【Ⅱ列王記5:8~12】(2025/05/04)
【5:8】
『神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」』
イスラエル王がアラム王の手紙を読んで服を引き裂いたことは、エリシャも知ることとなりました。どのような形でエリシャが知ることになったかは分かりません。エリシャは『王のもとに人をやって』、ナアマンを自分のもとによこすよう要請します。そうすればナアマンは『イスラエルに預言者がいることを知る』からです。何故なら、神がエリシャを通してナアマンを癒して下さることを、もう既にエリシャは知っていたからです。そのような癒しが与えられるなら、ナアマンはエリシャを真の預言者だと認めざるを得ないのです。ここでエリシャはイスラエル王に対し、あたかも「私がイスラエルにいることを知らなかったのですか。」とでも言おうとしているかのようです。恐らく、イスラエル王はエリシャのことを知らなかったか、全く知らないわけではなかったもののすっかり忘れていたのでしょう。
【5:9】
『こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。』
使いからエリシャの言葉を聞いたイスラエル王は、その言葉通りにナアマンをエリシャのもとに向かわせました。これはエリシャが真の預言者であることを否定できなかったからです。もしエリシャが預言者であることを疑っていたとすれば、どうしてわざわざ他国の将軍を出向かせることがあったでしょうか。このようにしてナアマンは来たのですが、将軍らしく『馬と戦車をもって来』ました。その馬と戦車がどれぐらいだったかは分かりません。この時にナアマンと共に多かれ少なかれ部下がいたのは間違いないでしょう。この時にナアマンは『エリシャの家の入口に立った』だけであり、その中に入ることまではしませんでした。
【5:10】
『エリシャは、彼に使いをやって、言った。』
ナアマンがエリシャの家まで訪れましたから、エリシャは『彼に使いをやって』自分の言葉を言わせました。つまり、エリシャ自身が直にナアマンと会い話したのではありません。しかし、こうするのがエリシャのやり方だったのでしょう。先に見たシュネム女の話でも、やはりエリシャは使いに自分の言葉を告げさせていました。
『「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」』
エリシャは使いを通して、ナアマンがヨルダン川で七回身を洗うならば清くなると述べました。『七たび』と言われたのは、7が聖書で完全性や聖性を示す数字だからです。つまり、ナアマンが『七たび』身を洗うことで、清められたことが豊かに示されることとなるのです。ですから、エリシャがナアマンに7回身を清めよと言ったのは意味のあることでした。ナアマンは、まずエリシャの言った言葉を信じることが求められていました。そして信じたその言葉通りにヨルダン川まで向かうのです。そうすれば神がナアマンに癒しの奇跡を行なって下さるというわけです。神は信仰のある者に恵み深くあられるからです。それゆえ、ナアマンにまず求められていたのは信じることでした。
【5:11】
『しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。』
使いからエリシャの言葉を聞いたナアマンは、怒りを心に持ちました。何故なら、ここでナアマンが言っているようなことをエリシャはしようとしなかったからです。エリシャは、直にナアマンに会うことさえしませんでした。ただ自分の言葉を使いに告げさせただけです。ですから、ナアマンはそれが気に入らず、怒りに燃えたわけです。しかし、エリシャは実質的に正しいことをしていました。ナアマンがエリシャの言葉通りにすれば、エリシャが会おうとしなくても、ナアマンのらい病は癒されたからです。そうなれば癒されるというナアマンの目的は遂げられることとなります。ただナアマンからすればエリシャのやり方が単に気に入らなかっただけに過ぎませんでした。
【5:12】
『ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」』
ナアマンは、ヨルダン川より『ダマスコの川、アマナやパルパル』で洗って清められることを求めました。何故なら、それらの川は『イスラエルのすべての川にまさってい』たからです。「どうしてヨルダン川でなければいけないのか。」このようにナアマンは思い不満に感じたわけです。しかし、エリシャがヨルダン川を指定したのは、ナアマンに難しいことを求めたのではなかったからです。ナアマンに求められていたのは、行ないの難しさというより、ただ心で癒されるのを信じることだけでした。
『こうして、彼は怒って帰途についた。』
この通り、ナアマンはエリシャの求めたことが気に入りませんでした。このため、『怒って帰途についた』のです。もしエリシャから言われた通りに行なっていれば癒しが得られたにもかかわらず、です。彼の怒りがそのようなチャンスを台無しにするところだったのです。この通り、怒りは私たちにマイナス作用を生じさせます。幸いを得られるのにそれを取り逃してしまうのです。しかし、怒らない謙遜さは幸いを齎します。良い事柄に対し謙遜な態度で対応するからです。