週報:【神の似姿と堕罪】(2025/04/27)
神は人間を創造される際、「我々に似るように我々のかたちに人を造ろう。」と言われました。こうして人は紛れもない神の似姿として創造されることとなりました。神に似ている者、また神に似るべき者。これこそ人間という被造物の定義です。このため、人は誰でも神に似るべき責務を本来的に持つ存在です。神の御心に従うことで、人は神の似姿として正しく歩むことができます。ところが、人はこのような存在として造られたにもかかわらず、自分勝手に振る舞うことを求めました。すなわち、自分が神の似姿であることを弁えず、神に従わないで背いたのです。ここに人間の罪があります。このような罪深い反逆により、人間は正しい道から迷い出て、神の御前で役に立たない堕落した者となりました。それゆえ、聖書はこう書いているのです。「全ての人が迷い出て、みな、共に無益な者となった。」神の似姿であるというのは、つまり神の存在を言わばその身に担うことですから、その栄誉は実に大きいものがあります。しかし、その栄誉があまりにも大きいため、その栄誉を蔑ろにすることの責任も実に大きいものがあるのです。このため、神の御前で無益かつ無能となった人は、神に背いた罪深い極悪人として地獄でとこしえの罰を受けねばならないのです。神の似姿として相応しく歩もうとしない罪深さは、疑いもなく地獄に値します。しかしながら、憐れみ豊かな神は、このように堕罪した私たち人間が救われ、神の御前に立ち返ることができるようにして下さいました。御自分の御子を私たちの罪のため身代わりとして十字架の死に引き渡して下さったのです。「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」と聖書で書かれている通りです。このため、御子キリストを信じる者は、罪深い者であるにもかかわらず、神の御前で義と認められることができます。使徒パウロは聖書でこう言っています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23~24)もしキリストを信じなければ、罪の赦しが受けられませんから、地獄に行く状態は何も変わらないままです。地獄は悲惨ですから、誰もがキリストにより救われることを求めるべきなのです。そのようになるためにも、キリストの福音が大いに宣べ伝えられて行かねばならないのです。