【Ⅱ列王記5:3~7】(2025/04/27)


【5:3】
『その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」』
 イスラエルから捕えられた若い娘は、ナアマンのらい病について知っていたでしょうが、『サマリヤにいる預言者』であれば直せるということを女主人に言いました。『サマリヤにいる預言者』とは誰を指して言ったのでしょうか。これはエリシャのことでしょう。そのような奇跡を行なえたのは、イスラエルの中で、エリシャだけだったはずだからです。この娘は『あの方』と個人を指して言っていますから、これはエリシャのことだったはずです。しかし、この娘はどうしてこのようなことを女主人に話したのでしょうか。純粋な善意からだったのでしょうか。それともエリシャが将軍という地位の高い者を癒すことで、イスラエルつまり神の民および彼らの主である神の名声が高められるようにしたかったのでしょうか。またはナアマンが良い状態になったことで捕えられた状態から解放してくれることを目指していたのでしょうか。実際はどうだったか分かりませんが、この3つのどれも可能性としては考えられるでしょう。いずれにせよ、このようにして女が預言者のことを話すのは御心でした。それはナアマンに関する話がこのようにして聖書で書き記されるためでした。

【5:4】
『それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。』
 若い娘が女主人に話したことを、ナアマンはその女主人から聞いたことでしょう。その話を、ナアマンは自分の主君に告げ知らせました。それは実際に娘の話した預言者のところに行きたかったからでしょう。しかし、ナアマンは地位も高く尊重されていたので、まず王に話してからにしようとしたわけです。このようにナアマンが王に話したのは、娘の話したことを真実だと思ったからに他なりません。もし娘の話を取るに足らないと思っていれば、どうして王にそのことを話したでしょうか。下らない話をわざわざ告げるのは、王にとってもナアマンのような将軍にとっても、相応しくないことだったはずです。

【5:5】
『アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」』
 ナアマンから若いイスラエル娘の話したことを聞いたアラム王は、ナアマンがイスラエルに行くよう許可しました。この王はナアマンを重んじていました。ですから、らい病からナアマンが癒されることを願って、このように許可を出したのでしょう。ナアマンはこのように言われることを願っていたはずです。ですから、王から許可が出たことを喜んだに違いありません。アラム王は、ナアマンのためイスラエル王に対し手紙を書くことさえしてくれました。それが王の直筆だったのか、口述筆記によったのかは、私たちに分かりません。

『そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。』
 王からイスラエルに行く許可が出ましたから、ナアマンはここで書かれているような贈り物を持って出かけました。これは直してもらったことに対する代価として渡そうとされたものです。かなり多くの贈り物をナアマンは持って行ったことが分かります。もしらい病が直るならば、これぐらいの犠牲を払っても惜しくない。ナアマンはこう考えていたのでしょう。これほどの贈り物を持って行ったぐらいですから、ナアマンは自分のらい病に極めて強い悩みを抱いていたのかもしれません。だからこそ、もしイスラエルの若い娘の言ったことが本当ならばと思い、王にそのことを話したわけです。

【5:6】
『彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のらい病から彼をいやしてくださいますように。」』
 ナアマンがイスラエルに出かけた際は、アラム王の書いてくれた手紙を持って行きました。しかし、その内容は、あたかもイスラエル王がナアマンのらい病を癒すべきであるかのように書かれていました。ナアマンを癒すのは、イスラエル王でなく、預言者エリシャです。それなのにどうしてアラム王は、イスラエル王がナアマンを癒すかのように書いたのでしょうか。アラム王は、ナアマンから聞いたイスラエル娘の話を、あまりよく弁えていなかったのでしょうか。それとも、このように書くだけで十分だと判断したのでしょうか。つまり、このように書けば、イスラエル王が預言者のことを思い出し、預言者にナアマンを癒すよう要請しれくれると思ったのでしょうか。いずれにせよ悪意あってこのように書いたのではなかったはずです。

【5:7】
『イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を贈って、らい病を直せと言う。』
 イスラエル王はナアマンが持参したアラム王の手紙を読み、その内容に驚きを隠せませんでした。その手紙は、あたかもイスラエル王が『殺したり、生かしたりすることのできる神』だと言わんばかりの書き方がされていたからです。勿論、イスラエル王が神のような癒しを行なうことはできませんでした。王は奇跡を行なう預言者では無かったからです。ですから、ナアマンを癒せと言われて驚いてしまったわけです。その時にイスラエル王が『自分の服を引き裂い』たのは、古代ユダヤにおける一般的な風習です。彼らは驚きや感じた衝撃の大きさを示すため、このように振る舞うことが多くありました。この時のイスラエル王の場合、アラム王に言われたことを理解できず驚いてしまったため、このように服を引き裂いたのです。今の日本人であれば、かなり怒った際は、何か物を地面に叩きつけるということがあるでしょう。古代ユダヤ人が服を引き裂いたのは、それと似たような感じだと考えれば分かり易いでしょう。

『しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」』
 イスラエル王は、アラム王が手紙で述べたことを理解できませんでした。そのため、アラム王が『言いがかりをつけようとしている』と結論せざるを得ませんでした。実際にアラム王が言いがかりをつけようとしたのではないはずです。ただアラム王は書き方が非常にまずかった。足りないというか誤解を招いて当然の内容だったのです。ここでイスラエル王が『考えてみなさい。』と話している対象は、側近とか大臣とか長老とか家臣といった周囲にいた者たちでしょう。王はいつもだいたい誰かが近くにいるものです。あまり重要な事柄ではありませんが、妻や子どもや親戚だった可能性もあります。