【Ⅱ列王記2:12~15】(2024/12/29)


【2:12】
『彼はもう見えなかった。』
 エリシャはエリヤが天へ上って行く様子を見ていたものの、見えなくなりました。エリシャがどれだけ天へ上るエリヤを見ていたかは分かりません。数十秒だったかもしれませんし、ほんの僅かだった可能性もあり、確かなことは何も分かりません。

『そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。』
 エリヤがもう見えなくなったので、エリシャは自分の着物を『二つに引き裂』きました。自分の主人が突如として取り去られたのですから、心が激しい思いに満たされ、着物を引き裂くこととなったわけです。古代イスラエル社会では、心が激しい思いで揺り動かされた場合、このように着物を引き裂くことも珍しくありませんでした。それはイスラエル社会で象徴性が重視されていたからです。今の日本で言えば、どのような振る舞いがこれに似ているでしょうか。頭をぐしゃぐしゃにし、地面にうずくまり、呻き声を出す、というのがこれに似ているでしょう。

【2:13】
『それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、』
 エリヤが天に取り去られた際は、その身から外套が落とされていました。エリヤが、エリシャのためにと、意図的に落としたのでしょうか。それとも意図せず自然に落ちたのでしょうか。どちらかは分かりませんが、いずれにせよ、外套が落ちるのは神の御心でした。その外套をエリシャが拾い上げます。自分の主人が落としていった外套ですから、それを拾い上げたのは自然なことでした。

【2:13~14】
『引き返してヨルダン川の岸辺に立った。彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、』
 エリヤの外套を拾い上げたエリシャは、自分がそこから歩いてきた『ヨルダン川の岸辺』に引き返しました。そして、そこでエリヤの外套を使い、ヨルダン川の水を打ちます。エリヤはこの外套で打つことにより、ヨルダン川を切り開いたのです。ですから、エリシャもこの外套で打てば水が切り開かれると思ったのでしょう。しかし、ただ外套で水を打つだけでは切り開かれることがありませんでした。

【2:14】
『「エリヤの神、主は、どこにおられるのですか。」と言い、彼が再び水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。』
 エリシャがエリヤの外套で水を打っても切り開かれませんでしたから、エリシャは『エリヤの神、主は、どこにおられるのですか。』と神を呼び求めたうえで、またヨルダン川の水を打ちました。すると今度は『水が両側に分かれ』ました。これはエリヤが自分自身で水を切り開いたのではないことが分かるようになるためでしょう。エリヤは水を切り開きましたが、それはエリヤ自身による奇跡というより、神がエリヤを通して行なわれた奇跡です。ですから、そのことが分かるため、神はエリシャが御自分を呼び求めない限り、エリヤにおいて行なわれたような奇跡を行なわれなかったのです。こうしてエリシャは切り開かれたヨルダン川を渡りましたが、エリシャは西から東にヨルダン川を渡ったのですから、今度は東から西に渡ったことが分かります。

【2:15】
『エリコの預言者のともがらは、遠くから彼を見て、』
 ヨルダン川の西側にいたエリコの預言者たちは、切り開かれたヨルダン川から渡ってきたエリヤを見ました。この預言者たちは、エリシャがヨルダン川を切り開いた出来事をまざまざと見ていたかもしれません。ヨルダン川の東で、エリヤが取り去られた出来事も、遠くからではあるものの見ていた可能性があるでしょう。

『「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている。」と言い、』
 エリシャを見た預言者たちは、エリヤの霊をエリシャに見出しました。これは正しい認識だったでしょう。何故なら、エリシャはエリヤが取り去られる出来事を見たからです。そのように見れば、エリヤの霊がエリシャに与えられるとエリヤは言っていたのです。つまり、神はエリヤの霊を取ってエリシャにも分け与えられました。