【Ⅱ列王記2:7~10】(2024/12/15)


【2:7】
『預言者のともがらのうち五十人が行って、遠く離れて立っていた。』
 エリヤとエリシャがヨルダンに着くと、『預言者のともがらのうち五十人が』この2人から『遠く離れて立って』いました。これは2人の歩みや振る舞い、また状態を確認しようとするためだったのでしょう。何故なら、エリヤのような神の人がどうなるかは、預言者たちにとりかなり大きな意味を持っているからです。ですから、この『五十人』がエリヤとエリヤに付き従うエリシャを見ていたとしても、監視とかプライバシーの侵害というわけではありません。この「50」という数字に象徴的な意味は無いでしょう。しかし、これは先に焼き尽くされた部隊の数と同じです。この預言者における50人と、先に見た部隊の50人は、何か関連性があるのでしょうか。これは特に何も関連性が無いと見ていいでしょう。

『ふたりがヨルダン川のほとりに立ったとき、』
 エリヤとエリシャがヨルダンに着いた時は、その『ほとり』に立ちました。2人はエリコからヨルダンに行ったのですから、『ヨルダン川のほとり』は川の西だったことが分かります。このヨルダン川は、非常に流れが激しい川です。

【2:8】
『エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。』
 ヨルダン川の畔に着いたエリヤは、『自分の外套』を打つことにより、ヨルダン川を両側に切り開きました。これは出エジプトの際における紅海が切り開かれた出来事を思わせます。これはエリヤが、紅海を切り開いたモーセのように偉大な人物だったからでしょう。実際、キリストが山上で変貌された際、このエリヤはモーセと共に現われたのです。この時にエリヤが外套を『丸め』たのは、川の水を打ち易くするためだったはずです。外套がそのままであれば、ひらひらして打ちにくいだろうからです。こうして『ふたりはかわいた土の上を渡った』のです。2人が渡っている間、両側に切り開かれた水は、ずっとそのままだったことでしょう。

【2:9】
『渡り終わると、』
 2人がヨルダン川を『渡り終わる』までにかかった時間は、どれだけだったか分かりません。また、渡っている時に交わされた会話や起きた出来事なども分かりません。2人が歩いている時、50人の預言者はその様子を見ていたと思われます。

『エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」』
 エリヤは自分が取り去られる前に、エリヤが何かを求めるようにと命じます。エリシャはこれまでずっとエリヤと共にいて、エリヤに仕えていたことでしょう。ですから、そのようなエリシャから離れる際、エリヤは何かしてやろうと思ったはずなのです。このように求めさせるのは、一般社会でも師匠と弟子などの間で普通に見られることです。

『すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。』
 エリヤから何か求めるように命じられたエリシャは、エリヤの『霊の、二つの分け前』を求めました。霊の2つの分け前とは何でしょうか。これはエリヤの霊が、そのままエリシャにも分け与えられるという意味でしょう。何故なら、そうなれば1つだけだったエリヤの霊はエリシャにも与えられますから、合計で『二つの分け前』となるからです。エリシャは神を重視していたため、神の人であるエリヤも重視していました。ですから、エリシャはエリヤの霊がどれだけ大きな意味を持つのか理解できたでしょう。このため、エリシャはエリヤの霊を求めたわけです。

【2:10】
『エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。』
 エリシャは、エリシャの求めが『むずかしい注文』だと言います。これは確かにそうだったでしょう。何故なら、エリヤの霊がエリシャに分け与えられるのは、エリヤにどうかできることではないからです。それは神がなさることですから、エリヤはどうしようもないわけです。ならば、エリシャはこの時に間違った求めをしてしまったのでしょうか。そうとは言えないでしょう。エリシャはここで単純にこのような求めをしたに過ぎなかったはずだからです。このような求めをするのは誰にも起こり得ることです。