【Ⅱ列王記4:31~37】(2025/04/06)


【4:31】
『ゲハジは、ふたりより先に行って、その杖を子どもの顔の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかったので、引き返して、エリシャに会い、「子どもは目をさましませんでした。」と言って彼に報告した。』
 ゲハジはエリシャに仕える僕ですから、エリシャに命じられた通り、『ふたりより先に行って、その杖を子どもの顔の上に置いた』のですが、しかし『何の声もなく、何の応答もなかった』結果となりました。エリシャはこのようにさせれば奇跡により良い変化が生じると思ったのです。しかし、そのようになりませんでしたから、ゲハジは何も起きなかったことをエリシャに報告しました。エリシャは『神の人』でしたが、そのエリシャの持つ杖をゲハジに使わせるぐらいでは、神の働きによる奇跡はありませんでした。これはゲハジが『神の人』では無かったからでしょう。もしゲハジも『神の人』と呼ばれるような者であれば、この時に杖を子どもの顔に置くことで、その子は生き返っていたはずです。

【4:32】
『エリシャが家に着くと、なんと、その子は死んで、寝台の上に横たわっていた。』
 エリシャが女の家に着くと、女の子どもが死んでいるのを確認しました。子どもが死んでいることを、エリシャはこの時に初めて知ったのでしょう。子どもに何か異常が起きていることは分かったでしょうが、まだその異常が具体的に何かまでは分からなかったはずです。もしかしたら死んだのかもしれないとも感じていたた可能性はあります。しかし、この時になるまで子どもの状態はまだエリシャに明かされていませんでした。ここで『なんと』と書かれているのは、子どもの死が非常に大きな出来事だったことを示しています。エリシャは死んだ子どもを見て驚いたに違いありません。自分が産まれると前もって女に告げていた子どもが死んでいたのです。これが『なんと』という言葉に相応しい出来事だったことは確かです。

【4:33】
『エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。』
 エリシャは部屋に入ると、子どものため主に祈りました。ここでエリシャが何を祈ったのかは書かれていません。しかし、エリシャが子どもの生き返りを祈り求めたのは明らかでしょう。続く箇所を見ても、これは確かなことです。この時にエリシャは『戸をしめて、ふたりだけになって』祈りを捧げました。これは信仰的に集中するためだったはずです。神に子どもを生き返らせてもらおうとするのですから、何かの妨げや気を紛らわす要素を全く排除しようとしたのでしょう。

【4:34】
『それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。』
 神に祈りを捧げたエリシャは、それから『その子の上に身を伏せ』、3つの部位、すなわち『口』と『目』と『両手』を子どもの上に重ねます。これは「3」つの部位です。3は聖書で強調の意味を示します。ですから、エリシャはこうすることで、力強く自分の生命を子にも及ぼそうとしたのでしょう。エリシャはこのようにして、子どもが生き返るようにと願い求めたわけです。実に象徴的なやり方です。すると、『子どものからだが暖かくなってき』ました。神に不可能なことはありません。この全能の神にエリシャは仕えていました。ですから、神はエリシャの祈りを聞き入れ、このように子どもの命を生き返らせて下さったのです。

【4:35】
『それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。』
 エリシャは子どもに生気が戻ったのを、はっきり感じたことでしょう。それから『彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り』ました。何か考え事をしたり、悩んだりしたからというので、こうしたのではないでしょう。意味なくこうしたわけでもないはずです。エリシャは子どもが、このように動き回るような状態へ回復することを願い求めていたのです。これも象徴的なやり方です。それから、エリシャはまた『子どもの上に身をかがめ』ました。生気が更に戻ることを求めたのでしょう。エリシャは子どもが完全に生き返るまで、このようなことを繰り返したはずです。すると、『子どもは七回くしゃみをして目を開』きました。神が子どもに働きかけて下さったのです。ここで子どもが『七回』のくしゃみをしたのは、完全に生き返ったことを意味しています。何故なら、聖書で「7」は完全性・十全性を示すからです。ですから、この『七回』とは単なる象徴として書かれているのでなく、実際の回数として書かれています。

【4:36】
『彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい。」と言いつけた。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。』
 神により子どもは完全に生き返りましたから、エリシャはゲハジに女を呼び出させました。この時もやはりゲハジに呼び出させるのが相応しかったのでしょう。すると、呼ばれた女はエリシャのもとに来ました。子どもが生き返ったのだろうと期待して来たのでしょうか、それとも何が起きたのか把握できずに来たのでしょうか。どちらかは分かりませんが、とにかく彼女は呼ばれた通りに来ました。

【4:36~37】
『そこで、エリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい。」と言った。彼女ははいって来て、彼の足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをした。そして、子どもを抱き上げて出て行った。』
 もう子どもは生き返りましたから、エリシャは呼び出された女に対し『あなたの子どもを抱き上げなさい。』と言います。この時に生き返った子どもを見た女は、驚きつつ喜んだと思われます。このようにしてエリシャは『神の人』であることが、また証明されました。神がエリシャを通して子どもを生き返らせて下さったのだからです。そのため、女はエリシャの『足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをし』ました。これは宗教的な崇拝というより、エリシャを神の人として尊んで感謝したのです。こうして女は『子どもを抱き上げて出て行』きました。ここにおいて神の栄光と御恵みが現わされることとなりました。