【キリストの福音】


御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。』(ヨハネ3章18~21節)

 このページでは、神の御子であられるイエス様の救いについてのメッセージなどが載せられています。罪深くても、邪悪であっても、愚かであっても、矮小な存在であっても、悲惨に満ちた人生を送っていても、除け者にされるような人であっても、もし悔い改めて救い主イエス・キリストを信じるのであれば憐れみを受け救われることができる、と聖書は教えています。この尊い救いを受けたいと思われる方は、お気軽に当教会までご連絡ください。


■滅びと罪からの救いはキリストにあり.

 聖書は『すべての人は、罪を犯した』(ローマ3章23節)と言って、私たちの罪深さを非難しています。確かに私たちは、今も昔も、神様の前に罪を犯し続けています。『隣人のものを、欲しがってはならない。』(出エジプト20章17節)『偽りの証言をしてはならない。』(同20章16節)『欺いてはならない。』(申命記19章11節)『偶像を拝んではならない。』(参照:申命記5章9節)このような神様の命令は、全人類に対するものです。しかし、神様は、御自身の御子を遣わして下さり、この御子によって信じる者たちが罪の赦しを受けられるようにして下さいました。この御子であるイエス様にこそ、このお方にだけこそ、私たちの救いがあるのです。聖書はこう述べています。『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』(Ⅰヨハネ1章7節)『この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる』(使徒10章43節)神様がイエス様を私たちの罪のために死に渡されたのは、その愛のゆえでした。すなわち、神様は御自身の無限の愛により、御子を信じる者が自分の罪によって滅びず、永遠に生き続けられるようにして下さったのです。このことについて聖書はこう述べています。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネ3章16節)このイエス様による尊い救いを、人々が受けられるようになるのを、私たちは大いに願うものです。実に、この救い以外には、私たちが救われるために用意されている方法はまったくありません。

■いつか終わる人生.

[1]
 余命の想定は心の持ち方を大きく変える。例えば今30歳であれば、あと40年程しか生きられないと考えるか、あと40年も生きられると考えるか。前者であれば、今後の歩みにおいて無駄を排除しようとする方向に心が働くだろうが、後者は自分を怠惰と安逸に導くだろう。充実した内容の濃い人生を送る為には、余命を短く想定する事が益になる。一番良いのは、「自分は1年後にはこの世にいるか分からない」と意識する事である。1年後には人生が終わっているかもしれないと想定すれば、心は「如何に無駄を排除するか」という方向に導かれる。自分の目標や望みに対して、忠実さを生み出す効果がある。

[2]
 しかし、人生が充実していようが、幸せであろうが、人生が終わったら最早その人には何も無い。如何に大きな功績と財産を世に残して人生を終えても、その人は既にいない。死後に受ける称賛や栄誉をその人自身はもう受けられない。何であれ、この人生はいずれ終わってしまう。今、この文章を読んでいる人の「今」があるように、いずれ人生が終わる瞬間も「今」になる事は疑いえない事である。今までに死んだ人のように皆、死ぬ。今この文章を書いている私も、読んでいる人も、いつかはこの世にいなくなる。それでは結局、死ぬのに頑張る意味はどこにあるのか疑問に思わないだろうか。

[3]
 聖書では、神のために行なわない一切の事はむなしいと教えている。もし、それが神のためで無ければ、どれだけ頑張っても、どれだけ結果を残しても、それは本質的にはむなしい。また、むなしい人生が終わった後には永遠の火で焼かれる事になる。地獄に投げ込まれるのである。皆、誰かが死ぬと「あの人は天国に行った」と根拠の無い事を信じて安心している。しかし、聖書は「その人は地獄に行った」と主張する。

[4]
 地獄に行きたくない人は、どうすれば良いか聖書に聞かなければならない。人が救われる為に必要なのは、イエス・キリストの救いを信じる事である。人間の罪の為に身代わりとなられたイエス・キリストを信じ、主と告白する事である。『この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる』(使徒の働き10:43)と書いてある通りである。信じて救われた人は、もう地獄に行く事は無い。また、神の為に行なった全ての事が永遠の報いとなって自分に返ってくる。即ち、如何に神の国を地上に拡大させたかによる報いである。だから、イエス・キリストにあって神の国の拡大の為に人生を歩む事は最も幸いな人生なのである。

[5]
 人間は堕落しているので、自分の力によっては、ここに書いてある救いの事柄を信じる事はまったく出来ない。ただ、救われるのは神の選びと憐れみによる。神に選ばれていない人は、イエス・キリストを信じないが、神に選ばれた人は必ずいつか信じる事になる。選ばれていない人は、福音を聞いても、馬鹿にし、無視し、信じようとはせずに人生を終えていくが、それは神の敵である故に他ならない。『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚か』(Ⅰコリント1:18)と書いてある通りである。

■地獄に行かない方法.

結局、死ぬのだから自分を喜ばせてもいつかは終わりだ⇒他人を喜ばせれば自分が死んでも、自分によって喜んでくれた人は生きている⇒自分が世にいなくなっても自分のした事がその人の内に行為として残っている・・・

このような考えを持っている方は多いだろう。

しかし、死んだら、自分は地獄に行って苦しまねばならない。

その苦しみは、永遠に続き、終わる事がない。

苦しみと恐怖に満ちている地獄に行かない為には、どうしたらいいのだろうか。

それは、イエス・キリストを信じることである。

イエス・キリストを信じない限り、地獄での永遠の刑罰は避けられない。

不信仰な人は、永遠の罪に定められ、神からの裁きを受け続ける。

信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。』(マルコの福音書16章16節)

■幸いな人生.

人の喜びの為に生きても、自分の欲望の為に生きても、いつかは皆、世にいなくなる訳である。
自分のした事もいつかは忘れ去られるだろう。
誰かの為に生きても、己の為に生きても、虚しい事に変わりは無い。
いつかは世にいなくなるのだから。
だから、本当に賢い人は永遠に残る事の為に生きる。
それは一体何か。
それは、神の為に生きる事である。
自分の為に生きても、死んで終わりである。
大きな業績を残して死後も称賛されたとしても、その人はそこにはいない。
そればかりか、地獄で永遠に苦しむ事になる。
神の為に生きた人は、永遠の世界で永遠の報いを永遠に受ける事が出来る。
この世で神の為にした事は永遠の報酬となって自分のものとなる。
この世で自分の為に生きた人は、報酬が何も無いばかりか、神の恐ろしい怒りを自分の身に受ける事になるだろう。
永遠の地獄で消える事のない火を永遠に受ける事になる。
神の為に生きなかった人の報酬は永遠の苦しみである。
しかし、文句を言う事は出来ない。
チケットを持っていない人は集会に入れない。
悪臭を放つ人はパーティー会場に入れない。
同様に、神の前に正しい状態で無い人は永遠の世界に入れない。
その人は天国行きのチケットを持っておらず、聖なる世界に相応しくない罪の匂いを撒き散らしているからだ。
入れない人は、外の暗闇に放り出されて泣きながら歯ぎしりするだろう。
そうして地獄に投げ込まれる。
そうなりたくない人は、神の所に来るべきである。
そうすれば、地獄に行く事も無いだろう。
どうしたら神の所に行けるだろうか。
それはイエス・キリストが自分の罪の身代わりとして死なれた事を信じる事である。
そうすれば、神の前にあなたは正しい状態になる。
何故なら、イエス・キリストにおいて罪が帳消しにされているからである。
これを聞いても信じない人は不幸である。
是非、罪の赦しを受け、永遠の報いを受ける者になる事をお勧めしたい。

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。』(ヨハネの福音書3:36)  

■罪の赦しと死からの救い.

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。聖書

全能の神は、この世界のすべてのものを造られたお方です。私たち人間も、この方によって造られました。神は世界を造られた時、人間にこのようにお命じになられました。

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。』 創世記1章28節

人間はこの世界を神の御心によって統治し、その文化的営為を通して、神の素晴らしさを現わすために造られたのです。そして、神からの永遠の祝福を受け、永遠に神とともに幸せに生き続けることが出来るはずでした。

しかし、人間は神の命令に従わず、反逆し、神に罪を犯しました。神は、その罪の報いとして呪いと死とを私たちに下されました。すべての人間が死ななくてはならないのは、神の御前に犯した、この罪のためなのです。

すべての人は、罪を犯した。』 ローマ3章23節
罪の支払う報酬は死である。』 ローマ6章23節

そして死後、人生で行なった全てのことを裁かれ、永遠の刑罰を受けなくてはなりません。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。』 ヘブル9章27節

しかし神は、私たち人間に、和解の手段を下さいました。神は、御自分のひとり子イエス・キリストを、私たちのために世に遣わしてくださいました。そして、神の御子イエス・キリストは十字架の上で私たちの罪の身代わりとして死んで下さいました。そのために、イエス・キリストを信じる人は、神の御前に罪が赦されて、このイエス・キリストのゆえに無罪とされるのです。

この方(イエス・キリスト)を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる。』 使徒の働き10章43節

イエス・キリストを信じ、罪を赦された人は、死後、永遠の世界(天国)に入り、いつまでも生き続けることが出来るのです。そこには、永遠の祝福と幸せ、平安があります。

神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』 ローマ6章23節
もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。』 ヨハネの黙示録21章4節

しかし、信じなかった人は、神の御前に罪が赦されていないので、死後、地獄で永遠の滅びの刑罰を受けねばなりません。

彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。』 ヨハネの黙示録20章10節

神は、信じた者の罪を赦される、愛と憐れみに満ちたお方です。また、信じなかった人の罪の責任を裁かれる、真実で正しいお方です。

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。』 ヨハネの福音書3章36節

罪の赦しと死からの救い、そして人生の真理は、イエス・キリストのうちにあるのです。これらのことは、すべて明白な事実です。すべての罪を赦されて、神に立ち返り、永遠に生き続けることができる人は、なんと幸いでしょうか。

■罪人である人間と唯一の救い.

罪人である人間は、イエス・キリストの血によって洗い清められない限り、神の御前に義と認められることは出来ない。

神は完全で聖なるお方であるから、少しの汚れも受け入れることは出来ない。

神は全てにおいて聖であられ、『その御使いたちにさえ誤りを認められる』(ヨブ4章18節)方である。

神の目には、燦然と輝く星さえも清くはない。

まして蛆にも等しい人間はなおさらのことである。

私たち人間は、完全に堕落しており、実に罪深い存在である。

罪の中に安住し、自分が滅びるにふさわしい罪人であることすら、自覚しない。

完全に堕落しきっているので、自分が救いようの無い罪人であることを、悟れない。

聖書は、人間のことを『死人』であると言っている。

人は、神の御前において死んでいる。

その最後、行き着く場所は、恐怖に満ちた灼熱の地獄である。

罪に対する刑罰として、永遠の苦痛が与えられるのだ。

その苦しみは決して止むことがない。

どうか、イエス・キリストにこそ救いがあることを知ってほしい。

この方を信じるならば、その名によって罪の赦しが受けられるだろう。

最早、地獄での永遠の苦痛を受けることも無い。

その最後、行き着く場所は「至福の天国」である。

全て、クリスチャンで無い人は、この天地の支配者である神と敵対しており、神の御前に死んだ存在である。

聖であり、完全であられる全能の神と和解する方法は、イエス・キリストによって義と認められる以外には無い。

この方だけが唯一の救われる道なのである。

イエス・キリスト以外には地獄をまぬがれる方法は一切ない。

わたし(※イエス・キリスト)が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』(ヨハネ14章6節)

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。』(ローマ3章23―24節)

■死に至る短い人生と救われるために必要な唯一の手段.

 私たちは、例外なく誰であっても、いつか必ず死ななければなりません。死ぬのを避けることは、絶対に出来ません。その人の年齢にもよりますが、あと数年か数十年したら、自分はこの世からいなくなってしまいます。つまり、いずれ『過去の人』として周りの人から扱われるようになってしまうのです。誰も「明日」死なないということを保証できません。もしかしたら、これから数日後に、交通事故に遭って死んでしまうかもしれません。それでは、私たちは死んだら一体どうなってしまうのでしょうか。「あの人は今ごろ天国で楽しんでいることだろう。雲の上から俺たちを見守ってくれているよ。」というようなことが死んでしまった人についてよく言われるものですが、神の書物である聖書によれば、そういうことはなく、人は死んだら地獄に行かなければなりません。人は死んでから、激しく燃える地獄の炎によって、永遠に苦しみ続けなければいけません。今までに感じたことのない程の苦しみが全身を満たし、あまりの苦しみのために泣き叫ばなければならなくなります。「苦しくてたまらない。誰か助けてくれ!」と言っても、誰も助けてくれません。この地獄に行かないためには、一体どうしたらいいのでしょうか。このままでは地獄に行かなければいけませんし、いつ死ぬかは誰にも分かりません。この地獄からの救いは、救い主イエス・キリストに対する信仰によって得られる、と聖書は教えています。このキリストに対する信仰こそが、地獄に行かないために用意されている唯一の方法です。というのは、この方は、信じる者たちが永遠に滅びることのないように、十字架の上で御自身を犠牲とされたからです。ぜひ、このお方を信じることにより、救われ、永遠の命を受けられるようになるのを心からお勧めいたします。

この方(※イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。』(使徒の働き4章12節)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネ3章16節)

■救いのメッセージ.

主イエスを信じなさい。
そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
(使徒の働き16章31節)


【罪の刑罰と永遠の滅び】

 この世界を創造された唯一まことの神は、すべての人に対して「有罪」を宣告しておられます。これを読んでいるあなたも、例外ではありません。生まれてから今に至るまで犯した、数えきれないほどの罪が神の御前に積まれています。どんな小さな罪も神の目から隠し通すことは出来ず、すべては克明に覚えられています。なぜなら、神は、あなたのことを何もかも知っておられるからです。私たちを造られた全能の神は、人の心と思いを見られるお方なのです。聖書にはこのように書いてあります。

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。』ヘブル4章13節

 悪意、殺意、ねたみ、偽り、ごまかし、人のことを考えない自己中心な思い…、人の心は罪に満ちています。正しい人間などこの世に一人もいません。あなたは、自分が神の御前に罪深い存在であることを認めなければなりません。

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。』Ⅰヨハネ1章8節

 また、神は、あなたが人生で犯したすべての罪を裁かれます。神の御前において、ごまかしや言い逃れは、いっさい出来ません。この裁きを免れることが出来ると思ってはなりません。

神は…すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれる』伝道者の書12章14節

 神は、罪人を地獄に投げ込まれ、「永遠の刑罰」をお与えになります。そこでは、激しく燃える火が苦痛をもたらし、一滴の水すら与えられないので、何の希望もありません。このような恐ろしい場所に、誰が耐えることができるでしょうか?しかし、その人は、神から罪の正当な刑罰を受けているので、まったく弁解の余地はありません。神は、罪を永遠の刑罰により正しく裁くことで、御自分の「義」を永遠に現わされるのです。

 今、平気でいられるのは、神が、まだあなたを死に渡されていないからにすぎません。思い違いをしてはいけません。あなたは神によって生かされている、小さな被造物にすぎないのです。神の燃える怒りは必ず、容赦なく下ることでしょう。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている』ヘブル9章27節

【キリストの救いと永遠の命】

 しかし、神は、罪の赦しと滅びからの救いを、私たち人間に与えて下さいました。それは、神の御子イエス・キリストが、あなたの罪のために身代わりとして死なれたことを信じることです。事実、イエス・キリストは十字架の上で、すべての人の罪のために死に渡されたのです。

(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。』Ⅰペテロ2章24節

この方(イエス・キリスト)を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる』使徒の働き10章43節

 神は、その大きな愛と憐れみのゆえに、罪のない御子に、人間の罪を負わせられました。それは、信じるすべての人が、神の怒りと刑罰から免れ、永遠の命を持つためなのです。また、信じる者を救うことによって、神の愛と栄光が現わされ、神が褒め称えられるためです。神は、すべての人が罪を悔い改め、イエス・キリストを信じるように命じておられます。

あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。』使徒の働き3章19節

 どのような罪深い人も、悔い改めるなら、「キリストの十字架のゆえに」罪を赦され、永遠に生きることが出来ます。ですから、あなたが、このような素晴らしい救いを信じないのなら、絶対に永遠の刑罰を免れることは出来ません。あなたの罪が赦されていないからです。

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。』ヨハネ3章36節

 なんと幸せなことでしょうか。イエス・キリストを信じ、永遠に生きることが出来る人は!その人は、罪を赦され、もはや滅びることがありません。この救いを信じる人は幸いです。願わくは、神があなたを導いて下さり、この救いを受け入れることができますように。アーメン。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』ヨハネ3章16節

■イエス・キリストの福音.

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14・12)

あなたは人生について考えた事があるでしょうか。
人生とは、一体何なのでしょうか。
食事、仕事、勉強、休息・・・人は、必ず物事に意味と結果を求めます。

 ”全く意味が無い” と分かっていながら、何かをする人はいません。
 ”必ず破綻する” と分かっていながら、事業を興す人はいません。
 ”100%失敗になる” 事が明白でありながら、挑戦する人はいません。

人の人生も、それと同じです。
最終的に ”死” に繋がる人生などに、果たして意味などあるのでしょうか。
今、生きて多くの物を持っていても、結局、死んで何もかも無くなってしまいます。
多くの哲学者が、真理を探し求めますが、決して見出せません。
しかし、聖書にその答えが、明瞭に記されています。
聖書には、このように書いてあります。

神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12・13―14)

人間は死後、神に対して人生の清算をしなければいけません。
自分が行った全ての事について、神からのさばきを受けるのです。
しかし、人間は罪深い存在であるがゆえに、その罰として永遠の地獄に入らねばならないのです。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル9・27)

あなたは、どう思われるでしょうか。
神と死後の世界の証拠を要求されるでしょうか。
ただ「信仰」に逃げているだけだ、と思われるでしょうか。
しかし、神は「信仰」によってのみしか真実を認識する事ができない世界に創造されたのです。
それは、「ご自分を信じる者だけ」を、死から救うためなのです。
信じない人について、聖書はこう記しています。

彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3・19)

神は、人間の罪を赦す為、ご自分のひとり子イエス・キリストを、十字架につけられました。
私たちの罪の身代わりとして裁き、罰せられたのです!
そのため、イエス・キリストを信じる者は罪に定められず、死後、天国に入ることができます。

この方(イエス・キリスト)を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる。」(使徒10・43)

何故、神は愛するご自分の御子を、人間の罪の身代わりとして裁かれたのでしょうか。
それは、神が、人知をはるかに越えた愛をお持ちの方だからです。
神は、人間を愛しておられ罪深い私たちの咎を、その愛ゆえに憐れんでくださったのです。

神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3・16)

神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネⅠ4・10)

信者(クリスチャン)は、救い主イエス・キリストを信じ、従っています。
イエス・キリストを信じ、従う者は、死後、罪の責任を問われずに、永遠の祝福のうちに生き続けます。
神がイエス・キリストによって罪を取り除いて下さったからです。
信じない者は、死後、罪の刑罰として永遠の地獄の火で苦しみ続けねばなりません。

実に、主(イエス・キリスト)は火をもってさばき、その剣(みことば)ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。」(イザヤ66・16)

罪ある者が報いとして地獄に入るのは当然の事であり、弁解の余地はないのです。
死んで気付いてからでは、既に遅いのです。
神が愛する御子を犠牲にしてまで救おうとして下さっているにも関わらず、それを拒んだからです。

御子(イエス・キリスト)を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3・36)

あなたは、このまま、永遠の地獄に繋がる短い人生を刹那的に送る事を望むでしょうか。
それとも、神を信じ、愛と真理と不滅のものとを、追い求める事を望むでしょうか。
騙されてはいけません。
真理は、シンプル且つ明快なのです。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(コリントⅠ13・13)

【イエス・キリストを救い主として信じ、神のために生きる。】
これこそ、人生において求めねばならないことなのです。

わたし(イエス・キリスト)が道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14・6)

■人生、死後の世界、救いについての話.

1.人生とその短さ、死のことについて

 松下幸之助が人生のことについて、こう言っています。「人生について、ひとはそれぞれに、いろいろな考え方があるけれども、最近わたしは、このように、その日その日を精いっぱいに働き、その充実感を味わえるように生きて行くことが、なによりしあわせであり、喜びであると考えることが、きわめてだいじだと思うようになりました。長い人生においては、もちろん将来に対する綿密な計画を立てて進んでいくことも、たいへん結構なことです。ただ、人生は、幸か不幸か、なかなか計画どおりにいかないことが多い。ですから、それよりもむしろ、日々の生活に全身全霊を打ちこんで、充実した毎日を送ることがさらにたいせつではないかと思うのです。」(『若さに贈る』p109:講談社現代新書)人生についての考え方は人それぞれ異なっているかもしれませんが、しかし、松下幸之助も述べているように、やはり充実した人生を送ることが望ましいということは、多くの方が同意する考え方ではないかと思います。誰であっても、人生は充実しているほうがいいか、それとも充実していないほうがいいか、と聞かれるのであれば、「充実しているほうがいいに決まっている。」と答えることでしょう。しかしながら、たとえどれだけ人生が充実していたとしてもやがて死に至るということを考えるのであれば、私たちの人生には虚無感が漂うことになります。何故なら、どれだけ幸いな人生を送ったとしても、いずれ死に至り、すべてが終わってしまうことになるからです。古代イスラエルの王であるソロモンは、この死に行きつくことになる人生における虚しさのゆえに次のように言って嘆きました。「空の空。すべては空。」(伝道者の書1:2)このようなことを聞くと、次のように思われる方がおられるかもしれません。「確かに人の人生は死によって終わりを迎えるかもしれないが、私が死ぬことになるのはまだまだ先の話だろう」。しかし、ネロの師であった古代ローマの哲学者セネカによると、このように思うのは間違いであるとされています。セネカは次のように言っています。「実際、私たちの勘違いは私たちが死を遠くに見ていることにある。」(『セネカ哲学全集5』p3:岩波書店)このセネカの言葉は、正にその通りであるといえるものです。というのは、古代ローマの詩人オウィディウスが「時の移ろいは人目につかず、飛ぶようなその速さは、ひとの意表を越える。歳月よりも速いものは、ほかにはないのだ。」(『変身物語(下)』p92:岩波文庫)と言っているように、私たちの人生における時の移ろいの速度は、あまりにも速いからです。私たちの人生における時の移ろいが速やかに進んでいくというのであれば、確かにセネカが言っているように、私たちが死を遠くに見ているのは勘違いであるということになるでしょう。何故なら、死は、ものすごい速度をもって、私たちの人生を終わらせるために突進してくるからです。この死は、私たちに向かってゆっくりとやってくるのではありません。事実、「まだまだ人生は長い。」と今までの時代において口にした人たちは、あっという間に自分の人生を終わらせてしまいました。このように口にした人たちは、当時はまだまだ人生は長いと考えていたかもしれませんが、今となってはもう存在していません。また、私たちは誰であっても、いつ死を迎えることになるか分かりません。「まだまだ彼の人生は長い。」と思われている若い方であっても、もしかしたら明日死んでしまうことになるかもしれません。明日もいつもと同じように生きられるに違いないと意識的にであれ無意識的にであれ感じていた若い方で、突然の事故のゆえに死ぬことになってしまった人など、探せばいくらでも出てくることでしょう。つまり、若い方であっても、死の現象から遠く離れているというわけではないのです。このように、死というものは、あらゆる人の前に迫っている、どのようにしても避けられない現象であるということが分かります。

2.死後の世界について

 それでは、人は死という現象によって一体どのようになるのでしょうか。古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは次のように言っています。「死とは何か。終わりか移行かだ」。人が死ぬことによってどのような状態になるのかという考えには、ソクラテスもそう考えていたように大きく分けて2種類存在しています。すなわち、(1)死んで何もかも終わってしまうのか、または(2)死んでから別の世界(天国や地獄など)に移ることになるのか、という考え方です。この2つの考えのうち、正しいのはどちらでしょうか。「(1)の方が正しい」と思われる方もいるでしょうし、「(2)が正解だ」と思われる方もいるでしょう。人それぞれ思うところがあるかと思いますが、聖書によれば、正しいのは(2)の考えであり、(1)の考えは誤りです。聖書では、人の死と、その死の後に起こる出来事について、次のように書かれています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。このように、聖書では人間は死後に裁かれると教えられているのですが、それでは一体、人間はどのような存在から裁かれることになるのでしょうか。それは、この世界を創られた至高の存在である神様です。人間は、死んでからこの創造者なる神によって裁かれ、恐ろしい地獄で永遠の苦しみを受けなければならないと聖書は教えています。キリストは、聖書の中で、この地獄がどのような場所であるのか語っておられます。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」。(マルコの福音書9:48)この地獄に行く人たちは、「永遠に昼も夜も苦しみを受ける」(黙示録20:10)ことになります。しかし、一体どうして人間は、死んだ後に地獄に行かねばならないと聖書では言われているのでしょうか。聖書では、人間が地獄に行かねばならない理由は、人間が至高の存在である神様の前に罪深い存在だからである、と教えられています。聖書では、人間が罪ある存在であるということについて、次のように書かれています。「ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にある」(ローマ人への手紙3:9)「義人はいない。ひとりもいない。」(同3:10)「すべての人は、罪を犯した」(同3:23)「全人類が罪を犯した」(同5:12)人間はこの世界を創られた至高の存在である神様の前に罪深い存在であるのですから、誰であっても裁かれて地獄へと投げ込まれなければならないというのは当然のことであると言えましょう。何故なら、聖であり義である至高の神様は、御自身の前に汚らわしい存在である罪深い人間を、地獄における刑罰によって裁かれずにはおられないお方だからです。「怒りは、いまにも燃えようとしている。」と詩篇には書かれています(2:12)。誰であれ人間は短い人生が終わった後、神様の燃える怒りの前に震えおののき、決して消えることのない火によって苦しみ続けなければなりませんが、人間は罪深い存在なのですから、そのような裁きを受けることになったとしても文句はいえません。

3.イエス・キリストによる罪の赦しについて

 さて、ここまで人間の人生の短さと死後に受けることになる永遠の裁きについてお話ししましたが、私たちの人生が終わった後に待ち受けている恐るべき地獄を免れるためには一体どうしたらいいのでしょうか。人間が、神様の前に救われるためには何をしたらいいのでしょうか。聖書では、私たちが救われるためには、神様の御子であるイエス・キリストを信じなければならない、と教えられています。すなわち、聖く何の汚れもないイエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架の上でみずから死なれ、死後三日目に神によって蘇らせられた、ということを信じるならば人間は救われると聖書は述べています。使徒パウロは、聖書の中で次のように書いています。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた」(ローマ人への手紙4:25)。誰でも、救い主であるイエス・キリストとその十字架における身代わりの死および三日目の復活の出来事を信じるのであれば、このお方のゆえに罪の赦しを受けることができ、至高の神様の前に義と認められることができます。もし救い主であるイエス・キリストを信じるならば、このお方が十字架の上で流された聖なる血が、その人の犯した罪をことごとく清めるでしょう。このことについて、使徒ヨハネは次のように言っています。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネの手紙第一1:7)このようなことを聞くと、「私には裁かれるべき罪など存在していない。」と思われる方がおられるかもしれません。しかし、使徒ヨハネはこのように思われる方に対して、次のように言っています。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(同1:8)そして、このヨハネは、もし私たちが自分の罪を告白するなら、その人の罪は神様の前にことごとく清められるであろうと言っています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(同1:9)たとえどれだけ罪深い人であったとしても、もし神の御子であるイエス・キリストを信じるのであれば、その人の罪はイエス・キリストのゆえに赦されるのですから、その人はもはや死後地獄に投げ込まれて永遠の裁きを受けることがなくなります。それは、「御子を信じる者はさばかれない。」(ヨハネの福音書3:18)と聖書の中で言われている通りです。ぜひ、私たちの罪のために身代わりとして死なれたイエス・キリストを信じ、この全世界をお創りになられた神様と和解するようになるのを心からお勧めいたします。「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント人への手紙第二5:20~21)

【救われてキリストの教会に属する者となるための3ステップ】

 救い主であるイエス様を信じて救われた人が教会に属するようになるのには3つのステップがあります。以下はその順序です。

①:心においてイエス様を信じる

 まず最初にするべきなのは、神の御子であられるイエス様が私たちの罪のために十字架で死なれ(※Ⅰ)、そして死後3日目によみがえられたこと(※Ⅱ)を心の中で本当に信じること、またこのイエス様を自分の主として受け入れることです。救いを受けられるようになるのには、「心」から何もかもが始まります。

(※Ⅰ)
(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(Ⅰペテロ2章24節)

(※Ⅱ)
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。』(使徒の働き2章24節)
神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。』(使徒の働き3章15節)

②:口においてイエス様に対する信仰を告白する

 心の中で信仰を持ったのであれば、次にするべきなのは、その信仰の内容を人々の前で告白することです。救われるためには、ただ心で信じるだけでなく、その信じたことを自分の口で公にする必要があります。このことについて聖書は次のように述べています。『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(ローマ10章9~10節)この信仰の告白は、プロテスタント教会の場合、自分の導かれた教会の礼拝堂で行なわれるのが一般的です。

③:バプテスマを受ける

 信仰を告白し、それを聞いた人たちからイエス様に対する正しい信仰を持っていると認められたのであれば、次にするべきなのはバプテスマと呼ばれる聖なる儀式です。このバプテスマとは、イエス様が救われた者たちに受けるようにとお命じになったものであり、教会であればどこでも行なわれています。イエス様はこう言われました。『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。』(マルコ16章16節)『父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け…なさい。』(マタイ28章19~20節)このバプテスマとは救われたことを象徴する儀式であって、イエス様を信じて救われた人は絶対に受けるべきものですが、あくまでも象徴としての儀式ですから、信仰を持ったもののこの儀式を受ける余裕がないままに死んでしまった人が救いを受けられないというものではありません。実際、イエス様と共に十字架で死刑にされた強盗は死刑の最中に救われたのでバプテスマを受ける余裕がありませんでしたが、イエス様はこの強盗に対して『あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』(ルカ23章43節)と言われたのです。このバプテスマは、川で行なわれることがあれば、教会に備え付けられているバプテスマ専用の水溜めの中で行なわれることもありますし、頭に水をつけるだけの簡易的なやり方を採用している教会もあります。これは聖書の中でバプテスマについての細かい規定が書いていないからであり、それぞれの教会がそれぞれのやり方でこの儀式を行なっているのです。


質問と回答】

■こんなにも罪深い私に罪の赦しが与えられることなどあるのでしょうか。

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』(Ⅰヨハネ1章7節)と聖書に書いてあるように、イエス様を信じて悔い改めるのであれば、どれだけ多くの罪があったとしても、イエス様が十字架の上で私たちのために流された聖なる血によりきよめられ、赦されます。悔い改めて罪の赦しを受けた人に対し、イエス様は次のように言われます。『人よ。あなたの罪は赦されました。』(ルカ5章20節)

■キリスト以外に私たちの救いとなる存在はないのでしょうか。

聖書は、ただキリストだけが人間に救いを与える唯一の存在であると教えています。このことについて、聖書のある箇所では次のように言われています。『この方(※キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。』(使徒の働き4章12節)

■私たちの努力や行ないによって救いを受けることはできないのでしょうか。

聖書は、人が救われるのはただ恵みによって与えられる信仰によるのであって、努力や行ないによるのではない、と教えています。それは聖書で次のように言われている通りです。『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。』(エペソ2章8~9節)

■もし罪を悔い改めなければ私たちはどうなるのでしょうか。

イエス様はこう言われました。『わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。』(ルカ13章5節)悔い改めない人は罪が赦されていませんから、死んだ後には滅びに至り、悔い改めた人のように天国へ入れられることは決してありません。

■神様が御子を人間の救いのためにお与えになった理由は一体なんでしょうか。

その理由は、神様がこの世を愛されたため、また御子を信じる者が恵みにより永遠の命を受けて滅びることがないようにするため、です。聖書では次のように言われています。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネ3章16節)

■神様はどうして御子イエス・キリストを信じないと救われないようにされたのでしょう。

それは、神様が御自身の愛する一人子を信じて受け入れる者だけに、救いを与えることを望まれたからです。せっかく神様が御自身の愛し子イエス・キリストを人間のためにお遣わし下さったのです。それにもかかわらず御子を信じないのですから、救われずに滅んでいくことになる、というのは何もおかしいことではありません。

■イエス様の救いや信仰のことについて聞きたいことがあるのですが。

何か分からないことがありましたら、お気軽にご連絡ください。