週報:【信じないことにおける不幸と悲惨】(2025/03/16)
使徒パウロは聖書でこう言いました。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについての御言葉によるのです。」御子キリストの聖なる御救いについて神が啓示された御言葉。それを子どものような素直な心で信じること。そのように信じるなら、その信仰により罪の赦しを受け、神から義と認められます。「人はキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」と使徒パウロが述べた通りです。キリストの御救いについては、それを信じるか信じないかどちらか一つしかありません。信じていれば「信じない者」ではなく、信じていなければ「信じる者」ではありません。信じる者は幸いです。何故なら、信じて義と認められているため、天国で永遠に生き続けることができるからです。キリストが「信じる者は永遠の命を持ちます。」と言われた通りです。しかし、信じていなければ実に不幸です。何故なら、主が「信じない者は罪に定められます。」と言われたからです。つまり、地獄で罪人として永遠に神から罰されます。そして、そこで「神の怒りがその上にとどまる」ことになります。これは悲惨の極みです。信じない人は、信じないことで、自分自身を永遠の命から全く遠ざけています。それは、自分で自分自身を地獄に定めているのも同然です。何故なら、キリストの御救いを聞いたにもかかわらず信じようとせず、ずっと拒んだままでいるからです。そのように不信仰であるならば、地獄で神から容赦のない大きな罰を受け続けるでしょう。これほどの悲惨が他にあるでしょうか。ところが信じない人々は神の御前に死んでおり霊的な事柄が全く分かりませんから、信じないことがどれだけ危険で恐ろしいことなのか悟ることもありません。ですから、信じなくても安心して日々を過ごすことができるわけです。今の日本人は誰も彼もこのようです。このような日本は実に惨めであると言わざるを得ません。今はこのような日本であるものの、これから神がこの日本をも憐れんで下さるように願うものです。