【Ⅰサムエル記1:1~28】(2022/07/24)
「サムエル記」は2つの巻に分かれています。この最初の巻では、サムエルの誕生から始まり、ユダヤ最初の王としてサウルが任じられ、このサウルが死ぬまでの話を記しています。この巻で書かれている出来事の時期は紀元前11世紀です。しかし、この巻が書かれたのはそれから数百年後のことです。この巻は前の巻であるルツ記からの続きとなっています。それというのも、この巻は内容的にどう考えてもルツ記と繋がっているからです。このサムエル記の第一は、学ぶべき事柄が多く書かれています。例えば、イスラエルに王また王制が立てられたことから私たちは王なるキリストとその御国における支配を学べます。またサウルの致命的な失態を信仰生活における教訓にすることができます。またダビデに降りかかった数々の苦難を知ることにより、私たちは人生の歩みにおいて味わう苦難を耐え忍びやすくなります。何故なら、ダビデは私たちより遥かに大きな苦難を何度も味わったのによく耐えていたからです。学べる事柄はこれ以外にも多くあります。心に刻み付けるべき御言葉もこの巻には多くあります。また、この巻はそれほど理解が難しくありません。預言者の書とは違い、それほど悩まされることもなくスラスラ読み進められるはずです。
【1:1~2】
『エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。』
巻の最初に出て来る『エルカナ』はサムエルの父です。とはいってもサムエルをエルカナが幼い時から育てたわけではありません。エルカナはエフライム人でしたから、その子サムエルもエフライム人でした。
このエルカナには『ふたりの妻』があり、一夫多妻は神の御心ではありませんでしたが、複数の妻を持つのはこの時代の一般的な風習でした。ですから、エルカナは複数の妻がいても罪悪感を持たなかったはずです。ヤコブやダビデやソロモンも一夫多妻でした。
エルカナの妻のうち、ハンナは子どもを産んでいませんでしたが、これは主が彼女の胎を閉ざしておられたからです。不妊を生じさせる医学的な要因は、二次的要因でした。「子を産ませない」また「今はまだ子を産ませない」という神の御心こそ不妊における一次的要因です。この一次的要因に基づいて、医学的な要因である二次的要因が生じています。私たちは思い違いをしないようにすべきです。この世は二次的要因を見るだけに留まり決して一次的要因に目を向けようとしないからです。
【1:3】
『この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。』
エルカナは『毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた』のですが、これはシロに契約の箱と聖所があったからです。というのも神への生贄は聖所のある場所で捧げられるべきだからです。以前はベテルに聖所がありました(士師記20:26~27)。エルカナはこのシロで、やがて来たるべきメシアを象徴する生贄を捧げていました。ですから、エルカナはメシアを持っており贖われていたことが分かります。
このシロにいた祭司エリは、祭司ですからレビ部族の人でした。その2人の息子もレビ人である祭司でした。息子の一人である『ピネハス』は明らかにあのピネハスから取られた名前でしょう。
【1:4~5】
『その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。また、ハンナに、ひとりの人の受ける分を与えていた。彼はハンナを愛していたが、主が彼女の胎を閉じておられたからである。』
エルカナはペニンナと彼女の生んだ子どもたちに『受ける分』を与えていましたが、これは食物か食物を買うためのお金だったはずです。ペニンナは既に複数の子どもをエルカナとの間に生んでいました。これに対しハンナはまだ1人さえもエルカナに子どもを生んでいませんでした。しかし、エルカナはハンナを愛していたので、ハンナにも受ける分を与えていました。一夫多妻者には2種類のタイプ、すなわち全ての妻を平等に愛そうとするタイプとより好きな妻をより愛するタイプがあります。エルカナは恐らく前者のほうだったと推測されます。
【1:6~8】
『彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」』
ハンナを憎むペニンナは、自分がもう何人も子どもを産んでいるのにハンナはまだ1人も産んでいないので、ハンナの精神を痛めつけるようにしました。ハンナはただでさえ不妊の悩みで苦しんでいたのですが、ペニンナはそのうえ更に侮辱の苦しみを加えたのです。これは毎年聖所に上って行くごとに行なわれました。実に酷いことだと言わねばなりません。このため、ハンナは大きな悲しみに沈み食事をしようともしません。女にとって不妊の悩みは大きいものがあります。その悩みを種にペニンナから苛立たせられたのですから、これはハンナにとって強烈な精神的ダメージだったのです。ところが男という性は女に対して鈍感な傾向を持っているので、夫のエルカナはどうして妻のハンナが悲しんで食事をしようとしないのか悟れませんでした。女からすれば「少しぐらいは察してほしい。」と思うかもしれませんが、なかなか男は悟れないものなのです。ここでエルカナは自分がハンナにとって『十人の息子以上の者』だと言っていますが、この『十人』とは象徴数です。つまり、エルカナはここでこう言っているのです。「ハンナよ。あなたにとって無数の子にさえ優る夫の私が共にいるのにどうして悲しんでいるのか。私と共にいるのであれば喜んでいるべきではないのか。」
エルカナの妻2人について考えても分かる通り、一夫多妻には問題が付き物です。夫のほうは問題ないかもしれませんが、複数いる妻たちが互いに仲良く出来ないのです。どの妻も自分一人だけが夫を独り占めしたいと願っており、自分が最も夫に気に入られたいと思うのです。出来るならば自分以外の妻は消え去ってほしい。ですから、ペニンナのように他の妻に対して平気で酷いことができます。夫を独り占めできないので夫を殺害してしまった妻も古代にはいました。これは複数の妻を持ったことに対する神からの呪いです。神の御心に適わないことをしたので神から裁かれてしまうのです。1人だけしか妻を持たなければこういったことは起こり得ません。何故なら、1人しかいない妻は夫のことで競争者また敵対者を持たないからです。全て人は、律法の命じる通り、1人の妻だけで満足すべきです。一夫多妻を求める者は裁きを自らの身に招こうとしているのです。
【1:9】
『シロでの食事が終わって、』
『シロでの食事』とは、神に捧げられた生贄の肉をレビ人と共に食べて喜び合うことです。これは律法で規定されていることです。もし生贄の肉をレビ人と共に食べ、喜びを共有しなければ、命令違反のゆえ罪となりました。ハンナが悲しんで食事をしようとしなかったのは、この食事の時だったはずです。
【1:9~11】
『ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」』
不妊の苦しみにペニンナから齎された強烈なストレスが積み重なったので、ハンナの苦悩は非常に大きいものがありました。このためハンナは『激しく泣いた』ほどでした。そして、ハンナはどうしても子を産みたかったので、もし子が産まれるならばその子を主に捧げるという誓願を立てて祈りました。これは主に対する誓願でしたから正しい誓願でした。ハンナは産まれた子『の頭に、かみそりを当てません』と言っていますが、これはナジル人に関する定めと同じです(民数記6:5)。ハンナが剃刀を子の頭に当てないと誓ったのは、つまりその子を全く主に捧げるという表明でした。何故なら、剃刀を頭に当てるべきでないナジル人とは神に捧げられた存在だからです。しかしながら、ハンナの子(サムエル)がナジル人というわけではありませんでした。ハンナはその子を主に捧げるのですから、その子はハンナのものになりません。それにもかかわらずハンナが子を産むため誓願したというのは、ハンナがどれだけ不妊で悩んでいたかよく示しています。つまり、ハンナはたとえ産まれた子が自分のものとならなかったとしても子を産みたいと思っていたのです。このような誓願を立てたハンナは敬虔な女性でした。神はこのハンナから御自分の忠実な僕となる預言者サムエルを産ませられました。
この時に祭司エリは『主の宮の柱のそばの席にすわっていた』のですが、これは祈りを捧げているハンナをすぐ近くで見ることのできる場所でした。神は、エリが祈っているハンナを近くで見守るように定めておられました。
【1:12】
『ハンナが主の前で長く祈っている間、』
ハンナが主に捧げている祈りの時間は長い時間でした。ハンナの苦悩が大きいので自然と祈る時間も長くなっていたのです。ハンナが不妊の苦悩の他に何か祈っていたかどうかは分かりません。またハンナが実際にどれだけ長く祈っていたのかも分かりません。ここで、祈りを長くするのはあまり良くないのではないか、と思う人がいるかもしれません。何故なら、キリストはパリサイ人の長い祈りを非難されたからです(マタイ23:14)。確かに主は長い祈りを問題視されました。しかし、主が問題にされたのは虚栄のため行なわれる長い祈りです。ハンナの祈りが長くなったのは、虚栄からでなく単に自然と長くなったからでした。このようであれば別に祈りが長くなっても問題はありません。もしキリストが全ての長い祈りを非難されたのだとすれば、御自分をも非難されたことになります。何故なら、主はよく山で長い祈りを捧げておられたからです。ですから、私たちは次のように弁えるべきです。「ハンナのように自然と長くなるのであれば24時間祈っても問題はないが、パリサイ人のように虚栄のために見せつけて祈るぐらいであれば全く祈らないほうがましである。」もし自然と長くなるのであればそれは良い印であると言えます。その人は祈りにおいて神とその御恵みまた憐れみなどを強く豊かに求めているのですから。
【1:12~18】
『エリはその口もとを見守っていた。ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。』
ハンナは心で祈っており口が僅かに動くだけでしたから、その様子を見ていたエリはハンナが酔っていると勘違いしたものの、エリが注意したところ酔ってはいないと分かりました。このような勘違いは誰にでもあるものです。そして、エリはハンナに幸いな言葉を与え、ハンナもエリに良く思われるようにと言って応じました。
神の使いである祭司から与えられる幸いな言葉は、心悩む者に大きな励ましを齎すものです。また、ハンナは苦悩を神に打ち明けたので精神的な解放がありました。このようにしてハンナの状態は少し前と大いに変わりました。私たちが悩む者に良い言葉をかけるならば励ましとなる可能性は決して低くありません。また、悲しむ者がいれば思うままに悲しみを発散させてやるべきです。「悲しみをこらえるべきだ。」などとは言わないほうがいいでしょう。この2つがあれば、苦悩している者はこのハンナのように良くなるかもしれないからです。
【1:19~20】
『翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから。」と言って、その名をサムエルと呼んだ。』
朝になって礼拝を行なうと、エルカナたちはラマの家へと帰ります。このラマはシロから南に20kmほど離れており、やがてヘロデ王が幼児虐殺を行なうことになる場所です(マタイ2:18)。この場所はエルサレムから北にそう遠くありません。
それからハンナはエルカナにより身籠り、誓願を立てて祈った通り、かつては不妊だったのに子を産みました。その産まれた子はハンナが願った通り『男の子』(Ⅰサムエル記1:11)でした。神がハンナを憐れんで顧み、その祈りを無視されなかったからです。
【1:21~23】
『夫のエルカナは、家族そろって、年ごとのいけにえを主にささげ、自分の誓願を果たすために上って行こうとしたが、ハンナは夫に、「この子が乳離れし、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝し、いつまでも、そこにとどまるようになるまでは。」と言って、上って行かなかった。夫のエルカナは彼女に言った。「あなたの良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待ちなさい。ただ、主のおことばのとおりになるように。」こうしてこの女は、とどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。』
年に1回の定めの時が来たので、エルカナはいつものように聖所のあるシロへ上って行こうとします。また、エルカナがシロへ行くのは、主の御前で『自分の誓願を果たすため』でもありました。つまり、自分が立てた誓願を果たしたと主の御前で報告するのです。どのような内容だったか私たちには分かりませんがエルカナは何らかの誓願を立てていたのです。しかし、ハンナには子サムエルに関する誓願があったので、このサムエルが乳離れするまではシロには上れないと応じました。というのもサムエルは主に捧げられなければいけないからです。しかし、まだ意識さえハッキリしていない幼い年頃に捧げるのは相応しくありませんでした。ですから、乳離れして意識も確立され始めてからサムエルを連れてシロに上りたいと望んだわけです。乳離れまでの期間は子によっても違いますがだいたい2~3年ぐらいです。このハンナの願いに対し、物分かりの良いエルカナは『あなたの良いと思うようにしなさい。』と言ってその願いを認めます。ここでエルカナが『ただ、主のおことばのとおりになるように。』と言っているのは、彼に敬虔な傾向があったことを示しています。こうしてハンナはサムエルが乳離れするまで聖所での礼拝を休むこととなりました。
【1:24~28】
『その子が乳離れしたとき、彼女は雄牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携え、その子を連れ上り、シロの主の宮に連れて行った。その子は幼かった。彼らは、雄牛一頭をほふり、その子をエリのところに連れて行った。ハンナは言った。「おお、祭司さま。あなたは生きておられます。祭司さま。私はかつて、ここのあなたのそばに立って、主に祈った女でございます。この子のために、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。』
サムエルが乳離れしたので、ハンナは数年ぶりにシロの聖所へと上り、かつて誓願した通り産まれた子を主に捧げました。これは実際的に捧げることですから、サムエルは母ハンナから引き離され、主のおられる聖所で養い育てられることとなりました。誓願を立てていたハンナでしたが、母の子に対する愛情を考えるならば、実際に自分の産んだ子を捧げるのは多かれ少なかれ悲しかったはずです。それでもハンナは誓願を重視し子の献納を拒みませんでした。これはハンナが敬虔な信仰者だったからです。サムエルについて『その子は幼かった』と言われているのが実際に何歳だったかは分かりません。ここでハンナが『祭司さま』と繰り返して言っているのは、ハンナが祭司から良く思われることを願っていたからです(Ⅰサムエル1:18)。この『祭司さま』という言葉は直訳すれば「わが主」となります。ハンナが祭司を「主」と呼んでいたのは、彼女の神に対する敬意がその背景にありました。というのも祭司は神により立てられた神の使いだからです。ハンナは神を敬っていたので、その神の使いである祭司も「主」と呼んで敬っていたのです。ハンナから話を聞いた祭司エリは全て理解したことでしょう。こうしてサムエルは神に捧げられ、神の聖所で育つことになり、これからイスラエルの重要な預言者として用いられるようになっていくのです。