【Ⅰ列王記22:32~38】(2024/10/13)


【22:32~33】
『すると、ヨシャパテは助けを叫び求めた。それで、戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知ったとき、彼を追うことをやめ、引き返した。』
 アラムの戦車隊長たちが戦おうと進んで来たため、『ヨシャパテは助けを叫び求め』ました。ヨシャパテはアラム人がイスラエル王をこそ狙っていることに気付いたかもしれません。 こうであれば、自分はイスラエル王でないとアラム軍に向かって伝えたのかもしれません。こうしてアラムの戦車隊長たちは、ヨシャパテがイスラエル王でないと知ったため、『引き返した』のです。彼らはベン・ハダデからイスラエル王を狙うようにとしか命じられていなかったからです。実に神から死罰に定められていたのは、ただアハブのみでした。このため、ヨシャパテは殺されず助かることとなったわけです。こうしてアハブがヨシャパテに王服を着せた意味は無くなったのです。そのままヨシャパテが勘違いされ殺されたとすれば、アハブの思惑通りになったかもしれないのですが。

【22:34】
『ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。』
 戦車隊長たちが引き返しましたから、アハブはもう死を免れるかとも思えたかもしれません。何故なら、このままであれば、アハブは変装しているため見つからずに済んだと思われるからです。しかし、神の憤りはアハブに変わらず向けられ続けていました。神の御心はアハブが何としても死ぬことだったのです。ですから、神はアハブを死なすため、『ひとりの兵士』に働きかけます。神はこの兵士がアハブの死に繋がる弓を放つよう動かされたのです。こうして、その弓は『イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた』のです。これは致命傷となる傷でした。このようにしてアハブは罪に対する罰を受けました。神がアハブに憤られたので正当なる断罪を下されたのです。このようにアハブを死なすため用いられた『ひとりの兵士』の詳細は分かりませんが、それは別に分からなくても問題ないことです。

『そこで、王は自分の戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。」』
 神の刑罰により致命傷を負ったアハブは、実に悲惨な状態となりました。このままでは死んでしまう。ですから、『敵陣』にい続けることが難しくなりました。このため、アハブは『自分の戦車の御者』に『手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。』と頼みます。これはもし敵陣にい続けるならば、負傷した身体への対処など諸々の困難が生じるためでしょう。

【22:35】
『その日、戦いはますます激しくなった。王はアラムに向かって、戦車の中に立っていたが、夕方になって死んだ。傷から出た血は戦車のくぼみに流れた。』
 アハブが致命傷を負ってから『戦いはますます激しくな』りました。イスラエルはラモテ・ギルアデを取り返したいのですが、しかしアラムはそれを手放したくないからです。どちらも妥協すれば領土を保持もしくは手に入れることが難しい状態だったのでしょう。敵陣から抜け出したアハブは、『アラムに向かって、戦車の中に立ってい』ました。つまり、アハブは敵陣からは抜け出したものの、戦場にはずっといたのです。これは戦場からも抜け出せば、実際的な指示を出すのが難しかったからだとも考えられます。こうしてアハブは『夕方になって死』にました。アハブはヨシャパテに王服を着せる一方、自分は変装したのですから、何とかして神の罰を免れることが出来ると思っていた可能性もあります。しかし、神の刑罰は容赦なくアハブに注がれました。この時にアハブの『傷から出た血は戦車のくぼみに流れ』ました。これは出来事の生々しさをよく示しています。この記述から、私たちはアハブに神から与えられた刑罰がどのようであったかよく感じることが出来るでしょう。

【22:36】
『日没のころ、陣営の中に、「めいめい自分の町、自分の国へ帰れ。」という叫び声が伝わった。』
 『日没のころ』と書かれていますが、古代において『日没』は戦争を一時休止する時間帯でした。何故なら、『日没』には暗くなり、戦いにくくなるからです。暗い中で戦えば、味方を敵を勘違いして殺し合うことにもなりかねません。ですから、『日没』に戦いを休止するのは古代で一般的なことでした。その頃、『陣営の中に、「めいめい自分の町、自分の国へ帰れ。」』という声が響き渡りました。これはアハブがもう死んだからなのでしょう。ベン・ハダデの狙いはアハブを死なすことでしたから、アハブが死んだ以上、もう戦いは止むこととなったのです。ですから、イスラエル軍の誰かが解散の叫び声を出したのでしょう。その『叫び声』の主が誰だったかまでは分かりません。しかし、それは『叫び声』でしたから、陣営の大部分に鳴り響いたはずです。ここで『めいめい自分の町』と書かれているのは、兵士たちが住んでいた町のことです。『自分の国』と言われているのは、イスラエル王国の兵士がユダ王国の兵士と共に戦っていたからです。つまり、イスラエル王国の兵士はイスラエルに帰り、ユダ王国の兵士はユダに帰るべきだと言われたわけです。このような解散命令において、先に語られていた神の預言が成就しました。

【22:37】
『王は死んでからサマリヤに着いた。人々はサマリヤで王を葬った。』
 アハブが生きたままサマリヤに着くことは出来ませんでした。アハブは死の罰を免れることがもしかしたら出来るかもしれないと考えていた可能性もあります。しかし、神はアハブの願いを断ち切られました。それはアハブが罪深かったため罰されるべきだったからです。罪深い者の願いは叶えられることがないのです。寧ろ、罪深い者には、その恐れていることが起こります。『悪者の恐れていることはその身に起こる。』と書かれている通りです。こうしてサマリヤに運ばれたアハブの死体は、人々に葬られました。イスラエルの国中で大きな悲しみがあったかもしれません。しかし、このようになったのはアハブが罪深いためでしたから、なるべくしてこうなったのでした。

【22:38】
『それから、戦車をサマリヤの池で洗った。』
 アハブの『傷から出た血は戦車のくぼみに流れた』のですから、その戦車はアハブの血に染まっていたはずです。しかし、その血は悲惨と不名誉の紛れもない印でした。ですから、イスラエル人はその『戦車をサマリヤの池で洗った』のです。アハブの血が戦車から全て洗い落とされたかどうかは分かりません。付着した血を全て綺麗に出来なかった可能性もあります。いずれにせよ、その戦車は洗われるのが相応しかったのです。このようにアハブは悲惨となり、その乗っていた戦車も洗われなければなりませんでした。もしアハブが正しく歩んでいれば、このような悲惨はアハブに起こらなかったことでしょう。私たちもこのような悲惨を避けるため、決してアハブのようになるべきではありません。

『すると、犬が彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。主が語られたことばのとおりであった。』
 アハブの戦車が池で洗われた時、犬がアハブの血を舐めました。アハブの死体から血を舐めたのではありません。何故なら、アハブの死体はサマリヤで葬られたからです(Ⅰ列王記22:37)。犬は戦車に付着したアハブの血を舐めたのです。このようになったのはアハブが罪深かったからであり、自業自得でした。また戦車が洗われた『サマリヤの池』では、『遊女たちがそこで身を洗』うこととなりました。遊女とはイスラエル社会において相応しくない罪の職業です。そのような存在が、アハブの戦車が洗われたのと同じ池で、『身を洗った』のです。これは罪深いアハブに対する神からの罰でなくて何でしょうか。このようにして『主が語られたことばのとおり』となりました。神はアハブを必ず罰しようとしておられました。ですから、アハブはこのようにして悲惨な死に方をすることとなったのです。