【創世記28:20~30:24】(2021/06/20)


【28:20~22】
『それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと切る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」』
 ヤコブは神に5つのことを求めました。第一は、神がヤコブと共にいて下さることです。ヤコブには恐れと不安があったので神が共におられることを求めました。第二は、ヤコブの旅が全て守られることです。ヤコブはこの旅で何が起こるのか心配していました。第三は、生活上の必要が備えられることです。ここでは「飲む水と寝るに相応しい場所」が言われていませんが、これも当然ながらヤコブの求めには含まれています。第四は、ヤコブが父イサクの家に帰れることです。この求めは14年後に実現されました。第五は、主がヤコブの神となって下さることです。旧約時代において、主を神としていたのは、ヤコブとその子孫であるユダヤ人だけでした。神はそれ以外の民族は、サタンの暗闇のうちに放置しておかれました。ヤコブは続いて神から受ける全ての物の1割を神に捧げると誓っています。収益・収穫の1割を神に捧げるというのは、律法の中でも規定されています。つまりヤコブは、ここで「これら5つの願いが聞かれるならば十分の一を神に捧げます。」と言って神と取引しているわけです。もちろん取引と言っても商売的な意味ではなく、主従関係における約束事に過ぎませんでした。

【29:1】
『ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。』
 ヤコブの目的地であるパダン・アラムは、ヤコブがいたカナンから東のほうにありました。この時のヤコブは、自分がこれから苦しい歩みをすることになるなど、まだ知りもしませんでした。ヤコブのこの旅がどれだけかかったのかは、よく分かりません。

【29:2~3】
『ふと彼が見ると、野に一つの井戸があった。そしてその井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していた。その井戸から群れに水を飲ませることになっていたからである。その井戸の口の上にある石は大きかった。群れが全部そこに集められたとき、その石を井戸の口からころがして、羊に水を飲ませ、そうしてまた、その石を井戸の口のもとの所に戻すことになっていた。』
 ヤコブは井戸のある場所に着きました。そこには羊飼いたちが羊に水を飲ませようとしていましたが、まだその時は水を飲ませていませんでした。この羊飼いたちは地元の人でした。

【29:4~8】
『ヤコブがその人たちに、「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか。」と尋ねると、彼らは、「私たちはカランの者です。」と答えた。それでヤコブは、「あなたがたはナホルの子ラバンをご存じですか。」と尋ねると、彼らは、「知っています。」と答えた。ヤコブはまた、彼らに尋ねた。「あの人は元気ですか。」すると彼らは、「元気です。ご覧なさい。あの人の娘ラケルが羊を連れて来ています。」と言った。ヤコブは言った。「ご覧なさい。日はまだ高いし、群れを集める時間でもありません。羊に水を飲ませて、また行って、群れをお飼いなさい。」すると彼らは言った。「全部の群れが集められるまでは、そうできないのです。集まったら、井戸の口から石をころがし、羊に水を飲ませるのです。」』
 ヤコブが井戸にいた羊飼いたちにラバンのことを尋ねると、彼らは知っていると言いました。まだ当時の世界は人が少なかったので、誰かのその地域における周知率は今よりも遥かに高い傾向を持っていました。これはアパートやマンションに住んでいるようなものです。長らくアパートやマンションに住めば、他の住民のことを多かれ少なかれ自然と把握するようになるはずです。ヤコブはここで羊飼いたちに少々出しゃばったことを言っています。これはヤコブがこの羊飼いたちのやり方を知らなかったからです。これは仕方なかったとすべきでしょう。私たちも、しばしばヤコブのようになりがちですから。この羊飼いたちは『三つの羊の群れ』(創世記29:2)を飼っていましたが、それが具体的にどれだけの数だったかは分かりません。実に多かったのかもしれませんし、結構少なかったということもありえます。

【29:9~11】
『ヤコブがまだ彼らと話しているとき、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女は羊飼いであったからである。ヤコブが、自分の母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。そうしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。』
 ヤコブは親戚のラケルを見ると、彼女の連れて来た羊に水を飲ませてやりました。これは挨拶代わりの善です。ラケルは『羊飼い』でしたが、古代において羊飼いとは卑しい職業でした。今で言えばアメリカに該当する当時の最先端国エジプトも、やはり羊飼いを嫌っていました(創世記46:34)。キリストの時代でも、やはり羊飼いはよく思われていませんでした。ヤコブはラケルに『口づけし』ましたが、これはもちろん性的な意味ではありません。今の時代では、なかなかこういったことは出来ないものです。この時にヤコブが『声をあげて泣いた』のは、感激したからです。ここまでの旅が守られたのと親戚に会えたことにヤコブは感激したのです。

【29:12~14】
『ヤコブが、自分は彼女の父の親類であり、リベカの子であることをラケルに告げたので、彼女は走って行って、父にそのことを告げた。ラバンは、妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行き、彼を抱いて、口づけした。そして彼を自分の家に連れて来た。ヤコブはラバンに、事の次第のすべてを話した。ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です。」と言った。こうしてヤコブは彼のところに1か月滞在した。』
 ヤコブが自分のことをラケルに告げると、ラケルはそのことを父ラバンに知らせようと走って行きました。彼女が走ったのは心の動きが大きかったことを示しています。リベカの報告を聞いたラバンは、ヤコブのところに走ってやって来ました。ラバンが走ったのも、やはり心の動きが大きかったからです。ラバンは、アブラハムの僕がやって来た時にも走りました(創世記24:29)。このような熱心さは間違っていません(ヘブル13:2)。この時にヤコブと会ったラケルとラバンは、非常に心地よい思いを持ったはずです。それはこう書かれているからです。『遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。』(箴言25章25節)この言葉は、しばらく会っていなかった知人また関係者について明瞭に知ると、それが実際に会うのであれ情報として知覚するのであれ、心に喜びが生じることを教えています。ここでラバンはヤコブに『あなたはほんとうに私の骨肉です。』と言っていますが、これは偽りではありません。ラバンとその甥であるヤコブは、どちらもテラの血を持っているという点で共通しているからです。このテラはラバンにとっては祖父、ヤコブにとっては曽祖父です。

【29:15~20】
『そのとき、ラバンはヤコブに言った。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」ラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために7年間あなたに仕えましょう。」と言った。するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい。」と言った。ヤコブはラケルのために7年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。』
 ラバンは道理を弁えない人ではありませんでした。親類だからというのでヤコブがただ働きをし続けるのはいかがなものか、と思ったのです。ですから、ヤコブに労働の報酬は何がよいか、と尋ねています。ラバンがこのように言ったのは常識的なことでした。後の箇所を見ても分かりますが、ヤコブとはしっかりと働く人でした。そのようなヤコブに報いないのはラバンの良心が許さなかったのです。

 ヤコブはラバンの次女ラケルを愛しており、妻を得るためにラバンのもとに行ったのですから、このラケルが妻となるならば7年間仕えると返答しました。ラバンがラケルのために『7』年間の奉仕を定めたのは、恐らくラケルに対する評価です。聖書で「7」とは完全を意味しています。つまりヤコブはラケルを完全数である「7」年かけて獲得すべき価値として見積もったわけです。すなわち、愛していたからこそ完全な数字を彼女のための期間として定めたのです。これが「777」日間だったとしても意味は同じでした。何故なら、777とは完全数7が三つ並んだ数字だからです。逆に「666」日間だったとすれば、ヤコブはラケルおよびラケルとの結婚を邪悪視していたことになります。何故なら、666とは聖書において邪悪であることを示すからです。ラバンはラケルが他の人に取られるぐらいならばヤコブの妻となったほうがよいと考えたので、ヤコブの求めを受託しました。これは神がヤコブとラケルの結婚を望んでおられたことを意味しています。何故なら、結婚とは神がある男とある女を一つに結び合わせることだからです(マタイ19:6)。もし神がヤコブとラケルの結婚を望んでおられなければ、ラバンがヤコブの求めを受託することはなかったはずです。というのも神は人の意志を用いて結婚が実現されるようになさるからです。ヤコブにとって、ラケルのために仕える7年間は非常に短く感じられました。私たちも好きな人と共にいれば時間がすぐに過ぎるのを感じるはずです。これはアインシュタインも述べていることです。しかし、嫌いな人と共にいると少しの時間であっても長く感じられてしまいます。

 この箇所では、レアとラケルの美しさについて言及されています。『レアの目は弱々しかった』と書かれています。これはレアの外観がそこまで美しくはなかったということです。女の美しさは目に示されます。美人は、目が星のように輝いているものです。オードリー・ヘップバーンやマリリン・モンローが良い例です。ラケルについては『姿も顔だちも美しかった』と書かれています。これはラケルの美貌が首肯されています。前にも述べましたが聖書は女性の美貌そのものを全く非難していません。というのも女性の美しさとは神の賜物だからです。

【29:21~25】
『ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻を下さい。期間も満了したのですから。私は彼女のところにはいりたいのです。」そこでラバンは、その所の人々をみな集めて祝宴を催した。夕方になって、ラバンはその娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせたので、ヤコブは彼女のところにはいった。ラバンはまた、娘のレアに自分の女奴隷ジルパを彼女の女奴隷として与えた。朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」』
 ヤコブは約束の期間が満了したのでラケルと結婚するようラバンに求めました。ラバンはこの求めに応じ、『祝宴』すなわち結婚式を催しました。この祝宴に参加したのは『その所の人々』だけでした。ヤコブの家族はパダン・アラムまでやって来なかったのです。この時のヤコブは50歳近くにもなっていました。イサクとエサウは40歳の時に結婚していました。晩婚化が進む現代でさえ50でまだ結婚していないのは遅いと思われるでしょう。現代でさえそう思われるのであれば、この時代にはどれだけ遅いと思われたでしょうか。

 ヤコブがラケルと夫婦になれるのを思って歓喜していたのは間違いありません。しかし、その歓喜は嘆きへと変わってしまいました。ラバンが姉のレアをヤコブのところに送ったのです。ヤコブはこのレアと事を行ないました。しかし、その時は『夕方になって』おり暗かったので、ヤコブはそれがレアだとは気付かなかったのです。今のように電灯もまだなく、蝋燭も恐らく無かった時代ですから、ヤコブが気づかなくても不思議ではありませんでした。『朝になって』明るくなると、ヤコブはそれがレアだったことに気付いたのです。この時にラバンは自分の女奴隷ジルパをレアに女奴隷として与えましたが、これは恐らく結婚の祝いとして与えたのでしょう。そうでなければレアのサポート役として与えられたと思われます。ラバンは貪欲な男でしたから利己的な意図をもって女奴隷を与えたということもありえます。この女奴隷ジルパは、後にラケルに与えられるもう一人の女奴隷ビルハと同様(創世記29:29)、少なからぬ重要性を持つ人物です。何故なら、この2人の女奴隷は後にイスラエルの族長たちを生むことになるからです。

 ラバンがこの時にした愚かな行ないは罪でした。神はこう命じておられます。『欺いてはならない。互いに偽ってはならない。』(レビ記19章11節)ラバンの行ないは明らかにこの命令に違反しています。ラバンは約束した通りにレアではなくラケルをヤコブに与えるべきだったのです。この出来事からも分かる通り、ヤコブはとんでもない男の家に行ってしまったのでした。このような愚か者と一緒に歩むと、必ず害を受けることになります。ソロモンがこう言っている通りです。『愚かな者の友となる者は害を受ける。』(箴言13章20節)ラバンのような人間とは最初から近い関係を持たないようにするのが賢明です。

【29:26~30】
『ラバンは答えた。「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう7年間、私に仕えなければなりません。」ヤコブはそのようにした。すなわち、その婚礼の週を過ごした。それでラバンはその娘ラケルを彼に妻として与えた。ラバンは娘ラケルに、自分の女奴隷ビルハを彼女の女奴隷として与えた。ヤコブはこうして、ラケルのところにもはいった。ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。それで、もう7年間ラバンに仕えた。』
 ラバンは風習を口実として返答しました。確かにパダン・アラムの風習が長女を第一に結婚させるべきだと命じていたのであれば、そのようにするのがその地では自然だったでしょう。聖徒であっても風習には御心に反しない限り順応すべきです(Ⅰペテロ2:13)。ヤコブも当然ながら当地の風習に従うべきでした。ですが、ラバンは長女を第一に結婚させるべきだという定めを、前もってヤコブに告げ知らせておくべきでした。いざ結婚する際になってから、パダン・アラムの風習の通りにするというのでは、いくらなんでも遅すぎです。ここにラバンの思慮の無さが現われ出ています。この時のヤコブの失望と怒りはどれほどだったでしょうか。

 しかしながら、ラケルを妻として与えるという約束は守られなければなりません。もしラケルを与えなければラバンは約束違反を犯すことになるからです。ですからラバンは、レアと共にラケルをも妻として与えることにしました。しかし、その代わりにもう7年間ヤコブに仕えてもらうようにしました。つまり、レアの分として7年、ラケルの分として7年です。ヤコブはレアのために仕える気持ちがありませんから、実質的にこれはラケルのための奉仕が7年加算されたことになります。ヤコブはまさかもう7年奉仕することになるとは思わなかったでしょう。しかし、予期しないことが起こるのがこの世界です。『何が起こるかを知っている者はいない。』(伝道者の書8章7節)と書かれている通りです。このようにしてヤコブは一夫多妻者とされてしまいました。この一夫多妻は聖書で禁じられています。申命記17:17の箇所に書かれている通りです。またラバンは自分の女奴隷ビルハを、ラケルに女奴隷として与えました。ラバンはレアにも女奴隷(ジルパ)を与えていました(創世記29:24)。パダン・アラムでは、結婚した娘に奴隷を与える習わしがあったのかもしれません。

【29:31】
『主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかしラケルは不妊の女であった。』
 こうしてヤコブは2人の妻を持つに至りましたが、どちらか一方の妻と離婚することはしませんでした。何故なら、そのようにすればラバンが怒り出すのは目に見えているからです。神の命令は、夫が妻を愛することです(コロサイ3:19)。これは複数の妻がいる夫も守るべき定めです。ですからヤコブは両方の妻を愛するべきでした。ところが、彼はレアを嫌い、ラケルのほうしか愛していませんでした。神はこの嫌われているレアがヤコブの子を身籠るようにされました。それはレアが惨めだったからです。神は悲惨な者に対して慈しみ深い御方なのです。また神がレアを身籠らせたのは、ヤコブの偏愛を矯正するためでした。何故なら、子どもとは夫婦の親密さを深める存在だからです。一方、ラケルはずっと子を身籠らないままでした。神が不妊のままにさせておられたのです。何故なら、もしラケルが子を産んだら、ますますヤコブはラケルに心を傾けるようになるからです。神はレアがこれ以上蔑ろにされないため、ラケルが子を産まないようにしておられたのでした。

 この出来事から分かる通り、子を身籠るのも身籠らないのも、全ては神にかかっています。神が望まれたら妊娠し、望まれなければ妊娠しない。ただこれだけなのです。詩篇127:3の箇所にはこう書かれています。『見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。』この御言葉は子どもたちが神の御心によってこそ与えられるということを教えています。こういうわけですから、不妊の理由を自然の要因だけに求めるのは間違っています。確かに不妊であるのは自然の要因があるはずです。しかし、そもそもその自然の要因を生じさせておられるのは神なのです。

【29:32】
『レアはみごもって、男の子を産み、その子をルベンと名づけた。それは彼女が、「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう。」と言ったからである。』
 レアが最初に産んだヤコブの長子ルベンは、「子を見よ」という意味の名前です。この命名にはレアの喜びが現われています。レアはこう言いたいかのようです。「私と夫との間に生まれたこの子を見よ。この子こそ夫と私が一体であることを象徴する愛の結晶である。それゆえ、この子のゆえに夫は私に心を傾けるようになるであろう。」ここで彼女が『主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう。』と言っている言葉からは、彼女の信仰と期待と苦悩とがよく示されています。この長子ルベンは後にとんでもないことをやらかすことになります。

【29:33】
『彼女はまたみごもって、男の子を産み、「主は私がきらわれているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった。」と言って、その子をシメオンと名づけた。』
 レアが2番目に産んだヤコブの次男シメオンは、「聞く」という意味の名前です。レアは夫ヤコブとの関係が良くなるようにずっと祈り続けていました。次男が生まれた時、彼女は遂に祈りが聞かれたと感じたのです。何故なら、夫との一体を印づける子どもが2人も生まれたからです。このためレアは聞かれたという意味の名を次男に付けました。ところがヤコブは次男が生まれてもレアを嫌ったままでした。これはレアにとって悲劇でした。このシメオンは、後に三男レビと共に語るのさえ恐ろしい悪行をすることになります。

【29:34】
『彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に3人の子を産んだのだから。」と言った。それゆえ、その子はレビと呼ばれた。』
 レアが3番目に産んだヤコブの三男レビは、「結ぶ」という意味の名前です。「結ぶ」とは、もちろんヤコブとレアが親密になるという意味での「結ぶ」ということです。3人も夫の子を産んだのですから、レアは『今度こそ、夫は私に結びつくだろう。』と大いに期待しました。しかし残念ながら、三男が生まれてもヤコブの心はラケルに向いたまま動きませんでした。レアの悲しみはどれほどだったでしょうか。この出来事は、愛されない女はどのようにしても愛されないということを示しているのかもしれません。このレビは、祭司を生み出す家系となりました。律法が教えている通り、ユダヤの祭司はレビ系の人間しか就くことが許されていませんでした。

【29:35】
『彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は主を褒めたたえよう。」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。それから彼女は子を産まなくなった。』
 レアが4番目に産んだヤコブの四男ユダは、非常に重要な意味を持っています。というのもメシアはこのユダ族から出ることになっていたからです。実際、メシアであられるイエス・キリストは、肉によればユダ族の生まれでした。ですから、ユダ族は自分たちの系譜を精確に記録・保持していました。自分たちの種族からメシアが出られるのですから、これは当然のことでした。その系譜は、マタイ1:1~17やルカ3:23~38の箇所に記されています。「ユダヤ人」という民族名もこのユダに基づいています。これはヤコブの子たちがどれだけユダ族に注目していたかということを如実に示しています。ユダヤ人たちの希望はメシアの生まれるこのユダ族のうちに向けられていました。このユダを生んで以降、レアは子を生むことがなくなりました。レアには子を生む時があり、子を生まなくなる時があったのです。これは伝道者の書3:1~8の箇所から分かることです。

【30:1~2】
『ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ。」』
 ラケルは自分が姉のようにヤコブの子を産んでいないので、嫉妬で死にそうになっていました。ラケルは何としても子が欲しかった。ですから、ラケルはヤコブに子をくれるよう求めます。この求めに対し、ヤコブは怒りを燃やします。というのもラケルを不妊にしておられるのはヤコブではなく神だったからです。ラケルはこのことがよく分かっていませんでした。確かにラケルの悲しみと悔しさは私たちに同情できないものではありません。ですが、ラケルはヤコブにではなく神にこそ子を求めるべきでした。子を人に与えられるのは他でもない神なのですから。

 ヤコブも愛するラケルとの間に子が産まれないことによるストレスを持っていたに違いありません。その溜まったストレスが、ラケルのこのような無思慮な求めをキッカケとして、爆発してしまったのだと思われます。誰でもこのようになった経験を持っているだろうと思います。もしラケルからこんなことを言われなければ、ヤコブもじっと我慢していたはずです。

【30:3~6】
『すると彼女は言った。「では、私のはしためのビルハがいます。彼女のところにはいり、彼女が私のひざの上に子を産むようにしてください。そうすれば私が彼女によって子どもの母になれましょう。」ラケルは女奴隷ビルハを彼に妻として与えたので、ヤコブは彼女のところにはいった。ビルハはみごもり、ヤコブに男の子を産んだ。そこでラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を賜わった。」と言った。それゆえ、その子をダンと名づけた。』
 ラケルはどうしても子が欲しかったので、自分の女奴隷ビルハにヤコブの子を産ませようとしました。その産まれた子は肉・遺伝子によればビルハが母ですが、ラケルがビルハの代わりに法的な母になるということです。ラケルは血は繋がっていなくても母になりたいと思いました。このことから姉に対するラケルの嫉妬がどれだけ大きかったかが分かります。ヤコブはこの要求を受け入れました。恐らくヤコブには不妊に悩むラケルの悲しみを無くしてやりたいという思いがあったのでしょう。

 ラケルのために女奴隷ビルハが産んだヤコブの五男ダンは、「正しくさばき」という意味の名前です。「裁く」と命名されたのは、神が裁判者のようにして自分の叫びを聞き入れて下さったとラケルには感じられたからです。この名前は今でも欧米人でしばしば見られます。もっとも、その親が私たちが今見ているダンから名前を取ったのかどうかはよく分かりませんが。

 ラケルがこのようにして女奴隷を夫に与えたのは誤っていました。彼女は神に自分の胎を開いて下さるよう願うべきだったのです。そうすれば、やがて願いが聞かれ、ラケルもレアのように妊娠することになっていたでしょう。実際、これから後になるとラケルも妊娠することとなりました(創世記30:22)。このラケルのように焦って無思慮な行ないに突き進むのはよくありません。私たちは注意すべきでしょう。ヤコブも、いくらラケルを愛しているからといって、ラケルの言葉に聞き従うべきではありませんでした。ヤコブは神がラケルの胎を開いて下さるように祈り続けるべきだったのです。

【30:7~8】
『ラケルの女奴隷ビルハは、またみごもって、ヤコブに2番目の男の子を産んだ。そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った。」と言って、その子をナフタリと名づけた。』
 ラケルのためにビルハが産んだヤコブの六男ナフタリは、「争う」という意味の名前です。このように命名されたのは、ラケルが『姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った』と思ったからです。この言葉から、ラケルの悔しさとレアの優越感がよく感じ取れます。このナフタリという名を持っている人は全く見られません。教会でも、彼についてはほとんど言及されません。これはナフタリが注目すべき要素をあまり持っていないからです。

【30:9~11】
『さてレアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女の女奴隷ジルパをとって、ヤコブに妻として与えた。レアの女奴隷ジルパがヤコブに男の子を産んだとき、レアは、「幸運が来た。」と言って、その子をガドと名づけた。』
 レアは遂に子を持つようになったラケルへの対抗心から、自分もラケルと同じように女奴隷をヤコブに与えて子を産ませました。ヤコブはこの時も女奴隷を妻にすることについて拒絶しませんでした。ヤコブは断るべきだったのですが、どうして彼は断らなかったのでしょうか。肉欲のためでしょうか、弱さのためでしょうか、ラバンに良く思われるためでしょうか。このうちどれが本当だったかは分かりませんが、どれも可能性としてはありえます。さて、レアのために女奴隷ジルパが産んだヤコブの七男ガドは、「幸運」という意味の名前です。この命名にはレアの喜びとラケルに対する勝利の陶酔感が反映されています。ナフタリと同様、このガドという名を持つ人も全く見られません。

【30:12~13】
『レアの女奴隷ジルパがヤコブに二番目の男の子を産んだとき、レアは、「なんとしあわせなこと。女たちは、私をしあわせ者と呼ぶでしょう。」と言って、その子をアシェルと名づけた。』
 レアのためにジルパが産んだヤコブの八男アシェルは、「しあわせと思う」という意味の名前です。レアは自分の女奴隷が再び子を産んだので、ラケルに対して得意になったに違いありません。一方のラケルは悔しがっていたと思われます。このアシェルという名を子に付けている人は欧米社会において見られません。アシェルには際立った要素がほとんどないからです。ですからアシェルについてこれまで教会はあまり言及してきませんでしたし、これからもあまり言及されないでしょう。

【30:14~16】
『さて、ルベンは麦刈りのころ、野に出て行って、恋なすびを見つけ、それを自分の母レアのところに持って来た。するとラケルはレアに、「どうか、あなたの息子の恋なすびを少し私に下さい。」と言った。レアはラケルに言った。「あなたは私の夫を取っても、まだ足りないのですか。私の息子の恋なすびもまた取り上げようとするのですか。」ラケルは答えた。「では、あなたの息子の恋なすびと引き替えに、今夜、あの人があなたといっしょに寝ればいいでしょう。」夕方になってヤコブが野から帰って来たとき、レアは彼を出迎えて言った。「私は、私の息子の恋なすびで、あなたをようやく手に入れたのですから、私のところに来なければなりません。」そこでその夜、ヤコブはレアと寝た。』
 レアはヤコブとなかなか一夜を共にすることが出来ていませんでした。ヤコブがレアを嫌っていたからです。「ではどうして離婚しなかったのか。」と言いたくなるかもしれませんが、レアがラバンの娘である以上、ラバンと一緒に生活している時に離婚することなど許されなかったのです。ところがレアのほうはヤコブを嫌っておらず、むしろヤコブに気に入られたく願っていました。このような女の悲しみはさぞ大きかったに違いありません。ある時になってレアの息子ルベンが恋なすびをレアのもとに持って来たのですが、ラケルはそれを見て欲しがりました。この恋なすびは、当時の女たちに迷信を持たれていたのでしょう。今で言えば四つ葉のクローバーを見つけると幸せになれると思われているのと一緒です。このラケルの求めに対してレアは憤りますが、ラケルがヤコブとの一夜と引き替えにそれを求めたので、レアはラケルの求めを承諾しました。こうしてレアは再びヤコブと寝ることになりました。ここでのやり取りから分かる通り、レアとラケルの仲は非常に悪かったようです。もしこの2人が姉妹でなかったか、または父であるラバンと一緒に暮らしていなければ、もっと酷い関係になっていたはずです。

【30:17~18】
『神はレアの願いを聞かれたので、彼女はみごもって、ヤコブに5番目の男の子を産んだ。そこでレアは、「私が、女奴隷を夫に与えたので、神は私に報酬を下さった。」と言って、その子をイッサカルと名づけた。』
 神はレアの願いを聞かれて、レアに再びヤコブの子を産ませて下さいました。ヤコブに愛されていたラケルはまだ一人も子を産んでいないのに、ヤコブに嫌われていたレアはこれでもう5人目です。神は悲惨な者にこそ慈しみを注いで下さるのです。何故なら、神とは憐れみ深い御方だからです。レアが5回目に産んだヤコブの九男イッサカルは、「報酬を与える」という意味の名前です。このように命名されたのは、女奴隷をヤコブに与えたことに対する神の報酬として新たに子が与えられたとレアには思えたからです。これは本当らしく感じられます。というのも聖書は、胎の実が報酬だと教えているからです。このイッサカルも命名の際に使われることはありません。

【30:19~20】
『レアがまたみごもり、ヤコブに六番目の男の子を産んだとき、レアは言った。「神は私に良い賜物を下さった。今度こそ夫は私を尊ぶだろう。私は彼に6人の子を産んだのだから。」そしてその子をゼブルンと名づけた。』
 レアが6回目に産んだヤコブの十男ゼブルンは、「共に住む」という意味の名前です。このように命名されたのは、レアが今度こそはヤコブと親密な状態で生活できるようになると期待したからです。実際はどうだったのでしょうか。ゼブルンが生まれてから、ヤコブの心はレアに結びついたのでしょうか?残念ながら、後の箇所を見ると、このゼブルンが生まれてもヤコブの偏愛に変わりはなかったようです(創世記33:1~2)。このゼブルンという名も命名の際には使われません。

【30:21】
『その後、レアは女の子を産み、その子をディナと名づけた。』
 それからレアはディナという娘を産みましたが、恐らくヤコブの娘はこのディナだけだったと思われます。何故なら、聖書はヤコブの娘としてこのディナだけしか示していないからです。もし他にも娘が生まれていたならば、聖書はその娘についても示していたはずです。しかし、これから後にディナについて特筆すべき出来事が起こるからこそ(創世記34章)、ヤコブの娘でこのディナだけが特別に示されているという可能性もあります。聖書は女性については記述を省略していることが多いということを、私たちは考慮すべきです。しかし、もしかしたら本当にヤコブの娘はディナだけだったということも十分にあり得ます。

【30:22~24】
『神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。彼女はみごもって男の子を産んだ。そして「神は私の汚名を取り去ってくださった。」と言って、その子をヨセフと名づけ、「主がもうひとりの子を私に加えてくださるように。」と言った。』
 『神はラケルを覚えておられた』とは、神がラケルに恵みを注がれたということです。これは逆の言葉、すなわち「神が御顔を背けておられた」という言葉を考えるならば、理解しやすくなります。神が御顔を背けるとは、つまり神の恵みが注がれないことです。何故なら、その人は神からどうでもよいと思われているからです。こうしてラケルは身籠るようになりました。この時をどれだけラケルは待ち望んでいたでしょうか。この時のラケルには歓喜と感謝が満ちたに違いありません。このラケルが産んだヤコブの十一番目の子ヨセフは、「加える」という意味の名前です。このように命名されたのは、恐らくラケルが『主がもうひとりの子を私に加えてくださるように。』と言ったからです。つまり、この名前にはラケルの強い希望が込められているということです。このようにしてラケルから汚名は取り払われました。もうヤコブから不妊のことについて悲しく思われることもありません。レアもラケルに対して得意になることは難しくなりました。このヨセフという名を付けられた人は、今に至るまで実に多くいます。最近ではヨシフ・スターリンやジョセフ・バイデンやジョセフ・ナイなどがそうです。この名前を持つ人はユダヤ人である場合が多い。

 この出来事から分かるように、神とは祈りを聞いて下さる御方です。それゆえ、聖徒たちは忍耐を持って祈り続ける必要があります。祈りがなかなか聞かれないからといって、ラケルが奴隷を使って強引に願望を実現させたようなことはすべきではありません。もちろん、忍耐しつつ祈っていればやがて聞かれるというのは、御心に適った祈りである場合に限られます。それが御心に適っていなければ、どれだけ祈っても祈りは聞かれないでしょう。これは当然のことです。例えば、誰かが日本の物理的な沈没を願い続けたとしても、その願いは聞かれないでしょう。しかし、例えば救いの祈りであれば、祈り続けることにより、やがて聞かれるでしょう。私が聞いたところによれば、ある姉妹は未信者である夫の救いについて祈り続けていましたが、祈り続けて30年目になると遂にその夫が信仰を持つようになったということです。