【創世記1:11~27】(2021/01/10)
【1:11~12】
『神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。』
神の命令により現われた地には、諸々の植物が生じさせられました。それは種類ごとに従ってでした。例えばリンゴの木はリンゴの木として、イチゴはイチゴとして、桜は桜として生じさせられました。そこには秩序がありました。つまり、植物の創造には無秩序や混乱がまったくなかった。それというのも神とは知恵と秩序の御方だからです。このように植物は私たち人間よりも創造の順序において先輩です。後に見ますが、人間は創造の6日目に生じさせられました。しかし、だからといって私たちが植物を上の立場として見做さねばならないとか、植物に従わねばならない、などということにはなりません。というのも、植物とは私たち人間が管理すべき対象物であって、私たち人間は植物に対する支配者だからです。これは王や大統領や総理大臣が自分よりも遅く生まれたからといって、彼らが自分よりも立場的に下であるとか、彼らの支配に服さなくてもよい、ということにはならないのと一緒です。
神がこのように創造の第3日目に植物を地に生じさせられたのは、正にベストなタイミングでした。伝道者の書3:1の箇所では『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。』と書かれています。神が植物を創造されるのは、この3日目が正に『時』だったのです。どうしてそう言えるのでしょうか。なぜ、3日目に植物を創造されるのが時だったのでしょうか。この地球についてよく考えてみてください。もし植物が3日目に現われていなかったら、地球の空気はどうなっていたでしょうか。植物による空気の清浄が行なわれないので、地球はすぐにも濁った空気で満ちていたはずです。神が3日目に植物を創造されたのは、私たちが引越しをしてからまず第一に掃除をしてクリーンな状態を得るようなものです。また、生物たちが創造されるよりも前に植物が創造されていなかったとすれば、植物よりも先に創造されていた生物たちはどうなっていたでしょうか。その時にはまだ肉食が許されていませんでしたが、生物が互いを食うために殺し合ったり、さもなければ餓死するしかなかったはずです。植物がなければ、殺傷するか餓死する以外に生き残ることは出来ないからです。また、植物が地上において何よりもまず先に創造されていなかったとすれば、この地球の景観はどうなっていたでしょうか。植物よりも先に創造されたあらゆる生物たちは、実に単調で味気のない地球の姿を眺めていたに違いありません。このようなことから分かる通り、まず何よりも地の上に生じさせられるべきなのは植物だったのです。もし神が植物を地上において第一に創造しておられなかったとすれば、神は愚かだったことになりましょう。しかし神は愚かな御方ではありません。ですから、神はまず第一に植物をお創りになったわけなのです。
それにしても進化論はあまりにも愚かしい学説です。進化論では、生物の間に見られる類似性に基づいて進化の現象を論じます。例えば、人間と猿は似ているので人間は猿から進化したなどと考えるのです。何と愚かなことでしょうか。何という思考不足、何という思慮の欠落、何という勇気のなさでしょうか。もし生物間に見られる類似性に基づいて生物の進化を論じるというのであれば、どうして植物の場合はその類似性に着目して進化の現象を論じようとしないのでしょうか。誰が見ても分かるように、植物の間にも生物の場合と同じように明らかな類似性が見られます。それにもかかわらず、進化論で論じられるのは生物の進化だけであって、植物の進化については何も論じません。進化論の学者たちは答えるべきなのです。イチゴとリンゴとトマトには類似性が見られるが、これらの進化関係は一体どうなっているのか。スイカとメロンにも類似性があるが、どちらがどちらから進化したのか。ミカンとレモンの場合はどうなのか。ミカンがレモンから進化したのか、それとも逆なのか。キュウリとピーマンとカボチャはどうか。キュウリがピーマンに進化してその次にカボチャへと進化したのか、それとも全くその逆の順序だったのか。パイナップルとドラゴンフルーツは。答えられるならば答えてみよ、と私は言いたいのです。どの学者も恐らく何も答えられないはずです。実際、どの進化論の学者も論じることと言えば生物の進化だけであり、植物の進化についてはまったく取り扱っていません。取り扱っていないのは、分からず対処のしようがないからです。もし分かっていたならば、彼らは植物の進化についても論じていたはずです。生物にだけ類似性に基づいて進化を論じ、植物の場合は類似性があっても進化について論じようとしないのは明らかにおかしい。もし植物の場合は類似性が見られても進化がないというのであれば、そのことについて素通りをせず、シッカリとその理由について論じるべきなのだ。「植物にも生物と同じように類似性が見られるが、植物の場合は進化がない。その理由は…云々」と。何故なら、そのようにするのが筋であり、健全な学者のなすべき仕事であるから。このように進化論には植物の進化を取り扱えないという致命的な欠陥が存在しています。ですから、そのような欠陥がある進化論という学説を受容することは絶対にできません。
【1:13】
『こうして夕があり、朝があった。第三日。』
ここでも先に見た2つの箇所(1:5、8)と同じ内容のことが言われています。この1:13の箇所で言われているのは、世界が創造されてから72時間経過した、ということです。
【1:14~18】
『ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。』
ここで言われているのは4日目の創造についてです。
神は4日目に太陽と月とを創造されました。ここでは太陽が『大きいほうの光る物』、月が『小さいほうの光る物』と呼ばれています。これは子どもでも分かることです。しかし、どうしてここでは太陽と月が実際の名称において言い表されていないのでしょうか。もちろん、聖書はこの2つの星をそのままの名前で書くこともできました。「太陽」また「月」と。ですが、聖書はそのように書いていません。これの理由として考えられるのは、神が私たち人間の理性を蔑ろにしておられないということです。神は私たちに未熟また不完全ではない理性をお与えになられたので、聖書ではあえて実際の名称で事柄を言い表していない箇所が多くあります。ここもその一つです。もしあれもこれもそのままの名称で語っていたとすれば、それは神が私たちを低く見ておられるということになり、また私たちもいちいち具体的に語られているので探究の努力をしなくなり怠惰になってしまうでしょう。ですから、ここでは太陽と月がそのままの名称として語られていないのです。とはいっても、これはそれほど重大な問題というわけでもありませんが。このうち太陽は、既に創造の第1日目に置かれていた光の場所に造られ、そこにあった光を代わりに担うようになりました。つまり、強い光が地球を遠くから照らしているという状態は、3日目までも4日目になってからも変わりませんでした。ただ異なっているのは、3日目までは単に光がそこにあっただけであり、4日目以降は太陽が自身の燃焼により光を放つようになったということです。3日目までの光(これは光そのものです)と4日目以降の光(これは太陽が放つ光です)における輝きと熱の度合いが同一であったどうか私たちには分かりません。太陽のほうがそれまであった光よりも強い光を放ったということなのかもしれませんし、太陽はそれまでの光よりも弱い光しか放たなかったということなのかもしれませんし、3日目までも4日目以降も光の度合いは何も変わらなかったということなのかもしれません。いずれにせよ、これについては知る術がありませんから、確定的に何かを言うことはできません。また、ここでは月が『光る物』と呼ばれていますが、これは科学的な言及ではないという点に注意せねばなりません。これは単に日常的な感覚で言われているに過ぎません。何故なら、月は実際には自分から光っているわけではないからです。科学的に言えば、月が光っているのは太陽に照らされているからです。この太陽と月は、1:18の箇所で書かれているように『昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別する』役割を与えられました。今の世界を見れば分かるように、この役割は今に至るまで6千年の間ずっと担われ続けています。これからも太陽と月は、昼と夜および光と闇を担うという役割を担い続けることでしょう。何故ならば、この2つの星はそのようにするために創造されたのですから。
神はこの第4日目に『星を造られ』ました。これは、地球と太陽と月を除く全ての星です。何故なら、これら3つの星については既に語られているからです。もちろん、この『星』の中には水星や金星といった太陽系にある惑星も含まれています。ではこの『星』は具体的にはどれぐらい創造されたのでしょうか。現代の宇宙論によれば、この宇宙には1000億の銀河があります。一つの銀河の中には、もちろん銀河によっても違いはありますが、だいたい1000億個ぐらいの星があります。ですから、現代の宇宙論に基づいて言えば、神は1000億×1000億の星を造られたことになります。これは実に凄まじい数です。また、これは「恒星」すなわち太陽のように自ら燃焼している星の数だけです。自らは光を放たない地球のような惑星や惑星に付き添っている衛星も数として含めれば、神が創造された星の数は更に莫大となります。また、現在になっても新しい星が星雲の中で無数に生まれているという事実があります。そのようにして生まれている星も含めれば、神が造られた星の数は更に多くなります。もちろん、幾らかの星が超新星爆発により日々この宇宙から滅んでいるという事実も考慮に入れなければいけないのではありますが。このように星を造られた神は、一つ一つの星に名を付けられました。それは詩篇147:4の箇所で『主は星の数を数え、そのすべてに名をつける。』と書かれている通りです。私たち人間の側では、もちろん神が個々の星に付けられた名前を知ることはできません。しかし神の側では、個々の星に付けられた名が全て把捉されています。これまでの聖書本文を読めば分かる通り、地球は間違いなくそれ以外の星よりも先に造られました。ですが、太陽また月とそれ以外の星についてはどちらが先に造られたのか分かりません。私たちが今見ている1:14~18の箇所では、記述上では太陽と月のことが先に語られていますが、そこでは記述上において太陽と月のほうが先に語られているだけに過ぎず、どちらが先に造られたかということを示しているわけではありません。私の推測では、恐らく太陽・月とそれ以外の星は同時期に創造されたと思われます。何にせよ、聖徒である者は神が造られた宇宙に満ちる星々を見て、その数の多さ、その壮大さ、その美しさに驚嘆すべきです。そして驚嘆したならば、神の御名を崇めるべきです。そのようにして私たちは神の栄光が現われるようにすべきです。何故なら、神は星々を御自身の栄光のためにこそ創造されたのであり、聖徒とは神の栄光を求めるべき存在なのですから。
カントとラプラスは、理性の推論に基づき、地球が太陽から生じたと考えました。すなわち、地球よりも太陽のほうが先に生じたと。これ以降、この世界では実に多くの人が地球よりも太陽のほうが先に生じたと考えるようになりました。確かに、理性の推論に基づいて考えるならば、このような理解に至るのは不自然なことではありません。というか、理性の推論によれば、このように理解するしかないでしょう。何故なら、私たちの理性の考えでは、それが普通に感じられるからです。理性の働きだけを行使する人のうち誰が、太陽よりも地球が先に造られたなどと考えるでしょうか。恐らく誰もいないはずです。私も理性だけを使用して推論せねばならなかったとすれば、この2人のように考えていたはずです。しかし、聖書は太陽よりも地球のほうが先に生じたと啓示しています。啓示とはすなわち神の真理です。ですから聖書を啓示の書として信じている私たちは、自分の理性がどう思おうとも啓示が言っている通り、太陽よりも地球のほうが順序的な先輩だと考えねばなりません。
【1:19】
『こうして夕があり、朝があった。第四日。』
これは創造が開始されてから96時間が経過した、ということです。
【1:20~21】
『ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。』
続いて神は、意識を持つ生物の創造に取りかかられ始めました。その初めに造られたのは水の生き物および鳥です。水の生き物とは、例えばマグロやウナギやイカやエビやイルカなどです。ペンギンはどうなのでしょうか。この生物を第5日目に創造された陸上の生物の中に含める人がいるかもしれません。私としては、ペンギンを3日目の創造の中に含めたいと思います。何故なら、ペンギンとは陸上の生物というよりは海の生物といったほうが適切だと感じられるからです。鳥とは、例えばスズメやハトやワシや白鳥などがそうです。ダチョウのような翼を持つのに飛べない生物は、どうなのでしょうか。ダチョウも第3日目に『翼のあるすべての鳥』として創造されたのでしょうか。これはその通りであると私には思えます。しかし、ダチョウは最初、恐らく飛べない鳥としては創造されていなかったはずです。つまり、最初は飛べたのですが、呪いにより翼があるにもかかわらず飛べなくなったということです。神は全てを良く創造されたのですから、ダチョウが最初から翼を持つのに飛べなかったということは考えられません。それでは、生物のうちどうして水の生物と鳥がそれ以外の生物よりも率先して造られたのでしょうか。これの理由は幾つか考えられますが、確定的にこうだと言うことはできません。
ところで、水の生き物のうち、どうしてここでは『海の巨獣』だけ他の水の生き物と区別して言われているのでしょうか。これは読者に『海の巨獣』を注目させるためです。聖書では、この巨獣を重要な象徴として語っている箇所があります。例えば聖書はパロを海の巨獣になぞらえて語っています。イザヤ27:1の箇所では、サタンが海にいる巨獣として象徴されています。ですから、ここで『海の巨獣』だけ区別して読者に注目させるのは非常に効果的であると言えるのです。もし聖書でこの巨獣が象徴として用いられていなければ、ここでは『海の巨獣』だけ他の水の生き物と区別されて語られるということはされていなかったかもしれません。なお、この巨獣とはクジラやワニのことを意味しています。
なお、生物のうち最初に造られたのは水の生物であって、驚く方もおられるかもしれませんが、それは「河馬」でした。ヨブ記40:19の箇所で、この河馬について『これは神が造られた第一の獣』と書かれている通りです。
【1:22】
『神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」』
神は、水の生き物と鳥がそれぞれの場所で増殖するように命じられました。もし彼らが増殖しなかったとすれば、この世界は非常に寂しくなっていたはずです。神がこのように命じられたのは、彼らが増殖することにより、彼らを通して御自身の栄光を現わすためです。何故なら、水の生き物と鳥は神の栄光のためにこそ創造されたからです。この2つの生物たちがより増えれば、それだけ神の栄光も彼らを通して現われるようになります。それゆえ、神は『生めよ。ふえよ。』と仰せられたわけです。今の世界を見回してください。この2つの生物たちは、今に至るまでずっと増殖し続けています。神は、増殖している彼らを通して今も御自身の栄光を現わしておられます。彼らはこれからも増え続けるでしょう。何故なら、そのようになるのが神の御心だからです。ところで、この増殖命令は、雄と雌の存在を前提としています。何故なら、性が一つしかなければ増殖しようにもできないからです。第4日目の創造の箇所では、水の生き物と鳥に雄と雌が造られたとは書かれていません。しかし、それについては書かれていないだけであって、実際は雄と雌とに彼らが創造されたことは間違いありません。すなわち、人間の女性が男性から造られたように、この2つの生物も雌が雄から造られたのです。人間の創造については、また後になってから見ることになります。
ここで祝福されてから増殖の命令がされているのは注目に値します。これは、つまり神の好意のうちに彼らが増殖できたことを意味しています。ですから、水の生き物も鳥もその生まれる子孫は全て完全・完璧であって、その子孫には少しの欠陥もありませんでした。もちろん奇形もありませんでした。何故なら、奇形や欠陥を持つ子孫が生まれたとすれば、それは祝福されているとは言い難いからです。この2つの生物たちがアダムの堕落に巻き込まれるまで、どれだけの子孫を生んだのかはまったく分かりません。もしかしたら全く生まなかったという可能性もあります。人間の場合は、堕落するまで一人も子どもを生みませんでした。もし水の生き物と鳥が堕落に巻き込まれるよりも前に子孫を生んでいたとすれば、その全ての子孫がどれも本当に十全な個体として生まれてきたのは間違いありません。
【1:23】
『こうして、夕があり、朝があった。第5日。』
これは創造から120時間が経過した、ということです。何故なら、24時間(1日)×5(日)=120時間だからです。
【1:24~25】
『ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。』
続いて神は、陸上の生物を創造されました。『野の獣』とは『家畜』や『はうもの』ではない陸上生物の全般を指しています。例えば、ライオンやヒョウやゾウやキリンがそうです。『家畜』とは人間の生活に資するようにと造られている獣です。例えば、牛や馬や豚や羊がそうです。『はうもの』とは、自分の胴体を地面につけながら動き回る動物です。例えば蛇やミミズやムカデがそうです。先に述べた通り、ペンギンはこの第5日目に創造された生物には含まれていないと私は考えます。何故なら、ペンギンは陸上の生物というよりは海の生物としたほうが適切であると感じられるからです。
では、この陸上生物たちは、どのように生じさせられたのでしょうか。まさか、突如としてパッとそこに現われたとでもいうのでしょうか。そのようなことはありませんでした。陸上生物たちは、土地の塵から創造されました。つまり、人間が創造された場合と同じです(創世記2:7)。というのも、そのように考えるのが妥当だからです。もしそうでなかったとすれば、陸上の生物たちはどのように創造されたというのでしょうか。恐らく誰も合理的な説明をすることはできないはずです。
神が、第6日目の最初に、すなわち水の生物と鳥が創造された後、人間が創造される前に陸上の生物を創造されたのは正にベストなタイミングでした。何故でしょうか。まず、水の生物と鳥よりも先に陸上生物たちが創造されていれば、順序的な違和感が生じていたはずです。というのも、陸上生物たちは水の生物と鳥よりも、より人間と関わり合いのある生物だからです。また人間よりも後で陸上生物が創造されるのも違和感を生じさせていたはずです。というのも、人間とは創造における頂点であり、コンサートでいえばヘッドライナーのようなものだからです。また3日目に植物が創造されるよりも前に創造されていたら、それもおかしいことでした。その場合、陸上生物たちはすぐにも死んでしまうか大きな苦しみを受けていたはずだからです。肉食が許されていなかった当時の世界において、植物なしに生きたり快適に過ごすのは不可能に近いことでした。
この時にはまだ気持ちの悪い陸上生物がまったくいなかったと考えるべきです。例えば、気色悪い柄を持つ蛇やダニやゴキブリは存在していませんでした。何故でしょうか。それは、この時に創造された生物たちは『非常によかった』(1章31節)からです。もし今挙げたような忌まわしい生物が創造されていたとすれば、『非常によかった』とは言えないことになります。いったい誰が気持ちの悪い生物をよいなどと思うのでしょうか。では、今この世界に見られる忌まわしい陸上生物はどのようにして現われたのでしょうか。それは呪いによります。すなわち、陸上生物たちが人間の堕落に巻き込まれた結果、呪いとして異常な子孫を生じさせることになったわけです。今生きている人間が時にとんでもない子孫を生んでしまうのと一緒です。もし人間が堕落していなければ異常な子どもを生むことはなかったのと同じで、陸上生物が人間の堕落に巻き込まれていなければ気持ちの悪い陸上生物はこの世に生じていなかったことでしょう。
先に見た通り、第4日目に創造された水の生物と鳥に対しては『生めよ。ふえよ。』と命じられていました。後に見ることになる人間の創造の際にも、やはり『生めよ。ふえよ。』(創世記1章28節)と命じられています。しかし、この陸上生物たちの創造について書かれている箇所では『生めよ。ふえよ。』とは書かれていません。これはどういうわけなのでしょうか。これは、陸上生物たちに対して増殖命令が与えられていないということではありません。実際、今の世界を見れば分かるように、陸上生物たちは大いに増殖しています。神が陸上生物たちにも「生めよ。ふえよ。」と命じられたのは間違いありません。ただここではその命令について何も書かれていないだけです。書かれていないので命じられていなかったと考えるのは、明らかに誤謬推理です。私たちも何かを言ったり書いたりする際には、必ずしもあらゆる事柄に触れるわけではありません。ここで陸上生物たちに『生めよ。ふえよ。』と言われたことについて記されていないのも同じです。聖書には、このように本当はあったのに何もそれについて書かれていない箇所が多くあります。確かに陸上生物たちにも増殖が命じられました。つまり、彼らにとって増殖するのは本質的な営みです。それゆえ、これからも彼らはずっと増え続けていくことになります。
【1:26~27】
『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』
次に創造されたのは人間です。人間の創造は創造におけるクライマックスでした。それゆえ、人間よりも後に新しい創造はありませんでした。
人間の創造も、やはりベストなタイミングでなされました。もし人間が3日目の植物よりも前に創造されていたとすれば、人間は快適に生きることができたでしょうか。決してできませんでした。ですから、神は人間よりも先に植物を創造しておられました。もし人間が4日目の星々よりも前に創造されていたとすれば、夜空はどうだったでしょうか。非常に虚しい景観がそこには見られたはずです。ですから、神は人間に先立って星々をお創りになっておられました。もし人間が5日目の水の生き物と鳥よりも前に創造されていたとすれば、海と空の場所はどうなっていたでしょうか。そこに何も存在しないので物足りない感じがしたに違いありません。ですから、神は人間よりも前に水の生物と鳥を創造しておられました。もし人間が陸上生物よりも前に創造されていれば、この地上は人間にとって寂しい場所と思えたのではないでしょうか。これは確かにその通りです。ですから、神は陸上生物を創造された後で人間を創造されたのです。このように人間が創造された時には、既に全てのものが用意されていました。ここにおいて人間に対する神の慈しみが豊かに示されたのです。それゆえ、人間は創造の最後の時まで創造されないままでいたわけです。このような取り計らいのゆえに、神は褒めたたえられるべきです。何故なら、神は創造の際、人間に対してよくして下さったからです。これは、全てがあらかじめ用意された豪華絢爛な大宴会に招待されるようなものです。そのようにして下さった神にどうして賛美を捧げなくてもよいということがあるでしょうか。
人間は『神のかたち』に造られました。これは昔からよく注目されてきた事柄です。この『神のかたち』とは一体なんでしょうか。これは外形的な事柄のことではありません。何故なら、神とは『人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方』(Ⅰテモテ6章16節)であり、『霊』(ヨハネ4章24節)であられるからです。これは内面的な事柄のことを言っています。つまり、これは神が聖であられ、正しく、完全であられるように、それに似せて人間も聖く、正しく、完全な存在として創造されたということです。聖書の中で私たちが神のようになれと命じられているのは、実にこのためです(Ⅰペテロ1:16、マタイ5:48)。ですからキリストにより人間の本来的な存在意義をそのうちに回復された私たちは、『神のかたち』として歩むべく召された者として相応しく、神の似姿として相応しい歩みを求めていかねばならないのです。しかし、このように人間が神に似て造られたと聞くと、何だか恐縮してしまう人もいるかもしれません。その人が恐縮することについて、私はその気持ちが分からないではありません。しかし、確かに聖書は人間が神に似せて造られたと教えています。ですから、聖書を信じる者たちは素直にそのことを受け入れるべきなのです。今の世界においてほとんど全ての人は人間が神に似せて創造されたということを知りません。ですから神の似姿として相応しく歩もうなどと思っている人もほとんどいません。そのように思っているのは、純粋な聖書信仰を持ったクリスチャンぐらいなものです。しかしながら、そのクリスチャンといえども神の似姿として相応しく歩もうとしても上手に行かないことがしばしばなのです。もっとも敬虔な人間であったといえるあの使徒パウロでさえしばしば神の似姿として相応しく歩むことができなかったぐらいです。一体どうしてなのでしょうか。それは、真理を与えられているクリスチャンといえども罪の残滓がまだある身体においてこの地上の人生を歩んでいるからです。
この箇所で言われている通り、人は地上の支配者として創造されました。つまり、人間とは神の地上における代理者なのです。ですから、人間という存在を一言で定義すれば次のようになります。「人間とは地上を支配する地上の王である。」今の世界を、またこれまでの世界を見ていただきたい。確かに人間は地上の支配者として歩んできたことが分かります。これは人間に対する動物の態度を見ても分かります。動物は往々にして人間に対し、人間が人間の王に対して持つような態度を持ちます。これは人間が被造物の支配者である王として創造されたからに他なりません。人間が支配者なる王として創造されたということは、全ての人に告げ知らされるべき事柄です。そうすれば人間の気意が高まるからです。そのように気意が高まれば、人間は猿から進化したなどと出鱈目を教えている進化論や人間の尊厳を引き下げる悪徳に自然と抵抗感を持つようになります。ですから、教会が人間の創造について語り伝えることは非常に大きな意味を持っています。しかしながら、愚かにも今でも選民思想を持つ傲慢なユダヤ人たちは、このことについて次のように言うかもしれません。「人間が地上の王者として創造されたという高貴な真実を、汚らわしい異邦人たちに知らせてはならない。」彼らが何と言おうとも私はこう言いましょう、この真実は是非とも全ての人たちに知らされるべき事柄である、と。
私たちは、男性と女性の創造についてよく弁える必要があります。まず、神の似姿として創造されたのは男性も女性も一緒です。何故なら、この箇所では『人』が神の似姿として創造されたと書かれているからです。『神のかたちに<彼>を創造し』と書かれていますが、これは男性だけが神の似姿として創造されたということを言っているのではありません。しかし、女性は神の似姿として創造されたと共に、男性の似姿としても創造されました。これはⅠコリント11:7の箇所を見れば分かります。それというのも女性は男性の身体から取って造られたからです。つまり、女性のほうが男性よりも時期的に遅く造られました。女性のほうが先に造られたのではなく、両性が同時に造られたのでもありません。これは後の箇所である創世記2:18~25の箇所を見ると分かります。教会では女性が男性に聞き従うべきだと聖書で言われているのは、実にこのためです。パウロはこう言っています。『女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。』(Ⅰテモテ2章11~13節)より遅くに造られた女性がより先に造られた男性に従うというのは、非常に自然なことであり、理に適っています。
昔からよく言われてきましたが、この箇所では神の三位一体がおぼろげながら示されています。まず、ここでは『神』と言われていますが、これは単数形です。つまり、神とは一人であられるということです。モーセも『聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。』(申命記6章4節)と言っています。しかし、その一人であられる神がここでは『われわれ』と御自身のことを言い表しておられます。これは神の3つの位格を暗示しています。何故なら、一人の神が一人でありながら御自身を複数者として言い表したのは、そのように解するしかないからです。聖書が教える通り、確かに神には3つの位格が存在しています。ですが、これは3つの神があるということではありません。そのように考えるのは多神教であって、それは聖書の教えではありません。パウロが『神は唯一です。』(Ⅰテモテ2章5節)と言っている通りです。つまり、3つの神があるというのではなく、位格が一人の神のうちに3つあるのです。
ところで、ここでは陸上生物だけ3つの言葉が使われています。すなわち、『家畜』と『地のすべてのもの』と『地をはうすべてのもの』です。一方、水の生物と鳥は一つの言葉しか使われていません。すなわち、『海の魚』また『空の鳥』です。どうして陸上生物だけ3つの言葉が使われているのでしょうか。これは、人間が全ての生物のうち特に陸上生物を支配するからです。というのも陸上生物は人間と同じ地上の場所にいるからです。水の生物と鳥は、陸上生物ほど人間に支配されるわけではありません。何故なら、それら2つの生物たちは人間とは違う場所にいるからです。ですから、ここでは陸上生物を3つの言葉で言うことにより、人間が特に陸上生物を支配すると示されているわけです。それゆえ、もし水の生物と鳥も陸上生物と同じぐらいの度合いでもって人間の支配に服するというのであれば、それら2つの生物たちも陸上生物と同じように3つの言葉で言われていたはずです。