【Ⅱ列王記3:11~14】(2025/02/02)


【3:11】
『ヨシャパテは言った。「ここには主のみこころを求めることのできる主の預言者はいないのですか。」』
 ヨラムが水不足のことで嘆いたのは、人間的な思いから出たことでした。ヨラムは預言者でもありませんでした。つまり、ヨラムは単に自分勝手に前節で書かれていたことを言っただけなのです。このためでしょう、ヨラムの嘆きを聞いたヨシャパテ王は、『主のみこころを求めることのできる主の預言者』を求めました。王の人間的な嘆きを聞いても何になるだろうか、というわけです。このような時は『主のみこころ』こそを求めねばならないと、ヨシャパテはよく弁えていたのかもしれません。

『すると、イスラエルの王の家来のひとりが答えて言った。「ここには、シャファテの子エリシャがいます。エリヤの手に水を注いだ者です。」』
 主の預言者を求めたヨシャパテに対し、『イスラエルの王の家来のひとり』がエリシャこそ正にその人だと答えます。確かにエリシャは主に仕える『主のみこころを求めることのできる主の預言者』でした。ここでエリシャは『シャファテの子』と言われていますが、父の子として人の名が呼ばれるのは、イスラエル社会において一般的なことでした。この家来が言っている通り、エリシャは『エリヤの手に水を注いだ者』でした。これはエリシャがエリヤと非常に近い関係を持っていたことを示しています。だからこそ、エリシャはエリヤの後継者とされることとなったわけです。

【3:12】
『ヨシャパテが、「主のことばは彼とともにある。」と言ったので、イスラエルの王と、ヨシャパテと、エドムの王とは彼のところに下って行った。』
 ヨラム王の家来からエリシャのことを聞いたヨシャパテは『主のことばは彼とともにある。』と言いましたが、正にその通りでした。エリシャは『エリヤの手に水を注いだ者』であり、エリヤの後継者とされたのだからです。イスラエル王の嘆きを聞いても何にもなりません。求めるべきは『主のことば』でした。ですから、3人の王たちは御言葉を求めてエリシャのもとに行きました。

【3:13】
『エリシャはイスラエルの王に言った。「私とあなたとの間に何のかかわりがありましょうか。』
 イスラエル王と会ったエリシャは、自分と王には何の関係も無いと述べました。確かにエリヤとヨラムには何も関係がありませんでした。何故なら、神と偶像には何の関係もないからです。ヨラム王は偶像を拝んでいました。しかしエリシャは偶像を拝まず、ただ神を拝んでいました。ですから、神を拝むエリシャと、偶像を拝むヨラム王には、何の関係もないわけです。もしヨラム王がダビデのような神を拝む者だったとすれば、エリシャはヨラム王と関係があると言っていたことでしょう。

『あなたの父上の預言者たちと、あなたの母上の預言者たちのところにおいでください。」』
 エリシャはヨラム王の求めを退け、父母の預言者たちのもとへ行けばいいと述べました。『父上の預言者たち』とはアハブに都合の良いことだけを言うアハブの預言者であり、『母上の預言者たち』とはバアルの預言者です。これはヨラムが神を求めていなかったからでした。神を求めようとしない者がどうして今になって神の言葉に頼ろうとするのか、とでもエリシャは言いたいかのようです。いつも自分が求めている偶像に頼ればいいではないか、と。

『すると、イスラエルの王は彼に言った。「いや、主がこの三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだから。」』
 エリシャから求めを拒まれたイスラエルの王でしたが、それでも求めることをイスラエルの王は止めませんでした。ここでヨラム王が言っているのは、つまりエリシャの仕える神に助けを求めているのです。ヨラムからすれば、3人の王がこのようにモアブ鎮圧のため動かされたのは、神が『モアブの手に渡すため』であると思えました。イスラエル王だけでなくユダ王およびエドム王もそのようになると思えたのです。そうなるのは実に悲惨なことです。だからこそ、悩まされたイスラエル王たちはエリシャに神の御言葉を求めたわけです。

【3:14】
『エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられる。もし私がユダの王ヨシャパテのためにするのでなかったなら、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。』
 エリシャは、イスラエル王の求めを聞き入れることにしました。つまり、神に御言葉を求め、神に働きかけていただこうとしたのです。しかし、エリシャがこうするのは『ユダの王ヨシャパテのために』でした。ヨシャパテは神の御言葉を求めるような者だったからです。ヨラムはそのような者ではありませんでした。ですから、もしヨラムがヨシャパテと共にいたのでなければ、エリシャはヨラムの求めを全く退けていたことでしょう。これが本当であることを、つまりただヨシャパテのために求めを聞き入れるのだということを、エリシャはここで誓っています。『私が仕えている万軍の主は生きておられる。』とは誓いの言葉であり、もしその通りで無ければ主から罰せられても構わないという決定的な表明です。ところで、この誓いから分かる通り、エリシャは神に『仕えている』者でした。それは純粋な態度によるのであって、エリシャと同じようにしてだったことでしょう。