【Ⅱ列王記6:5~11】(2025/06/08)
【6:5】
『ひとりが材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまった。彼は叫んで言った。「ああ、わが主。あれは借り物です。」』
エリシャたちがヨルダン川で木を切り倒していると、ある仲間が『斧の頭を水の中に落としてしま』いました。斧という道具の性質上、これは仕方が無いことでもあったはずです。律法でも、このようなことの起こる場合を前提とした内容が書かれています。落とした者は、それが自分の斧であれば、そこまで動じなかったかもしれません。しかし、その斧は『借り物』でした。ですから、彼は落としたことについて『叫んで言った』わけです。
ここで斧の頭を落とした仲間は、エリシャを『わが主』と呼んでいます。これは神を主と呼ぶ場合のような呼び方と違っていたはずです。これは自分の人生において従うべき主人というほどの意味でしかないはずです。ちょうど妻が夫を「主人」と呼ぶのと同じ感じでしょう。だからこそ、エリシャもこのように呼ばれたことで何も咎めたりしないわけです。もし神として『主』と呼ばれたならば、偶像崇拝となりますから、エリシャもこの仲間を咎めていたはずです。
【6:6~7】
『神の人は言った。「どこに落としたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。彼が、「それを拾い上げなさい。」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。』
エリシャが斧の頭の落ちた場所に『一本の枝』を投げ込むと、その頭は水から浮かびました。その枝に何か物体を水から浮かばせる効果があったのではありません。神がエリシャを通して奇跡を行なわれたのです。ですから、同じことを誰か他の人が行なったとしても、水の中に落ちた斧の頭は決して浮かんでこなかったでしょう。その人がエリシャと同じ『神の人』と呼ばれるような人でもない限りは、確かにそうです。
このようにして神はエリシャを通して素晴らしいことをなさいました。それは、エリシャが神に仕える忠実な『神の人』であることをますますよく知らせるためだったはずです。そのようにすれば、エリシャを通して神の栄光が現われることにもなるのです。ですから、エリシャの仲間が斧の頭を水に落としてしまうのは、神の御心に適ったことでした。
【6:8】
『アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、』
アラムはイスラエルと戦っていましたが、これはイスラエルがアラムを征圧できていなかったからです。それどころか逆にアラムから征圧されそうになっていたわけです。これはイスラエル人が偶像崇拝の罪を犯していたからです。そのためにイスラエルは呪われ、敵を征圧できず、その敵に悩まされる悲惨を受けていたのです。罪深ければ確かにこのようになると律法では示されています。もしイスラエルが正しく歩んでいたなら、アラムを征圧して勝利することができていたでしょう。
『王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」』
アラム王は、自分の家来たちと相談し、どこに陣を敷くか決めていました。それはもちろん、自分たちと戦っているイスラエルを打ち負かすためでしょう。王はこのような相談をよくするものです。こういった相談そのものは良いことであり、多くの益があります。相談するほど成功率が高まり、相談しないほど失敗率が高まるはずです。ソロモンも箴言で相談の重要性を私たちに教えています。
【6:9】
『そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」』
アラム王が陣を敷く場所を決めると、エリシャはそこを通らないようにとイスラエル王に警告しました。それは、イスラエル人がアラムの手に陥らないためです。エリシャがアラムまで偵察に行ったからこそ、このように警告できたのではありません。エリシャは神により、アラム軍が陣を敷く場所を前もって知れたのです。エリシャはアラムまでわざわざ行っていなかったでしょう。神にはどんなことでもおできになります。ですから、エリシャはこのようにして予め警告することができたのです。
【6:10】
『そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。』
エリシャがイスラエル王に警告すると、イスラエル王はその警告された場所に使いの者を送りました。これは、その場所をよく確認させるためでしょう。よく確認すれば、しっかり把握できます。しっかり把握できれば、最善の判断が持てるようになります。その場所やその場所の近くにいる同胞を退避させる目的もあった可能性があります。このようにして『王はそこを警戒した』のです。
エリシャの警告によりイスラエル王が警戒したのは、『一度や二度では』ありませんでした。それが実際にどれぐらいだったかまでは分かりません。とにかく多くあったことは間違いないでしょう。これは神がエリシャを通してイスラエルに憐れみを与えておられたからです。この時のイスラエルは罪深かったものの、まだ神から見放されてはいませんでした。
【6:11】
『このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」』
アラム王が家来たちと相談して陣を敷くと決めた場所に、イスラエル人は決して通ることがありませんでした。これはアラム王からすれば驚くべきことだったでしょう。「どうしてイスラエルは我々の計画を知っているかのように通らないのか。」などと思ったに違いありません。このようであるのは、誰か家来たちの中に密告者がいるに違いないとアラム王は考えました。何故なら、そうでなければ家来たちと相談して決めた場所をイスラエルが通らないのは説明できないように思えたからです。このため、『アラムの王の心は怒りに燃え』てしまいます。もし本当にそのような密告者がいたとすれば、アラム王に処刑されていたかもしれません。しかし、実はエリシャが神によりアラムの決めた場所をイスラエル王に知らせていたのでした。アラム王は、まさかそのようなことであるなどと思ってもいませんでした。