週報:【数と真理について】(2024/07/07)
コペルニクスからは非常に良い教訓を得ることができます。それは、たとえ少数者だからといって必ずしも間違っているのではないことです。コペルニクスはその時代にあって地動説を信じるほとんどただ1人の者であり、一般的な考え方から非常に離れていました。フランシス・ベーコンほどの大学者でさえも地動説は受容できないほどでしたから、尚のこと一般の人々は地動説を受容できませんでした。ところが世間で異常な考えの持ち主だと思われていたコペルニクスこそ真に正しい考えを持っていました。世間は天動説を信じる自分たちこそがまともな考えに立っていると感じていました。しかし、本当であれば世間が考えを改めてコペルニクスに賛同すべきだったのです。主キリストも、このようであられました。イザヤ書53:3ではキリストについて、「人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」と書かれています。キリストはユダヤ人たちから邪魔者扱いされ、弟子たちにさえ見離されました。しかし、自分たちこそ正しいと信じて疑わなかったユダヤ人が異常だったのであり、迫害され苦しめられたキリストこそ正に真理であられました。初代教会もこの通りでした。初期の教会は、まだユダヤ教から逸脱した分派のアウトサイダーだと見做されていましたが、この教会にこそ真理が与えられていたのです。ルターやカルヴァンをはじめ多くの宗教改革者たちも、自分たちは少数派だと感じていました。しかし、数のあまり多くなかったプロテスタントこそが真に聖書的な群れだったのです。人間は、大多数の人々が持つ考えや思いこそ正しいと見做す傾向を強く持ちます。何故なら、もし正しい事柄であれば多くの人々から受け入れられるという思い込みが強く精神に働くからです。確かに正しい事柄であれば多くの人々が受け入れている場合は珍しくありません。しかし、大多数の持つ意見であれば正解だと見做すのは、根拠としてかなり弱いと言わざるを得ません。このように考えるのは、人間が不完全かつ有限で罪深い堕落した矮小な存在であるため間違いを受容する場合や可能性もかなりある、という前提をほとんど考慮していないからです。現に人間は少数派だからというのでコペルニクスとその地動説を全く拒絶し、大多数が持つ主流の見解である天動説に長く拘り続けました。もし受容する人間の多さはその正しさを証明するというのが真実であれば、世間が考えていたようにコペルニクスは異常な天体観の持ち主だったことでしょう。ここ日本における教会の状態も、以前よりはかなり前進したと言えるものの、まだ幾らかコペルニクス的な立場に置かれています。それというのも、日本人は教会が日本の主流を占める宗教でないからというのであまり相手にせず、これまでずっと日本に存在した神道と仏教に馴染み続けているからです。しかし、日本人が日頃から馴染んでいる神道と仏教は偽りの宗教であり、あまり自分たちと関係ないと感じているキリスト教こそが真の宗教なのです。このようですから、私たちは福音を信じる日本人の数が少ないからというので揺るがされないようにすべきです。神は「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と言われました。キリスト者こそ神に愛されたヤコブのような存在であり、今も地獄に行き続けている大多数の日本人はまだエサウのような憎まれた存在なのです。まだ今の日本では神がキリストの御救いを少数の者たちにしか与えておられません。私たちはこのことをよく覚え、寧ろ少数であるからこそ、ますます堅く信仰に立ち力強く歩むべきでしょう。