週報:【神の忍耐と救い】(2023/08/27)
神は、人々の悔い改めない不信仰と様々な罪悪を、ずっと忍耐し続けておられます。それは日本を考えても容易く理解できます。神は、御自分を激しく憎んだり酷く侮辱するような極悪人に対してさえ、忍耐深くあられます。例えば、神を憎み悪口ばかり言っていたニーチェは、晩年になって発狂の罰を与えられるまで、長らく罰されないまま放置されていました。これは神が忍耐の神であられるからです。神が御自分について「怒るのにおそく」(出エジ24:6)あられると宣言された通りです。そればかりでなく、主が言われた通り、神は恩知らずの悪人に耐えられるだけでなく、恵み深くして下さるほどです(ルカ6:35)。もし神が忍耐深くなければ、悪人はすぐにも罰され、速やかに滅び去っていたでしょう。このような忍耐は神の愛によります。パウロが言った通り、愛は「すべてを耐え忍びます。」(Ⅰコリント13:7)神はヨハネが言ったように「愛」(Ⅰヨハネ4:8)であられます。ですから、愛なる神は忍耐強い御方であられ、忍耐することで御自分の愛を現わされるのです。また、神がこのように人々に忍耐されるのは、人々が救われるためでもあります。それは、神が人々の罪深さにもかかわらず忍耐されるからこそ、人々は神とその救いへと近付けるようにもなるからです。何故なら、神が怒られず耐えておられるだけでなく、御恵みさえ施しておられるのであれば、そこには救いの余地が大いに生じるからです。もし神がすぐにも怒られ罰しておられたとすれば、まだ悔い改めていない人々はすぐにも死んだり悲惨な状態となるでしょうから、救いの余地はなくなってしまいます。私たちにしても、誰にでも恵み深い慈善的な人とケチケチしてすぐ怒るナバルのような人がいたとすれば、どう考えても前者のほうが近寄りやすいと感じるでしょう。神は人々が救われるため、この前者のようにしておられるわけです。この通り、神が人々に、しかも極悪人に対してさえ忍耐深くあられるのは、2つの意味を持っています。一つ目は神の愛が忍耐を通して現わされるためであり、二つ目は人々に救いの余地が与えられるためです。どうせ速やかに散ってしまう儚い命なのです。散れば地獄に行き、地獄に行けば永遠の苦しみを味わいます。そうであれば、すぐに罰せられるものの救いの余地を残さないより、豊かに耐えて救いの余地を与えるほうが、神にとって遥かに望ましいのです。この日本にいる日本人に対しても、神はやはりずっと耐え続けておられます。日本人はお寺や神社で偶像崇拝をすることで、神を蔑ろにし続けているのに、神はそのような罪深い日本人を忍耐しておられます。もし神が忍耐深くなければ、もう日本人などとっくの昔に裁かれて地球上から消え去っていたことでしょう。つまり、日本人にも救いの余地が与えられているのです。この日本人もこれから救われるようになってほしいものです。