(2024/09/29)


【22:12】
『ほかの預言者たちもみな、同じように預言して言った。「ラモテ・ギルアデに攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます。」』
 ゼデキヤ以外の『預言者たちもみな』、アハブに対して預言します。『主は王の手にこれを渡されます。』とは、つまり戦うべきだという意味です。主がアラムを渡して下さるならば勝てないことは決してない、というわけです。しかし、これは偽りを言う霊による言葉でした。アハブはこうして二重に惑わされたのです。それはアハブがアラムと戦うことにより、罰せられ、死ぬためでした。もしアハブが正しく歩んでいれば、罰せられることもありませんから、このように惑わされることは無かったかもしれません。しかし、アハブは正しく歩むべき神の民としての道を自ら惑わし逸れていました。ですから、神もこのようなアハブに報いられ、惑わされるようにされたのです。私たちもアハブのように堕落するならば、このように惑わされてしまうでしょう。しかし、それは私たちに対する神の正当な報いですから、自業自得となります。それゆえ、私たちはアハブのようにならず、正しい歩みをせねばならないのです。

【22:13】
『さて、ミカヤを呼びに行った使いの者はミカヤに告げて言った。「いいですか。お願いです。預言者たちは口をそろえて、王に対し良いことを述べています。お願いですから、あなたもみなと全く同じように語り、良いことを述べてください。」』
 『ミカヤを呼びに行った使いの者』とは、先に書かれていた『ひとりの宦官』(22:9)です。この使いの者は、ミカヤが他の預言者たちと同じように『王に対し良いことを述べ』るようにと求めます。彼らが王に良いことを述べていたのは、偽りを言う霊によりました。それはアハブが惑わされて戦うことで、死ぬためでした。使いの者がこう言ったのは、つまりミカヤが神の言葉を語るなということです。何故なら、人間の言葉に合わせて語ったならば、どうして神からの御言葉を語れるでしょうか。使いの者がこのように求めたのは、とんでもないことでした。彼はミカヤに預言者を止めろと言うのも同然だったからです。もし預言者が神の預言を語らず、人間の言葉に合わせて語ったならば、もはや預言者とは言い難くなるでしょう。

【22:14】
『すると、ミカヤは答えた。「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。」』
 使いの者が求めたことに対し、ミカヤは『主が私に告げられることを、そのまま述べよう。』と言って反対しました。主の御言葉をそのまま告げるというのが、真の預言者として為すべきことだからです。人間に合わせて語るというのは預言者として相応しくありません。そのようにするのであれば、預言者である意味が無くなってしまいます。もしミカヤが使いの者に言われた通りにするぐらいなら、ミカヤは死んだほうがましだと思えたでしょう。実際にミカヤは死を選んでいたかもしれません。そのぐらいの使命感を預言者は持たねばならなかったのです。ですから、ここでミカヤは『主は生きておられる。』と言って神の御前で誓っています。これは何が何でも主の御言葉をそのまま述べるということです。こうして使いの者の求めは虚しく退けられました。

【22:15】
『彼が王のもとに着くと、王は彼に言った。「ミカヤ。私たちはラモテ・ギルアデに戦いに行くべきだろうか。それとも、やめるべきだろうか。」すると、彼は王に答えた。「攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます。」』
 ミカヤはアハブの求めに応じ、アハブのもとに行きました。これはアハブに神が定めておられる偽りの言葉を告げるためです。ミカヤに会ったアハブは、これからラモテ・ギルアデに戦いに行くべきか止めるべきか尋ねます。アハブはミカヤの個人的な意見を聞いたのではありません。神からの御言葉を聞こうとしたのです。このように神の御心を求めること自体は全く正しいことでした。しかし、ミカヤはアハブに対し、他の預言者と同様に『攻め上って勝利を得なさい。』と言います。後の箇所を見れば分かる通り、アハブに勝利が与えられることはありません。つまり、ミカヤも他の預言者と同様に偽りを言ったのです。これは神がアハブに偽りを聞かせようとされたからです。そのようにしてアハブは惑わされ、死の罰を受けねばなりませんでした。

【22:16】
『すると、王は彼に言った。「いったい、私が何度あなたに誓わせたら、あなたは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか。」』
 ミカヤの言葉を聞いたアハブは不満がります。何故なら、ミカヤが偽りを言ったことにアハブは気付いたからです。アハブはこれまで何度も偽りを言うなとミカヤに『誓わせ』ていました。それなのにミカヤは何度も偽りを語り、今回もそのようにしたのです。ですから、アハブがミカヤの言葉をよく思わなかったとしても自然なことだったと言えます。しかしながら、どうしてミカヤは偽らないと誓ったにもかかわらず、このように偽ったのでしょうか。それはアハブが罪深い堕落した歩みをしていたからです。アハブは自ら神に背き、反逆的な歩みをしていました。ですから、ミカヤもアハブの言った通りにしなかったのです。これこそ罪深いアハブに与えられた神からの呪いでした。

【22:17】
『彼は答えた。「私は全イスラエルが、山々に散らされているのを見た。まるで、飼い主のいない羊の群れのように。そのとき、主は仰せられた。『彼らには主人がいない。彼らをおのおのその家に無事に帰さなければならない。』」』
 ミカヤに不満がったアハブでしたが、このアハブに対しミカヤが答えます。ミカヤは、これからイスラエル人が『山々に散らされて』しまうと預言します。それは、『飼い主のいない羊の群れのように』です。『飼い主』とはアハブ王のことであり、『羊の群れ』とはイスラエル人のことです。これはアハブが戦場で死ぬことを示しています。アハブという『飼い主』が死ぬので、彼に飼われていた『羊の群れ』であるイスラエル人は飼い主を失って『山々に散らされて』いるようになるのです。戦場でアハブは死ぬのですが、しかしイスラエル人は死に絶えることがありません。『そのとき』と言われているのは、アハブが戦場で死んだ時のことです。この『そのとき』に、神は『彼らには主人がいない』と言われますが、この『主人』というのもアハブのことです。神が言われた通り、飼い主である主人をイスラエル人は失いましたから、各々が家に帰らなければなりません。後の箇所から分かる通り、これは実際にその通りになりました。この預言が語られた時、まだその内容は実現していませんでした。しかし、その内容はこれから実現することとなります。ですから、ここで言われているのはまさしく神の預言だったことが分かります。この預言は、アハブにとって実に恐るべきものでした。何故なら、この預言はアハブに対し「死ぬだろう」と言われているのも同然だったからです。

【22:18】
『イスラエルの王はヨシャパテに言った。「彼は私について良いことを預言せず、悪いことばかりを預言すると、あなたに言っておいたではありませんか。」』
 ミカヤがアハブにとって『悪いこと』をまた預言したので、アハブは不満をヨシャパテにぶつけます。アハブはここで、「こういう預言がされると分かっていたのでミカヤを呼ぶのは嫌だったのだ。」とでも言おうとしているかのようです。ミカヤが『良いこと』だけ預言していれば、アハブもミカヤを不快に思わなかったでしょう。しかし、ミカヤはアハブの嫌がる『悪いことばかりを預言』していました。ミカヤがそうしたのは、アハブが罪深い堕落した歩みをしていたからです。ですから、アハブがミカヤから不快になる預言ばかりされていたのは、アハブにとり自業自得だったことが分かります。神はミカヤを通して、アハブに思い知らせておられたのです。

【22:19】
『すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。』
 アハブが不満がっているのを見たミカヤは、この機会を捉え、『主のことば』をアハブに聞かせます。その御言葉はアハブが戦慄するような恐るべき内容です。

『私は主が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。』
 ミカヤは、自分が見た天の光景について話します。それは実際における天の光景でした。神がその光景をミカヤに見せられたのです。ミカヤが見た光景では、『主が御座にすわ』っておられました。これは主が天の場所を王として支配しておられることです。そして、『天の万軍がその右左に立ってい』ました。『天の万軍』とは、つまり御使いのことです。しかし、後の箇所からも分かる通り、その中には『偽りを言う霊』もいましたから、悪霊もいたことになります。何故なら、聖なる天使がどうして人間に偽りを言わせるのでしょうか。ありえないことです。ですから、『天の万軍』には悪霊も含まれていたことが分かります。その群れは主の『右左に立ってい』ました。どうしてそうなのかと言えば、それは秩序のためか、主の威厳を際立たせるためか、この両方のどちらかでもあったのでしょう。

【22:20】
『そのとき、主は仰せられました。『だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』すると、あれこれと答えがありました。』
 『そのとき』とは、主の周りに天の万軍が集まった時です。その時に『主は仰せられました』が、それは実際の音声でそこにいる皆に聞こえるようにしてでしょう。神は、アハブがラモテ・ギルアデに『攻め上』ることを求められました。それは彼が『ラモテ・ギルアデで倒れ』ることで、神の罰が彼に下されるためでした。そのため、神は『だれか、アハブを惑わ』す者がいないかどうか、その場にいる者たちに聞かれます。神はアハブが惑わされて攻め上ることで死ぬことを望まれました。正しい道を自ら惑わす者には、このような刑罰が相応しいからです。『すると、あれこれと答えがありました』が、そこにいた天の万軍が色々と考え話したわけです。その『あれこれ』がどういった内容なのかは具体的に何も書かれていません。それは色々な種類の内容だったはずです。

【22:21】
『それからひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします。』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか。』と尋ねられました。』
 色々と答えがあった中、『ひとりの霊が進み出て』アハブを惑わすのは自分が行なうと話します。この『ひとりの霊』がどういった名前の存在だったかは分かりません。この霊は、アハブを惑わすことにかなり自信があったのでしょう。神は、もう既にこの霊がどのようにアハブを惑わすのか知っておられました。しかし、神はこの霊に『どういうふうにやるのか。』と尋ねられます。これは、実際にやり方をその霊から確認するためであり、またその場にいる他の者たちにもそのやり方を周知させるためでした。神はこのように実際性と周知性を重視されます。