【Ⅰ列王記6:23~35】(2023/09/10)


【6:23】
『内堂の中に二つのオリーブ材のケルビムを作った。』
 至聖所の中には『ケルビム』の像も作られました。このケルビム像は、最高の技術を持つ芸術家か職人が、最高の素材を使い、作り上げたことでしょう。誰がこのことを疑うでしょうか。このケルビムが置かれるのは、神のおられる至聖所だったのですから。この時代のイスラエルには、最高のケルビム像を作る力量を持つ人物が、必ずいたはずです。神の必要がある場所には、神の定められた人物もいるものなのです。この『ケルビム』とは、「ケルブ」という御使いの複数形の呼び方です。至聖所には『二つの』ケルブが作られましたから、ここでは複数形で『ケルビム』と言われているのです。このケルビムは、守護と警戒の役目を持つ御使いです。アダムとエバがエデンの園から追放された時も、ケルビムが園の前に番人として見張っていました(創世記3:24)。至聖所にこのケルビム像が置かれたのも、やはり実際のケルビムがそこを守護し警戒していることを示すためだったでしょう。初学者は、このケルビムをセラフィムという御使いと混同しないようにすべきです。

 このケルビムは『オリーブ材』により作られました。どうして『オリーブ材』だったのでしょうか。これはオリーブが神の子らを象徴していたからでしょう。ダビデは自分を『オリーブの木』に例えています(詩篇52:8)。ヨブ記1:6と2:1の箇所から分かる通り、御使いたちも『神の子ら』です。

『その高さは十キュビトであった。』
 ケルビムの高さは『十キュビト』すなわち4.4mでした。至聖所の高さが『二十キュビト』(Ⅰ列王記6:20)でしたから、ケルビムの高さはその半分です。このケルビムは見る者を圧倒させたに違いありません。このケルビム像は、実際のケルビムの大きさと一致していたのでしょうか。一致していた可能性もあります。4.4mとはかなりの高さですが、私たち人間の基準をケルビムにまで及ぼすべきではないでしょう。何故なら、私たちは堕落しているのに対し、ケルビムは堕落していないからです。ケルビムが堕落していないのであれば、4.4mの高さがあったとしても不思議なことはありません。しかし、実際のケルビムが像のケルビムより大きかった可能性もあります。逆に像よりも小さかった可能性もあります。いずれにせよ、私たちに実際のケルビムがどのぐらいの大きさだったかは分かりません。聖書は実際のケルビムの大きさを示していないからです。

【6:24】
『そのケルブの一方の翼は五キュビト、もう一方の翼も五キュビト。一方の翼の端からもう一方の翼の端まで十キュビトであった。』
 ケルビムは御使いですから、2つの翼を身体の一部として持っていました。ですから、この像にもやはり2つの翼が付けられていました。恐らく翼はケルビムの背中に付いていたでしょう。背中でない場所に付いていたと考えるのは不自然だからです。2つのケルビムの一方の『ケルブ』の翼は、それぞれ『五キュビト』2.2mでした。両側の翼を合わせると『十キュビト』すなわち4.4mとなります。これは両手や両足と似ていると言えます。両手と両足も、それぞれ片方ずつ5本であり、両方を合計すると10本となります。ケルビムの高さもそうですが、ケルビムの翼が合わせて『十キュビト』だったのは、「10」ですから、ケルビムの完全性が示されているのでしょう。確かにケルビムは堕落しておらず罪も犯しませんから、神の御前でいつも完全な状態です。なお、ケルビムの翼が2つだったのに対し、セラフィムという御使いの翼は6つあったという違いに気を付けるべきです。

【6:25~26】
『他のケルブも十キュビトあり、両方のケルビムは全く同じ寸法、同じ形であった。一方のケルブは高さ十キュビト、他方のケルブも同じであった。』
 至聖所に置かれたケルブは2人でした。1人だけでなく2人以上でもありませんでした。これは至聖所における見張り役また守護者として2人いれば十分だったからなのでしょう。また2人であるというのは明らかに御心でした。伝道者の書で言われている通り、2人であれば多くの良いことがあるからです。この2人のケルビムは、見た目が全く同じでした。もちろん、ミクロ的に見れば、僅かな違いがあったことでしょう。ミクロ的に言えば、工場で製造される同一の製品でさえ、それぞれ微妙な違いがあるほどです。しかし、ミクロ的な厳密さを求めるならば、一般的な話し方や考え方をすることが難しくなります。ですから、ここではミクロ的な厳密さにおいて同一であったと言われていると考える必要がありません。恐らくソロモンがこの2人のケルビムを『全く同じ寸法、同じ形』に作るよう命じたのでしょう。実際にこうだった可能性は高いのです。もしソロモンが命じたのでなければ、祭司か預言者が作る者に指示を出したのでしょう。

【6:27】
『そのケルビムは奥の神殿の中に置かれた。』
 ケルビムが置かれた場所は『奥の神殿の中』すなわち至聖所だけでした。聖所にも庭にもケルビムは置かれませんでした。このことから至聖所は特別な場所であることがよく分かります。至聖所はこのケルビムにより大祭司でなければ、しかも大祭司であっても年に1度だけでなければ、入らないようにされていたのです。ちょうどケルビムによりアダムがエデンの園に入れなくされていたのと同じです。しかし、ユダヤが不敬虔のため罰せられた際は、ユダヤ人に対する罰として異邦人が至聖所へ侵入したこともありました。歴史が示す通り、至聖所に侵入した異邦人は、そこに神の像が何も見られなかったのでとても驚いたようです。また至聖所の中を見た異邦人は、そこが金張りでありそこには莫大な金塊が積まれていたものの、非常な畏怖を感じて何も取らずに立ち去ったとのことです。この出来事から、至聖所の中は非常に厳かで神聖な雰囲気だったことが分かります。

『ケルビムの翼は広がって、一つのケルブの翼は一方の壁に届き、もう一つのケルブの翼はもう一方の壁に届き、また彼らの翼は神殿の真中に届いて翼と翼が触れ合っていた。』
 2人のケルビムの翼は、閉じておらず、広げられていました。その広がった翼は、至聖所の両側すなわち東の端と西の端に届いていました。つまり、至聖所の全体がケルビムの翼で覆われていました。これは至聖所が保護されていたことを示しています。何故なら、聖書において翼は保護の象徴だからです。確かに至聖所は、イスラエルが堕落して罰されない限りにおいて、しっかり守られていました。また2人のケルビムの翼は『神殿の真中に届いて翼と翼が触れ合ってい』ました。翼は至聖所の中央部分をも覆っていました。これもやはり至聖所の全体が保護されていたことを示します。このようにケルビムが翼を至聖所に広げていたのは、圧倒的な眺めだったことでしょう。それは見る者に畏怖を起こさせたはずです。もっとも、イスラエル人のほとんど全ては、この至聖所に入る機会が無かったのですが。今のようにカメラでもあれば至聖所の内部を記録できたでしょうが、この時代にはまだ眼鏡すらありませんでした。紙に描いて記録するというのであれば可能だったでしょうが、そのようなことが許されていたかどうか、また実際にそのようにされたのかどうか、定かではありません。

【6:28】
『彼はこのケルビムに金をかぶせた。』
 このケルビムにも『金』がかぶせられました。ケルビムが作られた素材は『オリーブ材』(Ⅰ列王記6章23節)だったものの、その見た目は全く金でしかありませんでした。ケルビムに使われたこの金も、当然ながら『純金』だったでしょう。4.4mもあるケルビムに金が満遍なく覆われたのですから、このケルビム像は凄い見た目だったに違いありません。

【6:29】
『神殿の周囲の壁には、すべて、奥の間も外の間も、ケルビムの彫刻、なつめやしの木と花模様の彫り物を彫った。』
 宮の壁はどこも柄が刻まれていました。つまり、宮の壁は単純な外観ではありませんでした。ちょうど人間の顔がのっぺらぼうのようにはされなかったのと同じです。この壁に刻まれた柄も、最高の芸術家か一級の職人が刻んだのでしょう。誰がこのことを疑うでしょうか。壁に刻まれた柄は3種類ありました。これは「3」ですから、壁の存在を強調していると思われます。まず一つ目は『ケルビムの彫刻』でした。宮の壁がどこもケルビムの彫刻で彫られていたというのは、宮が全く守られていたということです。実際、宮は全く保護されていました。それは神がそこにおられる宮だったからです。二つ目は『なつめやしの木』です。なつめやしは聖書において力強さの象徴です。つまり、この柄は宮が堅固だったことを示します。なつめやしの木が大嵐の中でもしぶとく耐え忍ぶように、宮も堅固であり続けたのです。三つ目は『花模様』でした。聖書において花は儚さの象徴です。しかし、宮の彫刻における花が、そのような意味を示していたと考えるべきではないでしょう。これは単に宮の美しさを際立たせるためだったはずです。

【6:30】
『神殿の床には、奥の間も外の間も、金をかぶせた。』
 宮の床はどこも金張りとされましたが、これも純金だったでしょう。宮はどこもかしこも金ばかりだったのです。宮を見る者、特に内部を見る者は目も眩まんばかりとなったかもしれません。このような金張りは栄光の神にとって相応しいものでした。

【6:31~32】
『彼は内堂の入口を、オリーブ材のとびらと五角形の戸口の柱で作った。二つのオリーブ材のとびらである。彼はその上に、ケルビムの彫刻と、なつめやしの木と花模様を彫り、金をかぶせた。ケルビムと、なつめやしの木の上に金を延ばしつけたのである。』
 至聖所と聖所は『とびら』の『入口』により区切られていました。聖所で仕えている祭司たちは、いつも至聖所に至る扉をその目で見ていたはずです。その扉は奥のほうにありました。しかし、その扉の中に祭司たちが入ることはありませんでした。もちろん、祭司たちはその向こうに主がおられるのをよく知っていました。しかし、その中を見ることはできなかったのです。これは心臓や脳があるのを知っているものの、実際にそれを見ることがないのと似ているかもしれません。この入口の扉は左右に2つあり、中央部分で前後に押したり引いたりするタイプでした。左の扉の基軸は左の端にあり、右の扉の基軸は右の端にありました。つまり、これは左右にひきずって動かすタイプの扉ではありませんでした。前後に動かすタイプが主の御心だったのです。しかし、この扉が奥のほうに押し出すタイプか内側に引くタイプだったかまでは分かりません。どちらの動きもできた可能性もあります。この扉は、右も左も『オリーブ材』で作られました。オリーブ材で扉が作られた意味は何だったのでしょうか。これはその扉が聖徒の通る聖徒に関わりのある物だったからなのでしょう。またこの扉を動かす基軸となる『戸口の柱』は『五角形』でした。この柱が『五角形』だったのは単に構造的な必要性からだったはずです。何故なら、聖書において「5」は象徴的な意味を持っていないからです。ソロモンはこの2つの扉にも、先に見た『神殿の周囲の壁』(Ⅰ列王記6:29)と同様、『ケルビムの彫刻と、なつめやしの木と花模様』を彫らせました。この扉も単純な印象とはされなかったのです。寧ろ、扉は芸術的で特徴ある印象とされました。そして、この扉にもやはり『金』が覆われました。金が覆われても、そこに刻まれている柄が見にくくなることはなかったでしょう。何故なら、柄は深く彫られていたでしょうし、金も柄を台無しにするほど濃く覆われたのではなかっただろうからです。

【6:33~35】
『同じように、本堂の入口にも四角形のオリーブ材の戸口の柱を作った。もみの木の二つのとびらである。一方のとびらの二枚の戸は折りたたみ戸、片方のとびらの二枚の戸も折りたたみ戸であった。彼はケルビムと、なつめやしの木と花模様を彫りつけ、その彫り物の上に、ぴったりと金を張りつけた。』
 『本堂』すなわち聖所にも、入口となる扉が作られました。部屋や建物には何でも入口があるものです。その入口は扉で区切られるのが常であり、宮もそのようでした。しかし、聖所の扉は、至聖所の扉と異なっていました。まず聖所の扉は至聖所の扉と違い、『もみの木』で作られました。どうして聖所の扉は『もみの木』だったのでしょうか。至聖所に使われた『オリーブ材』(Ⅰ列王記6章31節)よりも、『もみの木』のほうが下の位置付けだったはずです。これは聖所の扉が、ユダヤ人だけでなく異邦人も見る物だったからなのでしょう。至聖所の扉であれば、聖所の中で仕えている祭司たち、すなわち聖徒しか見ることがありません。ですから、至聖所に至る扉は、聖徒を象徴する『オリーブ材』で作られたのでしょう。聖所の扉も至聖所に至る扉と同じで、中央を境として左右に分かれた扉でした。しかし聖所の扉のほうは、至聖所の扉と異なり『折りたたみ戸』でした。つまり、聖所の扉は全部で4つの部分から成り立っていました。すなわち、片方の扉は2つの部分から作られており、その扉が右と左に2つあったので、合計4つとなります。この聖所における『折りたたみ戸』は、奥のほうに押し出すタイプだったはずです。普通に考えてそのようであるのが自然だからです。先に見た至聖所の扉を動かす柱は『五角形』(Ⅰ列王記6章31節)でしたが、聖所の扉を動かす柱は『四角形』でした。これが四角形だったのは単に構造的な必要のためだったと思われます。聖所の扉そのものは『もみの木』で作られたものの、その扉を動かす柱は『オリーブ材』で作られていました。また、この聖所の扉にもやはり『ケルビムと、なつめやしの木と花模様』が刻まれ、その上に『金』が覆われました。このことから、宮はどこも統一的な印象を持っていたことが分かります。このような秩序正しい外観は、神の宮にとって相応しいことでした。