【Ⅱ列王記2:10~12】(2024/12/22)
【2:10】
『しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」』
エリヤは、エリシャの求めが、場合によって叶えられると答えます。すなわち、もしエリヤの取り去りをエリシャが見れたならば、エリシャはエリヤの霊に与かることができます。しかし、エリヤが取り去られるのを見れなければ、エリシャの願いは叶えられません。つまり、エリシャの願いが叶うかどうかは、エリシャがエリヤの取り去りを見れるかどうかにかかっていました。しかし、どうしてこのようなのでしょうか。それは、もしエリシャがエリヤの取り去りという驚くべき出来事を見れるのであれば、神がエリシャを特別視しておられるのは明らかだからです。そのような人物であれば、エリヤの霊を受けることもできるわけです。しかし、取り去りを見れないようであれば、そこまでの人物だったわけですから、エリヤの霊を受けるに相応しくないのです。この時は、まだ見れるかどうかエリシャに分からなかったはずです。エリシャが見れるのを期待したか、どうせ見れないと失望したか、また他の思いを抱いたのか、それは私たちに分からないことです。
【2:11】
『こうして、彼らがなお進みながら話していると、』
10節目で語られていた話の後も、なお話は続いていました。10節目の後に語られていた話がどのようであったかは分かりません。また、2人がどれぐらい進んでいたのかも分かりません。
『なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、』
2人が歩き続けていると、『一台の火の戦車と火の馬とが現われ』ます。幻が現われたのではありません。物理的に現実な存在としての戦車と馬が現われたのです。しかし、この2つにおける詳細はよく分かりません。戦車の形状や雰囲気また馬がどのようであったか、などはここで書かれていません。ただこの2つとも火を纏っていたことだけは分かります。ここではこの出来事が『なんと』と言われています。これは、どれだけ驚くべき出来事が起きたのかよく示しています。確かに、このような出来事は非常に驚くべきことでした。
『このふたりの間を分け隔て、』
2人の前に現われた戦車と馬は、2人の間を通り抜け、一緒にいないよう分離させました。これはエリヤとエリシャの運命が異なるからです。エリヤは取り去られるのに対し、エリシャはそのまま残されます。ですから、区別がされたわけです。もしエリシャもエリヤと共に取り去られるとすれば、戦車と馬が『ふたりの間を分け隔て』ることは無かったでしょう。この時に『分け隔て』られた様子がどのようだったかは分かりません。戦車と馬は恐らく速く激しかったと推測されますが、実際はよく分かりませんから、何か確かなことを言うのは難しいでしょう。とにかく驚くべき出来事だったことだけは確かです。
『エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。』
こうしてエリヤは、天に上って行きました。つまり、生きながらにして天へと移されました。彼は死を見ることがありませんでした。エリヤは上空に上げられてから、突如であるか徐々に、その身体が天へと移されたことでしょう。こうなったのは、かつてエリヤが神に命を取っていただきたいと求めたからなのでしょう。神は、あの時の求めを聞いて下さったのです。この時にエリヤが『天へ上って行った』のは『たつまき』によりました。その上った角度がどれぐらいだったかは分かりません。戦車と馬がエリヤを天に上げたのではないのです。この2つは、エリヤを上げるというより、エリヤとエリシャの間を分けるために遣わされたのです。しかし、この2つがその勢いにより竜巻を生じさせたのではないだろうか、と思う人もいるかもしれません。その可能性もあるでしょうし、そうではなかったかもしれません。このようにしてエリヤが天に上げられたのは、エリヤが特別に選ばれた人物だったことをよく示しています。もし神から特別に選ばれたのでなければ、どうしてエリヤにこういうことが起きたでしょうか。
【2:12】
『エリシャはこれを見て、』
エリヤが天に取り去られた出来事を、エリシャはその目で見ました。ですから、エリシャがエリヤに求めたことは、エリヤが言った通り、叶えられることとなりました。エリヤはエリシャがこのように取り去りの出来事を見れるかどうか知らなかったかもしれません。しかし、このようにエリシャは見ました。見ることこそ神の御心だったからです。
『「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んでいたが、』
エリヤが取り去られるのを見たエリシャは、『わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。』と叫びましたが、これはどのような意味でしょうか。まず『わが父』とはエリヤのことでしょう。何故なら、エリシャはあたかも親に付き従う子のようにエリヤに付き従っていたからです。ヨハネも手紙の読者たちに『子どもたちよ。』と言いました。これは手紙の読者に対し、ヨハネが親であるかのようにして教えるのだからです。『わが父』とエリシャが繰り返して言ったのは、エリヤが取り去られたことで、強く心が揺れ動いたことを意味しています。『イスラエルの戦車と騎兵たち』とは、2人の間を分け隔てたあの戦車と馬でしょう。エリシャは『騎兵たち』と言っていますから、火の戦車には複数の騎兵が乗っていたのでしょう。しかし、その騎兵たちが実際にどれだけいたのかは分かりません。エリシャはこの言葉を『叫んでい』ました。それは、エリシャが心に大きな衝撃を受けたためであるはずです。