【Ⅱ列王記5:15~19】(2025/05/18)


【5:15】
『それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」』
 ナアマンはらい病から癒されるという大きな恵みを受けましたから、それに対するお礼として用意しておいた『贈り物』をエリシャに受け取らせようとします。このようにするため、ナアマンは贈り物を用意したのです。その贈り物がどれだけ多いかは先の箇所で見た通りです。ナアマンはここで自分をエリシャの『しもべ』であると言っています。これはエリシャの言った言葉により神から癒しが与えられたからです。ナアマンは地位の高い者でしたが、このような素晴らしい癒しを受けたのですから、自分をエリシャの僕として遜らせるに十分過ぎるほどでした。先に怒った時のナアマンと、この時のナアマンは、どれだけ態度が違うことでしょうか。これは神の癒しがナアマンに与えられたからでした。もしナアマンに癒しが与えられなければ、ナアマンはずっと不満を持ったままの態度でいたことでしょう。

【5:16】
『神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。」それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断った。』
 エリシャに贈り物を受け取らせようとしたナアマンでしたが、エリシャは受け取ろうとしませんでした。何故なら、エリシャは、ナアマンから贈り物を受け取るため癒されるようにしたのではないからです。エリシャは癒されることでナアマンが全能の神を知るようにしたのです。実際に、神から癒されることでナアマンは『イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知り』ました。ですから、ナアマンが癒され神を知ったことだけで、全てはもう良かったのです。ここでエリシャは『私が仕えている主は生きておられる。』と言い、決して受け取らないことを誓いました。これはもし贈り物を受け取るなら神から罰せられても構わないという宣言です。何としてもナアマンは贈り物をエリシャに受け取らせたかったはずです。しかし、エリシャがこのような態度でしたから、贈り物を受け取らせることは遂にできませんでした。もしナアマンが単にエリシャを経済的に支えるとか養うというのであれば、話は違っていたでしょう。その場合ならエリシャもナアマンからの助けを受けていたはずです。実際、先に見た箇所で、エリシャはシュネム女から食事のもてなしを受けており、屋上にエリシャが使う部屋さえ用意してもらったほどでした。バアル・シャリシャからやって来た人がパンと新穀を渡した際も、エリシャはそれを拒みませんでした。つまり、サポートのような形であれば問題はありませんでした。しかし、この時にナアマンの渡そうとした贈り物は性質が異なっていました。

【5:17】
『そこでナアマンは言った。「だめでしたら、』
 ナアマンが『だめでしたら』と言ったのは、受け取らせることを諦めたのです。贈り物を受け取らないというエリシャの態度は揺るぎませんでした。もしナアマンがあのシュネム女のように養ったり協力しようとしていたなら、エリシャもそれを拒むことは無かったでしょう。

『どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。』
 ナアマンは異教徒である異邦人でした。ですから、これまでは真の神ではない『ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげ』ていました。しかし、らい病を神により癒されたことで、神こそ真の神であることがナアマンには分かりました。このため、ナアマンはもう生贄を『ただ主にのみささげ』る決心をしました。他の神々は偽りであり、ナアマンのらい病を癒すことなど決して出来ないからです。そのような存在しない存在に生贄を捧げるというのは、おかしいことなのです。ナアマンはそのことを悟りました。このようにして神は御自分のことをナアマンに知らせて下さいました。これは神がナアマンに働きかけておられたからです。

 ここでナアマンが『二頭の騾馬に載せるだけの土を』エリシャに求めているのは何故なのでしょうか。これはナアマンの遜りを示していると思われます。何故なら、人間は神から『土』により創造されたからです。つまり、これは「私は神の御前で土に過ぎぬ小さなものです。」という遜りの告白であると考えられるのです。しかし、土を『二頭の騾馬』に載せるのはどういう意味があるのでしょうか。どうして「一頭」ではないのでしょうか。これは今述べた遜りの告白を強調しているのでしょう。「私はもう本当に土に過ぎないつまらない者でしかないのです。」と言いたいわけです。何故なら、聖書において「2」は強調とか確認の意味があるからです。

【5:18】
『主が次のことをしもべにお許しくださいますように。私の主君がリモンの神殿にはいって、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります。それで私もリモンの神殿で身をかがめます。』
 ナアマンの主君であるアラム王は、異教徒であり、偶像崇拝者でした。そのため『リモンの神殿にはいって、そこで拝む』ことをしていました。その神殿では偽りの神であるリモンが祀られていたのでしょう。王が拝む場合はナアマンの『腕に寄りかか』っていました。それでナアマンも『リモンの神殿で身をかがめ』ていました。これがリモン崇拝のやり方だったのでしょう。このようにするのは偶像崇拝ですから、神の御前で罪深いことでした。

『私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。」』
 ナアマンはもう神こそ真の神であると知り、他の神々は偽りに過ぎないと知りました。ですから、偶像崇拝がいけないこともよく分かったはずです。しかし、立場上どうしてもナアマンはリモンの神殿で身をかがめなければなりませんでした。ですから、そのことが許されるようにと神にここで求めています。「まだ神を知ったばかりで仕方ないのだから何とか大目に見ていただきたい。」とでも言いたいかのようです。かつてのナアマンはリモン神殿で身をかがめる際、内面でも心の身をかがめていたでしょう。しかし、もうこれからは実際の身体をかがめても、心の身はかがめることがありませんでした。

【5:19】
『エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」』
 リモン神殿での行為について許しを求めたナアマンに対し、エリシャは『安心して行きなさい。』と答えました。これはナアマンの求めが許容されたと見做していいかもしれません。何故なら、エリシャはナアマンの求めに対し何も厳しいことを言っていないからです。旧約時代において、ナアマンのように神を知り偶像崇拝から遠ざけられた異邦人は、ユダヤの共同体にいた在留異国人を除き、かなり珍しかったはずです。ですから、エリシャはナアマンがもう偽りの神々に生贄を捧げないというだけで十分とし、形式的に身をかがめることについては大目に見たのかもしれません。もし大目に見たのでなければ、次のように厳しく言っていた可能性もあります。「あなたは神こそが真の神だと知ったのだから、たとえ形式的にであっても偽りの神々の前で身をかがめたりすべきではない。」しかし、エリシャは何もこういったことを言いませんでした。この時はエリシャにもナアマンにも喜びと平安があったことでしょう。『安心して行きなさい。』とエリシャに言われましたから、ナアマンはリモン神殿のことで何も思い煩わずに済んだはずです。