【Ⅱ列王記4:2~10】(2025/03/02)
【4:2】
『エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」』
妻の夫である預言者は『主を恐れて』いたので、エリシャはこの妻に『何をしてあげようか。』と言い、憐れみをかけようとします。エリシャは彼女に家に何があるかと尋ねます。何かあれば、その何かにより奇跡が実現されるようにするためです。この妻の家には『ただ、油のつぼ一つしかありません』でした。このように財産がほぼ何も無かったからこそ、貸し主から子どもを奴隷として持って行かれようとしていたわけです。もし財産があれば、それで負債を支払えばいいのですから、子どもが持って行かれる必要も無かったことでしょう。
【4:3~4】
『すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきへ置きなさい。」』
家に何も無いと言った妻に対し、エリシャは『隣の人みなから、器を借りて来なさい。』と命じます。その借りた器において奇跡が実現されるためです。器の種類や質は重要でなかったでしょう。とにかく多くの器が求められていました。その借りた器に、彼女は油を注ぐこととなります。どれだけ注いでも油はいつまでも注がれ続けることになるのです。ここにおいて神の奇跡が行なわれます。このため、注がれて『いっぱいになったものはわきへ置き』、次の器に油を注がなければいけません。それを何度も繰り返すわけです。
【4:5~6】
『そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。』
預言者の妻は、何としても子どもを守りたかったことでしょう。ですから、エリシャが命じた通りにします。すると、器がある限り、ずっと油がその器に注がれ続けることとなりました。もし器が無限に持って来られたとすれば、油も限りなく注がれていたことでしょう。子どもたちが器を持って来なくなると、油の注ぎも止まることになりました。ここにおいて神の奇跡が行なわれました。もし神が働きかけておられなければ、このように油がずっと注がれ続けることもなかったでしょう。
【4:7】
『彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』
油が器のある限り注がれましたから、そのことを預言者の妻はエリシャに報告しました。どうすればいいのか指示を求めようとしたのでしょう。エリシャは、その満たされた油を売り、その売ったお金で負債を払うように、と彼女に命じます。その油は売れば負債を払うのに十分なほど多くあったのです。それどころか、『その残りで』彼女と子どもたちが暮らしていけるほどでした。このことから、神がどれだけ彼女に油をお与えになったかよく分かるでしょう。このようにして神の奇跡が行なわれ、預言者の妻には助けと憐れみが与えられました。つまり、ここにおいて神の栄光が現わされることとなったのです。
【4:8】
『ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこにひとりの裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それからは、そこを通りかかるたびごとに、そこに寄って、食事をするようになった。』
『ある日』とは、先に書かれていた器の奇跡があってから後の日のことです。あの素晴らしい奇跡があってから、どのぐらい経ったかまでは分かりません。ここで書かれている『シュネム』とは、カルメル山の東に位置する場所です。『そこにひとりの裕福が女がい』たのですが、実際にどれぐらい裕福だったかまでは分かりません。この裕福な女が、『ある日』にエリシャを『食事に引き止め』ました。彼女は裕福でしたから、エリシャに食事を提供することができました。エリシャは神にしっかりと仕えていました。ですから、神がこの女により、御自分に仕えているエリシャを養うようにされたのです。
【4:9】
『女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。』
エリシャを食事でもてなしていた女は、エリシャが『神の聖なる方』ではないかと思いました。女の直感というのは、よく当たるものです。女がエリシャを『神の聖なる方』だと直感的に思ったのも、正にその通りでした。エリシャには神の人らしい雰囲気が外面から出ていたのかもしれません。人の生き方や内面は、往々にしてその風貌に現われるものだからです。しかし、この女はエリシャが行なっていた奇跡について何か知っていたのでしょうか。つまり、そのような話を聞いていたからこそ、エリシャが『神の聖なる方』であると思ったのでしょうか。これについては分かりません。そのようであった可能性もあるでしょう。
【4:10】
『ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机といすと燭台とを置きましょう。あの方が私たちのところにおいでになるたびに、そこをお使いになれますから。」』
裕福な女は、エリシャを『神の聖なる方』だと思ったので、エリシャが訪れる度に使えるようにと、『小さな部屋を作』ろうとします。その部屋に『壁』があるのは、プライバシーの観点からでしょう。『寝台』を置くのは寝たり休んだりするためでしょう。『机といす』は座って休んだり何か作業したりするためでしょう。『燭台』は暗い時間帯に必要となるからでしょう。この女は、エリシャが『神の聖なる方』だからというので、このような部屋を作りました。これは非常に良いことでした。何故なら、エリシャは神に仕える忠実な僕だったからです。そのようなエリシャにこういった良いことをするのは、エリシャの仕えていた神にしているのも同然だったのです。神の人にこのようにするならば必ず神から報いられ祝福されます。実際、後の箇所から分かる通り、この女はこのようにした報いとして子を持つことができるようになりました。