【Ⅱ列王記4:38~42】(2025/04/13)


【4:38】
『エリシャがギルガルに帰って来たとき、』
 エリシャはカルメル山から、それまでにいた『ギルガルに帰』りました。カルメル山からギルガルまでは南にかなり長い距離が離れています。このギルガルは、エリコから少し東に離れた場所、ヨルダン川の下流のすぐ西側、死海の北近くに位置しています。この箇所からこれまでと違う新しい話に記述が切り替わっています。

『この地にききんがあった。』
 エリシャがギルガルに帰った頃は、『この地にききんがあ』りました。この飢饉の程度がどれほどかは分かりません。この飢饉は、イスラエル人たちが犯していた偶像崇拝の罪に対する神からの呪いです。律法も教える通り、そのような罪に対して与えられる呪いの一つとして飢饉があるからです。ソロモンが聖書で言っている通り、『謂れのない呪いはやって来ない』のです。この時に生じていた飢饉の呪いも、やはり罪という原因が背景にありました。もしイスラエル人たちが罪に陥っていなければ、このような飢饉も起きていなかったでしょう。

『預言者のともがらが彼の前にすわっていたので、彼は若い者に命じた。「大きなかまを火にかけ、預言者のともがらのために、煮物を作りなさい。」』
 エリシャがギルガルに帰ってからある日のこと、『預言者のともがらが彼の前にすわってい』ました。この『預言者のともがら』がどのような人物だったのか詳細は分かりません。この時は飢饉がありましたから、エリシャは『預言者のともがら』のため煮物を作るよう若い者に命じます。仲間のために料理を用意する。これはごく自然なことです。

【4:39~40】
『彼らのひとりが食用の草を摘みに野に出て行くと、野生のつる草を見つけたので、そのつるから野生のうりを前掛けにいっぱい取って、帰って来た。そして、彼は煮物のかまの中にそれを切り込んだ。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。彼らはみなに食べさせようとして、これをよそった。』
 エリシャに命じられた通り、若い者の一人が『食用の草を摘みに野に出て行』き、『野生のうり』を多く取りました。しかし、それは食べられない植物でした。『彼らはそれが何であるか知らなかった』ため、『煮物のかまの中にそれを切り込ん』でしまいます。そして、それを食べるため、よそって皆の前に出します。このようにしたのはそれが何か知らない無知のためであり、悪意があったのではありませんから、仕方なかったのです。古代ローマ人は無知を毒であるとよく言いましたが、この時は無知が本当の毒を齎してしまいました。もし彼らが食べられない植物だと知っていれば、このように調理して出すことも無かったでしょう。

【4:40】
『みながその煮物を口にするや、叫んで言った。「神の人よ。かまの中に毒がはいっています。」彼らは食べることができなかった。』
 皆が煮物を食べたところ、すぐ食べられないことが分かりました。毒の植物が駄目だったのです。その植物が全てを駄目にしていました。ですから、彼らは調理ミスにより、こうなったことがすぐ分かりました。誰かが毒を入れたとかいうのではありません。そんなことはエリシャの群れにおいて考えられないことです。しかし、このように煮物が食べられなかったのは神の御心でした。もし御心で無ければ、若い者が食べられない草を見つけることはなかったか、もし見つけても取って持ち帰り調理することがなかったでしょう。全ては神の御心が成るのです。

【4:41】
『エリシャは言った。「では、麦粉を持って来なさい。」彼はそれをかまに投げ入れて言った。「これをよそって、この人たちに食べさせなさい。」その時にはもう、かまの中には悪い物はなくなっていた。』
 煮物が食べられないと分かりましたから、エリシャが『麦粉』を『かまに投げ入れ』ると、その煮物は食べられる物となりました。投げ入れられた麦粉が毒消しの効果を持っていたのではありません。つまり、その麦粉が特殊な麦粉だったというのではありません。それはごく普通の麦粉だったでしょう。麦粉そのものがどうとかいうのではなく、神がエリシャの投げ入れた麦粉により奇跡を行なって下さったのです。何故なら、エリシャは『神の人』であり、そのような者により奇跡を行なうのは神の御心に適っているからです。ですから、エリシャでない者が麦粉を投げ入れたとしても、釜の中にある煮物は食べられないままだったでしょう。先にゲハジがエリシャの杖を用いても、神が奇跡を行なわれなかったのと同じことです。このようにして、神はエリシャを通して御自分の栄光を現わされました。またその奇跡により、エリシャは『神の人』であるということが、ますます確かに分かることとなりました。こういうわけですから、煮物の中に毒が入っていたのは、良い結果に至りました。ですから、煮物が食べられないようになったのは神の御心だったわけです。もし煮物が普通に食べられたとすれば、エリシャが奇跡を行なうことも、その奇跡により神の栄光が現わされることもなかったでしょう。神は御心に適ったことをなさいます。

【4:42】
『ある人がバアル・シャリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持って来た。』
 エリシャのもとに『大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持って来た』『ある人』が、どのような人であったかは分かりません。エリシャは神に仕えていました。ですから、神はこのように誰かを通して、エリシャに必要を備えておられたのです。キリストも言われた通り、『働く者が報酬を受けるのは当然』だからです。この『ある人』がエリシャに持って来た『初穂のパン』と『新穀』は、良いものです。それは第一のものであり、後続するものではないからです。これはこの『ある人』が、エリシャを『神の人』として重要視していたからでしょう。態度や評価といったものは、このように行ないや振る舞いに現われるものです。この人が持って来たパンの数である「20」は、ここで特に象徴的な意味を持たないでしょう。『一袋の新穀』がどれぐらいの量だったかは分かりません。