【Ⅱ列王記3:6~10】(2025/01/26)
【3:6】
『そこで、ヨラム王は、ただちにサマリヤを出発し、すべてのイスラエル人を動員した。』
モアブが反逆したため、ヨラム王はイスラエル人を動員させました。これはモアブを鎮圧し、また服属の状態に戻すためだったでしょう。ローマも、反逆した属国に対し、よくそうしていたものです。ここで『すべてのイスラエル人を動員した』と書かれているのは、兵士のことです。この『すべて』を文字通りあらゆるイスラエル人だと解するなら間違います。その場合、女や子どもたちも戦いに参加することとなるからです。この時にヨラム王は『ただちに』動きました。これは素早く動かないと、モアブの鎮圧が難しくなると考えたからなのでしょう。動きが遅れれば、それだけ鎮圧できる可能性も低まる状況だったのかもしれません。このような事態は、非常に大きいことでした。何故なら、属国が反逆するというのは、国家にとり致命的な結果を招きかねないからです。ですから、ヨラムが慌てたであろうことは容易に推測できます。
【3:7】
『そして、ユダの王ヨシャパテに使いをやって言った。「モアブの王が私にそむきました。私といっしょにモアブに戦いに行ってくれませんか。」』
ヨラムは、モアブと戦おうとする際、ユダにも協力を要請しました。どうしてヨラムはイスラエルだけで戦おうとしなかったのでしょうか。イスラエルだけでは勝算があまり無いと思ったからでしょうか。なるべく成功率を上げるため協力を求めた可能性もあるでしょう。いずれにせよ、このように協力を求めたのは間違っていませんでした。何故なら、ソロモンは聖書で「二人は一人よりも優っている。」と述べたからです。これは人間のことを言っていますが、国でもこれは同じことが言えるのです。すなわち、1つの国だけで何か行なうよりも、2つの国で協力プレイをするほうが優っているのです。
『ユダの王は言った。「行きましょう。私とあなたとは同じようなもの、私の民とあなたの民、私の馬とあなたの馬も同じようなものです。」』
イスラエル王からの要請を受けて、ユダ王はその要請を快諾しました。これは、この時代のユダとイスラエルが良い関係にあったことを示しています。もし関係が良くなければ、このようにユダ王が要請を受け入れたか定かではありませんし、そもそもイスラエル王が要請をしていたかどうかさえ分かりません。ここでヨシャパテは『私とあなたとは同じようなもの』と言っています。これはユダ王とイスラエル王が運命共同体なのだという意味でしょう。またヨシャパテは『私の民とあなたの民』『も同じようなもの』とも言いました。これも、やはりユダの民族とイスラエルの民族が、運命を共にするという意味でしょう。そして『私の馬とあなたの馬も同じようなもの』と言われているのは、ユダの馬を惜しみなくイスラエルの戦いに提供するということでしょう。ここでヨシャパテが3つについて『同じようなもの』と言っているのは、3回ですから、強調の意味を込めていたのでしょう。つまり、ヨシャパテは本当に心からイスラエルに協力するつもりでいたのです。
【3:8】
『そして言った。「私たちはどの道を上って行きましょうか。」するとヨラムは、「エドムの荒野の道を。」と答えた。』
モアブ鎮圧の戦いに協力することとなったユダ王は、どのような行き方でモアブに攻め込むか尋ねます。これはイスラエルの戦いですから、ユダ王は協力者として相応しく、イスラエル王の指示に従おうとしたのです。これは自然で正しいことだったと言えましょう。この質問に対し、ヨラムは『エドムの荒野の道を。』と言って応じます。つまり、南西からぐるりと反時計回りに遠回りして攻め込もうというわけです。死海の北側から南に行く形で攻め込むのではありません。
【3:9】
『こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王といっしょに出かけたが、』
イスラエル王は、ユダ王だけでなく、エドム王もモアブ鎮圧の戦いに連れて行くこととしました。つまり、ヨラムが『エドムの荒野の道を』通ってモアブまで行こうとしたのは、エドムの王にも協力してもらうためだったのでしょう。ヨラムはユダ王と共に行くだけでは、勝つためにまだ十分でないと感じたのでしょうか。なるべく味方は多いほうが良いと考えた可能性もあるでしょう。この箇所から、この時のイスラエルとエドムは関係があまり悪く無かったと分かります。関係が悪く無かったからこそ、『エドムの王といっしょに出かけ』ることができたわけです。
『七日間も回り道をしたので、陣営の者と、あとについて来る家畜のための水がなくなった。』
イスラエル王たちの軍勢は、エドムの方面から『七日間も回り道をしたので』、水不足に悩まされることとなりました。『荒野の道を』行ったわけですから、水が足りなくなっても不思議なことはありませんでした。もし北側から南に行くのであれば、ここまで長い日数を必要とはしなかったでしょう。このような水不足は、深刻な悲惨を齎す場合が珍しくありません。渇きにより大量の死者が出る場合もあるのです。しかし、これは「7」(日間)でしたから、後の箇所からも分かる通り、神がこれから働いて下さることを示していました。ヨラムたちは、そのようなことになるなどとはまさか思ってもいなかったでしょうが。
【3:10】
『それで、イスラエルの王は、「ああ、主が、この三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだったのだ。」と言った。』
水不足の事態となったため、イスラエル王は、神により悲惨が齎されるのだと嘆きました。すなわち、ここまで3人の王で進んだのは神がモアブに自分たちを引き渡すためだったのだと。何故なら、このように水が不足したとなれば、モアブに対しイスラエル王たちの勝ち目は無くなるからです。渇きで苦しむ兵士たちを打ち負かすのは容易い話なのです。しかし、ヨアブがこのように嘆いたのは間違っていました。ヨアブの嘆きに反し、これから神が大いなる働きかけをして下さるのだからです。