【Ⅱ列王記3:15~20】(2025/02/09)
【3:15~16】
『しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、彼は次のように言った。』
イスラエル王たちの求めを聞き入れることにしたエリシャは、『立琴をひく者』を連れて来るように求めます。これは立琴の音によりエリシャが御言葉を語るためでした。しかし、どうして立琴の奏者なのでしょうか。これの意味は、恐らくダビデが琴を弾いたからなのかもしれません。つまり、エリシャはダビデのような者にならない限り、御言葉は与えられないと教えようとしたのかもしれません。ヨラムはダビデのような者だと言えませんでした。ですから、ダビデと同じ琴を弾く者を呼び出させることで、そのことを分からせようとしたと考えられるのです。このように言われると、実際に『立琴をひく者』が連れて来られました。ヨラムは言われた通りにすれば神の御心を知れると信じたのです。こうして立琴の音により、エリシャは神の御言葉を告げ知らせることとなりました。
【3:16】
『「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』』
エリシャは神からの御言葉を告げ、イスラエル王たちがそこにいる場所の谷で溝を掘るよう命令されました。これは、すぐ後ほど見る通り、その溝に神が水を満たして下さるからです。『谷』とは死海の西側に位置するユダの荒野にあった谷だと思われます。ここで神が2度繰り返して『みぞを掘れ。』と命じられたのは、その命令を強調しておられるのです。つまり、イスラエル王たちは何としても命じられた通りに溝を掘らねばなりませんでした。
【3:17】
『主がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む。』』
イスラエル王たちが谷に掘った溝に、神は『水があふれる』ようにされます。それは『風も見ず、大雨も見ないのに』です。神が超自然的な働きかけにより、そうなさるのです。何故なら、神に不可能は一つも無いからです。普通であれば、風も大雨も見ないのに、谷に水が溢れることは起こらないでしょう。しかし、この時は神の奇跡により、そのようになるのです。こうして、イスラエル王たちとその家畜および獣が、その溢れた水を『飲む』こととなります。どうして神は彼らにこうして下さるのでしょうか。それはイスラエル王たちが、エリシャを通して神を求めたからでしょう。神はヨラムのような者でも、御自分を切に求めるのならば、このように応じて下さる御方だからです。それはキリストがこう言われた通りです。『求めなさい。そうすれば与えられます。』このようにして彼らには神から御恵みが与えられることとなります。もし神の御恵みが無ければ、彼らはこのような幸いに与かることができなかったでしょう。
【3:18】
『これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。』
溝に水が風も大雨も見ないのに溢れるというのは、人間からすれば実に大きいことでしょう。しかし、それは『主の目には小さなこと』でした。神と人間の思いまた感覚は異なるからです。この時の出来事よりも、昔に起きた紅海の奇跡のほうが遥かに大きい出来事だったでしょう。しかし、紅海の奇跡でさえ、神にとっては容易いことだったのです。神は溝に水が溢れるというこの奇跡を、イスラエル王たちがモアブに勝利することの印とされました。何故なら、水が溢れるという奇跡が行なわれるようであれば、イスラエル王たちはモアブが自分たちの手に渡されるということを信じられるからです。このような水の奇跡を行なって下さる御方であれば、イスラエルに勝利をも与えて下さるのです。実際に、神はこの奇跡に引き続き、モアブをイスラエル王たちの手に渡して下さいました。もし神がモアブをイスラエルに渡して下さらないのであれば、このような水の奇跡も行なわれていなかったかもしれません。
【3:19】
『あなたがたは、城壁のある町々、りっぱな町々をことごとく打ち破り、』
モアブ国の町々は、『城壁』があり『りっぱ』でした。『城壁』は敵から自分たちを守るためにあり、『りっぱ』であるのは財力の高さを示しています。しかし、イスラエル王たちはそれらの『町々をことごとく打ち破り』ます。神がモアブをイスラエル王たちの手に渡されるのだからです。それはイスラエル王たちが神を求めたからであり、イスラエルにモアブが反逆したからです。一方には祝福による勝利が、一方には呪いによる悲惨が注がれるのです。
『すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石ころでだいなしにしよう。」』
イスラエル王たちは、すぐ前に見たことに加え、更にモアブに対して働きかけをします。まずイスラエル王たちは、モアブにある『すべての良い木を切り倒し』ます。『良い木』が切り倒されるのは実に悲惨です。これはモアブに対して神が呪いを下されるからです。また彼らはモアブにある『すべての水の源をふさぎ』ます。イスラエル王たちには溢れる水が与えられるのと正反対です。これはイスラエル王たちに神からの恵みが、しかしモアブには神からの罰が与えられるからです。そして彼らは、モアブにある『すべての良い畑を石ころでだいなしにし』ます。『石』は古代社会において刑罰や懲らしめの意味を持っており、死刑の際にも石が用いられました。ですから、石で良い畑が台無しにされるというのも、モアブに対し神からの罰が下されることを意味しています。このようにしてモアブは最悪の状態に陥るわけです。
【3:20】
『朝になって、ささげ物をささげるころ、』
『朝になって』とは、イスラエル王たちがエリシャにより神の御言葉を聞いてから後の朝です。王たちは御言葉を聞いてから夜に寝て、数時間が経過すると朝になったわけです。この『朝』は『ささげ物をささげるころ』でした。王たちと共にいたであろう祭司が、贖いのために犠牲を捧げる律法で規定された祭儀です。これはこの日だけでなく、遠征中に日々行なわれていたことでしょう。