【Ⅱ列王記3:20~24】(2025/02/16)


【3:20】
『なんと、水がエドムのほうから流れて来て、この地は水で満たされた。』
 主が約束された通り、朝の捧げ物の頃になると『水がエドムのほうから流れて来』ました。それは先に見た通り、『風も見ず、大雨も見ないのに』でした。神の素晴らしい奇跡が行なわれたのです。『水で満たされた』また『水があふれる』と書かれてありますから、この時に流れて来た水は、非常に多い量だったことが分かります。これはイスラエル王たちに対する神からの御恵みでした。もし神が恵んでおられなければ、このようなことは起きていなかったでしょう。ここで『なんと』と言われているのは、これが実に驚くべき神の奇跡だったことを意味しています。実際、これは実に驚くべき素晴らしい神の奇跡でした。ですから、正に『なんと』と言うべきことだったのです。

【3:21】
『モアブはみな、王たちが彼らを攻めに上って来たことを聞いた。』
 神がイスラエル王たちのモアブに対する勝利を約束されたのですから、イスラエル王たちはモアブに攻め入りました。そのことを『モアブはみな』聞きました。それは恐らく偵察によってだったでしょう。古代から今に至るまで、戦いにおいては偵察が用いられ、情報獲得の手段とされるのです。

『よろいを着ることのできるほどの者は全部、呼び集められ、国境の守備についた。』
 イスラエル王たちが攻め入って来たのですから、当然ながらモアブとしては応戦するため準備を整えねばなりません。このため、モアブで『よろいを着ることのできるほどの者は』『国境の守備についた』のです。この時に『全部、呼び集められ』たのは戦う男たちだけであり、女や子どもは含まれていないでしょう。『国境』とはモアブの南西における境界線の場所でしょう。イスラエル王たちは南西方面から北東方面へとモアブを攻めるのだからです。こうしてイスラエルとモアブにおける戦いが始まることとなりました。

【3:22】
『彼らが翌朝早く起きてみると、太陽が水の面を照らしていた。モアブは向こう側の水が血のように赤いのを見て、』
 モアブ人たちが『翌朝早く起きてみると』と言われているのは、戦いの準備を整えた前日からのことです。古代の夜は戦えませんでしたから、準備を整えて後、寝たわけです。この『翌朝』になると、『太陽が水の面を照らしてい』ましたから、『モアブは向こう側の水が血のように赤いのを見』ました。これが血でなく水であることは、もう私たちに分かっていることです。しかし、モアブ人からすれば、それは血に見えたのです。見え方により本来の物と異なって認識されてしまうのは、今でもよくあることです。モアブ人がこの液体を見れたのは、恐らく神により溢れた水がモアブの近くまで流れたからだと思われます。そうでなければ、これもやはり偵察が自分の目で見てモアブ人たちに報告したのでしょう。

【3:23】
『言った。「これは血だ。きっと王たちが切り合って、同士打ちをしたに違いない。さあ今、モアブよ、分捕りに行こう。」』
 モアブ人は、イスラエル王たちのいる場所に水があるなどと思いもしません。そこに水が無かったからこそ、イスラエル王たちは渇きに悩まされたのだからです。もし水があれば悲惨に陥ることもなかったでしょう。ですから、モアブ人たちはイスラエル人のいる場所にある液体を見て『これは血だ。』と言います。『王たちが切り合って、同士打ちをしたに違いない』と思えたからです。彼らはまさか神がその水を生じさせられたなどと考えることもありませんでした。このため、モアブ人たちはイスラエルの陣営を『分捕りに行こう』とします。『王たちが切り合って、同士打ちをした』とすれば、その陣営が統率の失われた弱々しい状態になっているのは明らかだからです。王たちさえ殺し合いをしているなら、兵士たちはどれほど惨めな状態になっているでしょうか。しかし、このようにしてモアブが思い違いをすることこそ、神の働きかけによりました。それはモアブが『分捕りに行こう』とすることで、イスラエル王たちの返り討ちにあうためでした。

【3:24】
『彼らがイスラエルの陣営に攻め入ると、』
 モアブはイスラエルの陣営が悲惨な状態になっていると思い込んでいましたから、そこに攻め入ります。この時のモアブは非常に勢いがあったと思われます。何故なら、王たちさえ切り合っているならば、そのような陣営を襲うのは容易いことだからです。敵が弱くなっていれば臆することもなくなります。

『イスラエルは立ってモアブを打った。モアブはイスラエルの前から逃げた。それで、イスラエルは攻め入って、モアブを打った。』
 モアブの思いと異なり、イスラエルの陣営は全く悲惨になっていませんでした。このため、『イスラエルは立ってモアブを打』ちます。モアブからすれば、あまりにも衝撃的に感じられたことでしょう。同士打ちをして悲惨になっていると思っていた敵が、逆に自分たちを攻めてきたわけですから。このようにして『モアブはイスラエルの前から逃げ』ました。自分たちの国がある北東方面に逃げたのでしょう。この逃げたモアブをイスラエルは追撃します。神がモアブをイスラエルの手に渡して下さったからです。このように戦いの幸いが神の御恵みによりイスラエルに与えられたのは、ユダ王ヨシャパテのゆえでした。もしイスラエル王ヨラムしかエリシャのもとに行っていなければ、このような幸いはイスラエルに齎されていなかったでしょう。