【Ⅰ列王記1:1~15】(2023/06/25)


 「諸王の年代記」とも呼ばれるこの「列王記」は、2つの部に分かれており、私たちはまず前半のほうをこれから見ます。この巻は、ダビデが老年になった時の記述から始まっており、前の巻であるⅡサムエル記から繋がっていることは明らかです。この巻では、ダビデの子ソロモンがイスラエル王となり、最大の預言者であるエリヤが登場し、アハブの子アハズヤが王になった時点で閉じられます。この巻で書かれている記述の年代は、だいたい前970年~前850年であり、約120年となります。この巻を誰が書き記したかは何も示されていないので分かりません。ただⅡサムエル記から続いていることを考えるならば、この巻もⅡサムエル記と同じ筆記者による可能性があります。しかし、その筆記者を動かしてこの巻が書かれるようにした真の筆記者は神であられます。この巻からも、私たちは多くのことを学べるでしょう。特に注目されるべきなのは、王の支配と罪における関係性です。この巻からは、王の犯す罪により国家は呪われて駄目になるということがよく分かります。そのようにしてユダヤの王国は2つに分裂してしまったのです。神がソロモンに建てさせた神殿も注目すべきです。ユダヤ教徒は、今でもこの神殿が再建されるのを待ち望んでいます。しかし、その望みが叶えられることは絶対にありません。何故なら、神がかつて住んでおられたこの神殿は、今や聖徒という身体になっているのだからです。

【1:1】
『ダビデ王は年を重ねて老人になっていた。それで夜着をいくら着せても暖まらなかった。』
 どのような人であれ老化の強制的な流れに抵抗することはできません。それは重力により落下する物体がそのまま落ち続けて行くのと同じです。ですから、ダビデも『年を重ねて老人になって』いました。ダビデは70歳まで王の職にあり(Ⅱサムエル5:4)、ソロモンに王位を譲ると間もなく死にました。もうこの時のダビデは死ぬ少し前の段階だったのですから、この箇所におけるダビデの年齢は、70歳か70歳近くだったはずです。

 この通りダビデは『老人になっていた』ので、『夜着をいくら着せても暖ま』りませんでした。この原因は、何らかの病か単なる老化による衰えです。もし病だった場合、私たちはそれがどのような病だったか分かりません。今の時代でも、人は老齢になれば、特に夜がそうですけども、なかなか身体が暖かくならないものです。ダビデもこのようであり、病気のため身体が冷えたのでなかった可能性は十分あります。

【1:2~3】
『そこで、彼の家来たちは彼に言った。「王さまのためにひとりの若い処女を捜して来て、王さまにはべらせ、王さまの世話をさせ、あなたのふところに寝させ、王さまを暖めるようにいたしましょう。」こうして、彼らは、イスラエルの国中に美しい娘を捜し求め、シュネム人の女アビシャグを見つけて、王のもとに連れて来た。』
 ダビデは王だったので『家来』たちを持っていましたが、これは天皇で言えば側近でしょう。このような家来たちは支配者また権威者の健康と安全を切に求めるものです。ですから、この家来たちはダビデの冷えた身体が暖まるよう取り計らいました。若くて美しい処女を連れて来て、ダビデの世話人とさせ、一緒にいるよう働きかけたのです。もし一緒にいるならば寝ることにもなります。そうすればダビデが暖かくなるようにもなるのです。しかし、これは思慮が足りなかった解決策だと言わねばなりません。何故なら、神は律法で姦通することを禁じておられるからです。この時に連れて来る処女がより美しいことを求められたのは間違いありません。というのも、その処女が美しければ美しいほど、ダビデが暖まる度合いも高まるだろうからです。

【1:4】
『この娘は非常に美しかった。彼女は王の世話をするようになり、彼に仕えたが、王は彼女を知ろうとしなかった。』
 アビシャグは『非常に美しかった』のですが、ここでも神は美しさを肯定しておられます。というのも、美しさとは神が与えられた賜物だからです。ですから、神はアビシャグのような人物について「美しい」とはっきり言われるわけです。このため、私たちも性的な限度を弁えて破廉恥にならなければ、美しい人を「美しい」と言って何も問題ありません。例えば、私たちはオードリー・ヘップバーンについて「美しい人」などと言って構いません。しかし、聖書は美より敬虔さを優位に置いているということが弁えられねばなりません。何故なら、神の御前では、美しさより敬虔さが重要な意味を持つのだからです。

 このようにして美しいアビシャグは、ダビデの召し使いとして、ダビデの世話をするようになりました。ダビデは王という立場上、このアビシャグに手を出しても、社会的に全く問題が生じませんでした。王が多妻であったり色好みであるというのは、昔から社会的に許容されるべき事柄だと見做されるものだからです。そのようにしてダビデがアビシャグと寝て暖まるということこそ、家来たちの狙いだったのです。ところが、家来たちの思惑に反し、ダビデは『彼女を知ろうとしなかった』のです。これはダビデが霊的に成長していたことを示します。つまり、ダビデはバテ・シェバ事件の際に大きな学びを得たのです。ダビデはバテ・シェバ事件の際に懲らしめられたので、もう二度と悪い行ないはするまいと反省したのです。「これからは正しく歩もう。」などと思ったのかもしれません。もしダビデが何の懲らしめも受けていなければ、この時、アビシャグに手を出していたかもしれません。またこれがバテ・シェバ事件の起こる前であれば、ダビデは恐らくアビシャグに手を出していたはずです。ちょうどバテ・シェバに手を出したのと同じです。こういうわけですから、神がダビデを懲らしめたのは大きな益となったのです。ダビデは懲らしめにより、バテ・シェバから産まれた子が8日目に奪われ、妾たちもアブシャロムに犯されてしまいました。しかし、その懲らしめは意味なく下されたわけではありませんでした。

【1:5~6】
『一方、ハギテの子アドニヤは、「私が王になろう。」と言って、野心をいだき、戦車、騎兵、それに、自分の前を走る者五十人を手に入れた。―彼の父は存命中、「あなたはどうしてこんなことをしたのか。」と言って、彼のことで心を痛めたことがなかった。そのうえ、彼は非常な美男子で、アブシャロムの次に生まれた子であった。―』
 イスラエルに次の王が誕生する時期となっていたので、ダビデの四男である『ハギテの子アドニヤ』が機会を捉えて王になろうと企みます。このアドニヤは正当な王子だったのですから、一般的に考えれば、王になろうとしても荒唐無稽な話ではなかったかもしれません。しかし、聖書はアドニヤが『野心をいだ』いたと非難しています。実際、アドニヤは野心を抱いたのであり、王になろうとすべきではありませんでした。何故なら、ソロモンが次の王になると神はもう定めておられたからです。このアドニヤは、王になるため『戦車、騎兵、それに、自分の前を走る者五十人を手に入れ』ました。アドニヤにはダビデ王という「親の七光り」が大いにありました。ですから、これらのものを手に入れることが出来たのです。

 ここで言われている通り、アドニヤは『父』であるダビデから悪く思われたことがありませんでした。彼は問題児のようではなかったのです。これは問題児だったアブシャロムと正反対です。しかし、この時においてアドニヤの中で眠っていた野心が目を覚ましました。ダビデはまさかアドニヤがこのような野心に燃えるなどと想定していなかったと思われます。人の心にどのような衝動また願望が眠り隠れているか他者からは分からないものなのです。このアドニヤは『非常な美男子で、アブシャロムの次に生まれた子』でした。つまり、彼には外観的にも立場的にも、王となる相応しい資格がありました。もし不気味な外観であれば民衆から好印象を得られませんし、単なる一般人に過ぎなければ王権を持つのは不適切だと思われてしまうのです。

【1:7】
『彼はツェルヤの子ヨアブと祭司エブヤタルに相談をしたので、彼らはアドニヤを支持するようになった。』
 アドニヤは、ヨアブとエブヤタルに自分が王になろうとすることで相談します。このような相談は彼ら2人にとって良く思われたはずです。何故なら、まだアドニヤが王になっていない時点からもう相談されているとすれば、アドニヤが王になってからも相談される可能性はかなり高いからです。つまり、アドニヤの治世となれば、それなりの地位を得られるというわけです。このためでしょう、ヨアブとエブヤタルは『アドニヤを支持するようにな』りました。人間は往々にして何事でも自分の利益を求めて動くものです。この時にアドニヤが相談したのは、この2人以外にもいた可能性があります。相談した人たちのうち、支持してくれたのがこの2人だけだったということかもしれません。しかしながら、ヨアブとエブヤタルが親アドニヤの立場を取ったのは間違いでした。何故なら、彼らは神に次の王として定められたソロモンをこそ支持すべきだったからです。

【1:8】
『しかし、祭司ツァドクとエホヤダの子ベナヤと預言者ナタン、それにシムイとレイ、および、ダビデの勇士たちは、アドニヤにくみしなかった。』
 ヨアブまたエブヤタルとは異なり、ここに挙げられている人々は、親アドニヤの立場を取りませんでした。ソロモンが次の王となるのですから、親アドニヤにならなかったのは正しい判断でした。ここで挙げられている『預言者ナタン』も、やはり神の預言者に相応しく、御心に適わないアドニヤを支持しようとはしませんでした。この箇所で挙げられている存在は全部で「6」ですが、この数字に象徴的な意味は含まれていないはずです。先に見た親アドニヤの2人を加えるならば、その数は「8」となります。この「8」も、ここにおいては何も特別な意味を持っていないはずです。私たちもこのような状況になったら、ここで挙げられている人々のようになりたいものです。それは私たちが神の御心に適った判断をするためです。

【1:9~10】
『アドニヤは、エン・ロゲルの近くにあるゾヘレテの石のそばで、羊、牛、肥えた家畜をいけにえとしてささげ、王の子らである自分の兄弟たちすべてと、王の家来であるユダのすべての人々とを招いた。しかし、預言者ナタンや、ベナヤ、それに勇士たちや、彼の兄弟ソロモンは招かなかった。』
 こうしてアドニヤは、『エン・ロゲルの近くにあるゾヘレテの石のそばで』犠牲を捧げました。これは任職の儀式に伴う犠牲だったはずです。続く箇所(11節)を見れば分かる通り、この時にアドニヤが王として立てられたのです。しかし、神が彼を王として立てたのではありません。ただ彼の治世を求める者たちが勝手に立てたのです。この時には、ソロモンを除くダビデの息子たちとユダ族の人々が招かれました。つまり、アドニヤが王になることを望む人々はかなりいたわけです。この犠牲式が『石のそばで』行なわれたのは、当時の慣習に倣ったことでしょう。前から何度も述べている通り、『石』はキリストの象徴です。ですから、キリストの民であった古代ユダヤ人たちは、こういった儀式をしばしば石の近くで行なっていました。

 この時には、ナタンやソロモンなど招かれない人々もいました(10節)。彼らは親アドニヤ派でないと分かっているので、自然と招かれなかったのです。何故なら、たとえ招いたとしても、彼らはアドニヤが王になることを望んでいませんから、招かなかった場合と同じで来ようとしなかったはずだからです。

【1:11~14】
『それで、ナタンはソロモンの母バテ・シェバにこう言った。「私たちの君ダビデが知らないうちに、ハギテの子アドニヤが王となったということを聞きませんでしたか。さあ、今、私があなたに助言をいたしますから、あなたのいのちとあなたの子ソロモンのいのちを助けなさい。さあ、ダビデ王のもとに行って、『王さま。あなたは、このはしために、必ず、あなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に着く、と言って誓われたではありませんか。それなのに、なぜ、アドニヤが王となったのですか。』と言いなさい。あなたがまだそこで王と話しているうちに、私もあなたのあとからはいって行って、あなたのことばの確かなことを保証しましょう。」』
 ナタンが言っている通り、アドニヤはダビデに知らせることなく王となりました。これはもしダビデに知られるならばどうしようもなくなると感じたからでしょう。つまり、アドニヤはダビデが王になろうとする自分に反対するだろうと思ったはずです。もしダビデが賛成すると想定していたとすれば、このようにわざわざ逃げ隠れるかのごとく王になろうとする必要はなかったでしょう。しかし、当時のイスラエルでは、ソロモンが次の王になるという考えが一般的だった可能性もあります。そうだったとすれば、アドニヤがこのようにして王となったのは自然だったかもしれません。この場合、アドニヤはかなり無理をしたことになります。このアドニヤの野心は、ダビデがそれを知る前から、もうナタンに知らされていました。ダビデはナタンから知らされるまで、そのことを全く聞かされていなかったのです。このように反発されることを恐れる者は、大きな事柄であればあるほど、隠れて事を行なおうとするものです。しかし、悪を隠して行なおうとする時点で既に無理があります。ですから、そういった事柄はやがて失敗に至ることが多いのです。

 この時のイスラエルは緊急事態でした。このままアドニヤが王として支配すれば、イスラエルは不適切な王に管理されることとなります。またバテ・シェバとソロモンも粛清されることになります(12節)。このため、ナタンは何とかアドニヤの暴走を止めようとします。ナタンはバテ・シェバがダビデにアドニヤのことで告げるよう指示しました。どうしてナタンがバテ・シェバに告げさせたかと言えば、それは妻からの言葉であればダビデも強く耳を傾けるだろうからです。ナタンは、バテ・シェバがダビデの言った言葉を示すように命じます。これは効果的なことでした。何故なら、アドニヤがダビデの言葉に反した振る舞いをしていると聞けば、ダビデは大いに問題ありと感じざるを得ないはずだからです。

 ナタンは、まずバテ・シェバをダビデのもとに行かせ話させようとします。そしてバテ・シェバがダビデに話している時、自分もダビデのもとに行き、アドニヤのことで話そうとしました(14)。このようにするのは、アドニヤの罪がしっかり立証されるためです。何故なら、律法は2人(または3人)の証言により罪が証明されると述べているからです。ナタンは預言者でしたから律法に精通していたことでしょう。ですから、このように律法に適ったやり方をしようとするのです。こういうわけですから、ここで『保証』と言われているのは、律法に関連した言葉として捉えられるべきです。

【1:15】
『そこで、バテ・シェバは寝室の王のもとに行った。』
 この時にはバテ・シェバとその子ソロモンの命がかかっていました。またバテ・シェバに指示を出したのは神の預言者であるナタンでした。バテ・シェバとダビデの間に面会することを妨げるような問題もなかったと思われます。このため、バテ・シェバはナタンの指示通り『王のもとに行った』のです。ダビデが『寝室』にいたのは、恐らく身体が暖まらなかったので(Ⅰ列王記1:1)、休養したり治療のようなことをしていたのかもしれません。