【Ⅱ列王記4:19~26】(2025/03/23)
【4:19~20】
『父親に、「私の頭が、頭が。」と言ったので、父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ。」と命じた。若者はその子を抱いて、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親のひざの上に休んでいたが、ついに死んだ。』
父親のもとに行った子が異変を訴えると、母親のところに連れて行かれましたが、昼になると死んでしまいます。どうしてその子が死んだかは分かりません。熱中症だったのか、何かの病が急に発症したのか、心臓発作が起きたのか、毒蜘蛛にでも噛まれたのか。詳しくは分かりませんが、私たちはこの子がこの時に死んだということを知っていれば問題ありません。しかし、この子がこの時に死ぬのは神の御心でした。この子は後ほど蘇ることとなるからです。後の箇所から分かる通り、神がエリシャを通して蘇らせるのです。そのようにして神の栄光が現われることとなるのです。
【4:21】
『彼女は屋上に上がって行って、神の人の寝台にその子を寝かし、戸をしめて出て来た。』
女は死んだ子どもを、エリシャが使っていた寝台の上に寝かしました。ここには彼女の信仰があります。彼女は、このようにでもすれば、子を蘇らせてもらえると考えたのです。実際に彼女はこれから子どもを蘇らせてもらうこととなります。これまでに産まれなかった子が産まれる、という驚くべきことがエリシャの語った通りに起こりました。そのようなことが起きたのであれば、子どもが蘇らせてもらえることも起こるだろう。このように彼女は考えたのでしょう。
【4:22~23】
『彼女は夫に呼びかけて言った。「どうぞ、若者のひとりと、雌ろば一頭を私によこしてください。私は急いで、神の人のところに行って、すぐ戻って来ますから。」すると彼は、「どうして、きょう、あの人のところに行くのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに。」と言ったが、彼女は、「それでも、かまいません。」と答えた。』
女は、子どもをエリシャに蘇らせてもらうため、エリシャのもとに行こうとします。しかし、彼女の夫はどうして妻がエリシャのもとに行くのか分かりません。夫も『新月祭』や『安息日』であれば、神の人エリシャのもとに行くというのは、十分に納得できました。しかし、その日はそのような日でなく、恐らく普通の日だったでしょうから、夫はどうして妻がエリシャのもとに行くのか不思議がるしかなかったのです。
【4:24~25】
『彼女は雌ろばに鞍を置き、若者に命じた。「手綱を引いて、進んで行きなさい。私が命じなければ、手綱をゆるめてはいけません。」こうして、彼女は出かけ、』
夫に行くことを告げた女は、エリシャのもとに出かけます。子どもを生き返らせてもらおうとするためです。ここに彼女に信仰がありました。『私が命じなければ、手綱をゆるめてはいけません。』という言葉には、信仰の堅固さが感じられます。もし信仰が無ければ、こうしてエリシャのもとに行こうとしたかどうか定かではありません。この時に彼女が『雌ろば』に乗って行ったのは、つまり雄のロバとか馬で行かなかったのは、彼女の謙遜さや控え目な姿勢を示しているのかもしれません。
【4:25】
『カルメル山の神の人のところに行った。』
エリシャがいた場所は『カルメル山』でした。エリヤが多くの偶像崇拝者たちと聖なる戦いをして勝利したあの山です。エリシャがその山にいたのは、エリヤとエリシャの強い繋がりを示しています。強い繋がりがあったからこそ、エリシャはエリヤの後継者となったわけです。別の箇所でも述べたことですが、山という場所は、神のおられる天と、「高さ」という点で共通要素があります。ですから『神の人』であるエリシャが山にいるのは相応しいことだったと言えるのです。キリストもよく山に行かれ、そこで祈りを捧げられました。この『カルメル山』は、女のいたシュネムから、それほど遠く離れていません。
【4:25~26】
『神の人は、遠くから彼女を見つけると、若い者ゲハジに言った。「ご覧。あのシュネムの女があそこに来ている。さあ、走って行き、彼女を迎え、』
カルメル山にいたエリシャは、女を見つけると、ゲハジに迎えるよう命じます。この時にゲハジに迎えさせたのも、これまでと同じで、そのようにするのが適切だったからでしょう。エリシャはゲハジに『走って行き、彼女を迎え』るよう命じます。女はエリシャたちに非常に良くしてくれたのです。ですから、このように走って迎えに行かせるのは、当然であり礼儀に適っていたと言えましょう。
【4:26】
『『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか。』と言いなさい。」』
エリシャはゲハジに、3人の者すなわち女とその夫とその子どもが無事であるかどうか尋ねるよう命じます。エリシャがこのように尋ねさせたのは、単なる形式上のことではなかったでしょう。エリシャは純粋な心からこのように尋ねさせたはずです。女はエリシャたちにとても良くしてくれたのです。ですから、エリシャは女とその家族の無事を本当に願っていたはずなのです。ここでエリシャが言っている3人の順序は適切でした。まず第一が女であるのは、この女がエリシャたちに良くしてくれたのですから、自然でしょう。次は女の夫ですが、夫は妻と一体なのですから、これもやはり自然です。そして第三は子どもですが、子どもは母と父に属しているのですから、第三番とするのが相応しかったのです。