週報:【日本における3つの道】(2024/06/16)
今でも日本には偶像が満ちており、日本人はずっと偶像崇拝に陥り続けており、こういった状況はなかなか変わりそうにありません。このような偶像崇拝は、十戒の第1番目と第2番目に違反した邪悪な罪です。ですから、教会は日本の偶像崇拝を警戒せねばならず、そもそも偶像自体を警戒せねばなりません。それはパウロが「偶像崇拝を避けなさい。」とⅠコリント書で言った通りです。またヨハネも「偶像を警戒しなさい。」と言った通りです。けれども日本人はこの偶像崇拝が罪であると知らず、それをあたかも神聖な行為であるかのごとく見做し続けています。このため、神道とその神社では八百万の神々が拝まれ、仏教とそのお寺でも仏像に崇拝が捧げられています。この2つ以外の宗教でも、だいたい状況は似たようなものです。偶像崇拝が罪であるとは知らず拝み続けているというのは、霊的に呪われている証拠でなくて何でしょうか。聖書が教えるように「神は唯一」(Ⅰテモテ2:5)であり、崇められるべき御方はこの神だけであられます。八百万の神々とは人間が勝手に考え出した空想の存在であり、仏像も金であれ銅であれ石であれ単なる物質に過ぎない虚しい存在です。このような罪に陥っている日本人が救われるため、教会は日本人に聖なるキリストの福音を宣べ伝えねばなりません。日本人が偶像崇拝の罪を悔い改め、キリストを信じて神の民となるように求めるのです。しかし、もし日本人がキリストを信じないとすれば、偶像崇拝から離れることは望ましいのかという疑問があります。もし日本人が神とキリストを信じず偶像崇拝から離れるとすれば、日本人は無神論に陥るかもしれません。偶像崇拝は忌まわしい罪ですが、無神論も大きな忌まわしさを持っています。ここで問題となるのは、果たして偶像崇拝と無神論のどちらが「まし」なのかという点でしょう。もし日本人が偶像崇拝に陥り続けたままであれば、神からの極めて大きい刑罰を齎すでしょう。古代ユダヤもこの偶像崇拝により悲惨な状態となりました。ですから、偶像崇拝から離れること自体が望ましいのは言うまでもありません。しかし、キリスト信仰なしに偶像崇拝から離れるなら、日本人は偽りの神々であるにせよ神また神的な存在を何も持たなくなりますから、何であれ神を恐れることがなくなりかねません。そうなれば無神論ですから、「こんなことをすれば天罰が下されるはずだ。」などと思うことも全くなくなるはずです。日本人の道徳性は、偽りの神々を信じているにしても有神論であることが作用しているからです。それゆえ、日本人がキリスト信仰なしに偶像崇拝から離れるとすれば、その道徳性は間違いなく退廃せざるを得ません。古代人がよく無神論者を危険人物として警戒したのは、神への恐れを持たないため道徳性に問題があると見做されたからです。これと同じ理由からフリーメイソンも無神論者の入会を禁じたのです。この通り、偶像崇拝者であるのも無神論者であるのも最悪という点で一緒ですが、より「まし」なのは恐らく無神論者のほうだと思われます。何故なら、無神論者であれば道徳性が歪み易いものの、偶像崇拝者ほどに大きな呪いは齎さないだろうからです。現に今の中国が国家的な繁栄を享受できているのは、中国人が偶像崇拝者ではなく無神論者だからなのでしょう。一方、日本は無神論者でなく偶像崇拝者が満ちていますから、今やもう呪いによる国家的な衰えが始まっていると見られるのです。ここでよく注意すべきなのは、無神論が何か良いなどと言っているわけではないことです。私はただ偶像崇拝と無神論であれば、どちらも最悪であるものの無神論のほうが呪いは少ないはずだと言っているだけです。こういうわけで、日本の歩みはこれから3つのどれかとなります。第一は日本人が今のまま偶像崇拝を続けるか、第二は日本人がキリスト信仰なしに偶像崇拝から離れるか、第三は日本人がキリスト信仰において偶像崇拝から離れるか、のどれかです。教会がこのうち第三の歩みを切に求めねばならないのは言うまでもないことです。