【Ⅱ列王記4:26~30】(2025/03/30)


【4:26】
『それで彼女は答えた。「無事です。」』
 ゲハジを通してエリシャから無事かどうか聞かれた女は、『無事です。』と答えました。確かに女とその夫であれば『無事』だったでしょう。しかし、子どもは死んだのですから『無事』でなかったはずです。それなのに女が子どもも含めて『無事です。』と答えたのはどうしてでしょうか。これには3つのことが考えられます。まず女はゲハジにでなく、エリシャに子どもの死を話したかったのかもしれません。何故なら、子どもが産まれると述べたのはエリシャであり、ゲハジはエリシャに仕える僕に過ぎなかったからです。または子どもの死が悲しかったため、口に出して言いたくなかったのかもしれません。そうでなければ、子どもが生き返ることを予め見越し、もう既に生き返ったも同然であるという前提で『無事です。』と言ったのかもしれません。ここで『無事です。』と言われているのが子どもを除いてのことだったとは考えられないでしょうか。その可能性もあるかもしれませんが、実際はどうだったのか私たちに分かりません。

【4:27】
『それから、彼女は山の上の神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、』
 エリシャのもとに行った女は、エリシャの『足にすがりつ』きました。子どもが死んだため大きな悩みを抱いていたからです。言葉には出さずとも、振る舞いがその悩みをよく示していました。しかし、ゲハジは彼女の悩みについてまだ何も知りませんでした。ですから、彼女が不適切な振る舞いをしたと思ったのでしょう、ゲハジは『彼女を追い払おうと近寄』りました。ゲハジがこの時に何か言いながら近寄ったのかどうかは分かりません。

『神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠され、まだ、私に知らせておられないのだ。」』
 女を追い払おうとしたゲハジに対し、エリシャは『そのままにしておきなさい。』と言って制止します。『足にすがりついた』ぐらいですから、『彼女の心に悩みがある』のだろうと感じられたのです。この読みは当たっていました。しかし、ここでエリシャが言っている通り、まだ神は彼女の悩みをエリシャに知らせておられませんでした。その悩みが何か分かるようになるのは、もう少し経ってからのことでした。エリシャは女に何か悩みがあるだろうとは思いましたが、その悩みが具体的に何なのかまだ知らなかったのです。私たちにもこのような事柄がしばしばあるものです。そのようなことは、神がそれを知らせて下さるまで、隠されたままの状態であり続けます。

【4:28】
『彼女は言った。「私があなたさまに子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」』
 エリシャの足にすがりついた女は、かつてエリシャが子どもについて預言した時のことを語ります。エリシャが子どもを持つようになると女に告げたのは、女からすれば『気休め』でした。女はこの箇所でこのように言っただけです。しかし、このように言うだけでは女がエリシャに何を言いたいのか分かりません。恐らく彼女からすれば、このように言うぐらいが限界だったのでしょう。もし子どもの死について言っていたなら、彼女は耐えられなかったはずです。子どもの死があまりにも辛いため、このように曖昧で遠回しな言い方しかできなかったのです。

【4:29】
『そこで、彼はゲハジに言った。「腰に帯を引き締め、手に私の杖を持って行きなさい。たといだれに会っても、あいさつしてはならない。また、たといだれがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の顔の上に置きなさい。」』
 女の言葉と振る舞いから、子どもに良からぬ異常が起きていたことは明らかでした。しかし、エリシャはまだその異常な状態がどのようであるか知りませんでした。エリシャは自分に良くしてくれた女の子どもですから、何とかしようと思ったはずです。そこでゲハジに自分の杖を持たせ、子どものもとへ行くよう命じます。これはその杖により子どもの状態が良くなるようにするためです。つまり、エリシャは神の奇跡が行なわれることを求めたのです。自分の杖をゲハジに持って行かせれば神も働きかけて下さるはずだと思ったのでしょう。エリシャは、ゲハジが道中で挨拶するのを禁じました。これはなるべく早く子どものもとに着いたほうがよいからでしょう。挨拶などしていれば遅くなることに繋がりかねません。またエリシャは神の奇跡が行なわれることを求めたのですから、ゲハジに集中させることは当然だったと言えるでしょう。神の奇跡が行なわれるのであれば、心が別の事柄に逸れるのは望ましくないのです。ここでエリシャが杖を子どもの『顔の上』に置くよう命じたのは何故でしょうか。これは顔がその人を最もよく現わしている部位だからなのでしょう。ですから、杖を通して神の奇跡が行なわれるならば、その杖を置く部位は頭部が最も相応しかったのです。

【4:30】
『その子の母親は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」』
 子どものためゲハジを行かせたエリシャに対し、女は決してエリシャを離さないと強く言いました。つまり、子どもを生き返らせてもらえるまでは決してエリシャから離れないというわけです。彼女の強い思いがここに示されています。しかも、彼女はそのことを誓うことさえしました。ここで『主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。』と彼女が言ったのは、神とエリシャの前における誓いです。つまり、もし自分が言った言葉に反しエリシャから離れたりするならば、誓いを破った者として、神とエリシャからどのように罰されたとしても構わないということです。

『そこで、彼は立ち上がり、彼女のあとについて行った。』
 女は子どもを何とかしてもらわない限り、決してエリシャから離れないと断言しました。エリシャにしても、女が非常に良くしてくれたのですから、何とかしてその子を助けてやるべきだったはずです。そうするのが礼儀に適ったことだったのは間違いありません。もしここでエリシャが女の求めを無視したなら、エリシャは礼儀知らずの者だと見做されても文句を言えなかったでしょう。ですからエリシャは子どもを何とかすべく『立ち上がり、彼女のあとについて行』きました。すなわち、カルメル山から東に位置するシュネムの町まで女と共に行きました。