週報:【キリストの福音と宣教について】(2025/05/04)


御子キリストは神が人となられた聖なる御方です。使徒ヨハネが聖書で言った通り、「キリストには何の罪もありません」。この御方は、私たちの罪を身代わりとして背負い、十字架の上で犠牲として死んで下さいました。このように父なる神は、私たちの罪を御子に負わせられました。「しかし、主は、私たちの全ての咎を彼に負わせた。」とイザヤ53章で書かれている通りです。このため、主が十字架で流された聖なる血は、私たちを全ての罪から清めるのです。「御子イエスの血は全ての罪から私たちを清めます。」と使徒ヨハネが聖書で言った通りです。その聖なる血は、私たちの全ての罪を清めて無限に余りあります。それどころか、全ての人の全ての罪を清めて無限に余りあります。しかし、ただ信じる者だけにキリストの聖なる血による清めは与えられるのです。キリストが言われた通り、「信じない者は罪に定められる」からです。御子がこのように贖いとして十字架で死なれたのは、私たちのため御子を死に引き渡して下さった父なる神の恵みの栄光が褒め称えられるためでした。それは使徒パウロが聖書でこう言った通りです。「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(エペソ1:6)ですから、このような救いを御子において与えて下さった神を、私たちは永遠に褒め称えるべきなのです。もし救いを受けたにもかかわらず、そうしないならば、あまりにも酷い忘恩の極みとなるでしょう。このような尊いキリストの福音における御言葉を、人々が救われるために宣べ伝えなければなりません。何故なら、救われるためにはキリストの福音を信じなければならないからです。使徒パウロは聖書でこう言いました。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)この御言葉を信じることにより、人は救われて新しい存在に生まれ変わるのです。それは救われた聖徒たちに対し、使徒ペテロがこう言った通りです。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」絵とか十字架のマークではありません。そのようなものを示すようにと聖書は何も命じていません。聖書が命じているのは、福音における「神のことば」を告げ知らせるようにということなのです。