週報:【人への恐れと信仰告白】(2025/03/30)


聖書でソロモンは「人を恐れると罠にかかる。」と述べています。この御言葉は真理です。人を恐れるなら、その恐れに行動や振る舞いや歩みが多かれ少なかれ左右もしくは制限されるからです。キリスト時代の指導者たちはこの罠に陥りました。彼らの中にはキリストを信じた者もいたのですが、その信仰を口では告白しなかったのです。何故なら、その告白を聞いたパリサイ人たちに迫害され追放されることを恐れたからです。このことについて、福音書ではこう書かれています。「しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。 」(ヨハネ12:42)もし彼らが人を恐れなければ、キリストに対する信仰を告白していたことでしょう。心でキリストを信じたなら、その信仰は口で告白されるべきです。それは使徒パウロが聖書でこう言っているからです。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9~10)日本人の場合、信じても告白しなかった指導者たちのような人がいるでしょう。家族や親戚といった身近な人々に白い目で見られるケースが昔から多いからです。教会に行くなと夫から言われた妻もいます。勘当の脅しをされた子もいます。信じたものの人を恐れて告白しない罠にかかったなら、天国に至れない可能性もあるでしょう。「臆病者の受ける分は火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」と黙示録には書かれているからです。救われるよう神により永遠の昔から定められているなら、必ず告白に至らせる信仰が与えられるはずなのです。ペテロのように一時は恐れて信仰を告白しないだけである場合もあるでしょう。しかし、死ぬ時までずっと告白できないならば、真の信仰が与えられていなかったことになるのでしょう。キリストは御自分の命を惜しまず犠牲にされるほど、選ばれた者たちを愛して下さいました。「そして自分から十字架の上で私たちの罪をその身に負われました。」とキリストの犠牲について聖書は言っています。ここに「人知を遥かに越えたキリストの愛」があります。このような愛の犠牲による救いを心で信じたのなら、私たちも神を愛し、恐れずにその信仰を告白すべきでしょう。人への恐れが信仰告白を妨げるのは御心に適っていません。それはソロモンも言っているように「罠にかかる」ことなのです。