週報:【キリストの贖いと宣教】(2025/01/19)
キリストの贖いが、もう既にアベルの頃からあったのは、覚えておくべきことでしょう。創世記4:4ではこう書かれています。「また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとその捧げ物とに目を留められた。」アベルの捧げたこの羊が、キリストを示していたのは間違いありません。もしそうでなければアベルはキリストの贖いを持たなかったことになるでしょう。しかし、聖書はアベルが義人だと述べています。ですから、この羊はキリストの象徴だと考えるのが正しいのです。しかし、このアベルから紀元1世紀までは、まだキリストの贖いが実際に成し遂げられていませんでした。そもそも主はまだ御生まれにさえなっていませんでした。ですから、古代では動物犠牲という影によりキリストの贖いを受けられるようにされていました。神は、その動物がキリストを指し示す限りにおいて贖いとして有効とされました。そして、キリストが御生まれになると、遂に実際的な贖いが実現することとなりました。そのようにして、もはや影としての動物犠牲は成就されたのです。ですから今やキリストを信じる神の子らは、古代のように動物犠牲を捧げる必要が全くありません。この違いはどれだけ大きいことでしょうか。私たちは、このような贖いを成し遂げて下さった主に感謝し、父なる神の御名を崇めなければなりません。そして、私たちは、他の人たちも、私たちが受けたキリストの贖いを受けられるよう願い求めねばなりません。私たちが贖いを受けて清められた理由の一つは、そのようなことを求めるためでもあったのです。ペテロは聖徒たちにこう言いました。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(Ⅰペテロ2:9)ですから、私たちを贖われた主キリストの御救いを人々に宣べ伝えることは、教会の極めて大きい使命なのです。