【Ⅰ列王記6:36~7:9】(2023/09/17)


【6:36】
『それから、彼は、切り石三段、杉角材一段の仕切りで内庭を造った。』
 宮には『内庭』も作られました。この内庭には、異邦人も入ることができました。そこには犠牲のための祭壇があります。ユダヤ人はそこに犠牲の動物を連れて来て、祭司に生贄を捧げてもらうのです。歴史によれば、異邦人の王たちも犠牲の動物を連れて来て、ここで生贄を捧げてもらったようです。宮では、異邦人も主に祈りを捧げることが許されていました(Ⅰ列王記8:41~43)。祈りが許されていたのであれば、犠牲も許されていたはずです。一般の人々が入れるのは、この庭までとなります。内庭を越えた玄関広間より先の聖所には、祭司しか入ることができませんでした。宮にやって来た異邦人の王や偉い人たちが聖所の中を見たいとよく願ったようですが、この庭を越えることはできず、決して許可されることはなかったようです。この庭は『切り石三段、杉角材一段の仕切り』で区切られていました。庭は周囲の場所よりも少し高くなっていたのです。ですから、庭に入るためには、仕切りとなっていた段差を上がる必要がありました。しかし、上がると言っても、それは僅かな段差だったはずです。正確な段差の高さは全く分からないのですが。この『内庭』は宮の延長線上であって、宮そのものではないものの宮の一部です。ですから、『内庭』は普通の場所と本質的に異なります。このため、庭は周囲の場所から区別されるようにして高くされたわけです。当然ながら内庭を区切るこの段差も、最高の素材により作られたことでしょう。制作人たちも最高の芸術家または職人だったはずです。

【6:37】
『第四年目のジブの月に、主の神殿の礎を据え、』
 先に見た通り、宮の工事はソロモンが王になって『第四年目』から始まりました。これは3年が経過してから工事を始めたということです。つまり、ソロモンは王として十分に認知される期間が過ぎてから工事を始めたのです。何故なら、聖書において「3」とは十分さを示す数字であり、1年が3回続くと「3」年なのだからです。1年か2年であればまだ十分な期間ではありませんでした。その工事はまず『礎を据え』ることから行なわれました。これは礎の上に宮が築き上げられるからです。今の日本でも、家の工事は、まず土台部分から作られているのを見かけます。この基礎部分がなければ建物はどうにもならないのです。

【6:38】
『第十一年目のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が、その明細どおりに完成した。これを建てるのに七年かかった。』
 宮は工事が始まってから『七年』目に完成されました。これはそれが主の聖なる宮だったからです。聖書において「7」は神聖さを示す数字です。もしこれが「10年」だったとすれば、完璧性が強く示されていました。聖書において「10」は完璧であることを示すからです。宮の完成に7年かかったというのは、つまり工事がしっかり行なわれたということです。完全な宮を建てるのですから、このぐらいの年数を要しました。また宮は『明細どおりに』作られました。つまり、宮は作られる前からもう既にどういった建物になるか全く決められていました。

【7:1】
『ソロモンは自分の宮殿を建て、十三年かかって宮殿全部を完成した。』
 ソロモンは、主の宮以外に『自分の宮殿』をも作りました。どちらも「宮」と呼ばれますが、ソロモンのほうは王宮であり、宗教的な建物ではありません。ソロモンは王でしたから、自分の王宮を建てるのは自然なことです。ソロモン王宮は完成まで『十三年かか』りましたが、これは神殿のほぼ2倍の期間です。どうして王宮のほうが神殿よりも完成まで長くかかったのでしょうか。聖書はこの理由について何も示していません。このことをある人は批判的に見ています。ソロモンは主の宮よりも自分の王宮を重視したと見做すのです。しかし、どういった理由から王宮のほうが長い建設期間となったのか詳しくは分かりません。この「13」という建設期間の数字には何も象徴的な意味がありません。今の時代で「13」は一般に不吉な数字と見做されることがあり、今のユダヤ教で「13」は聖なる数字のようです。しかし、聖書からこの数字に何か象徴性を見出すことはできません。聖書で象徴性が与えられているのはその前後の数字、すなわち「12」と「14」です。

【7:2】
『彼はレバノンの森の宮殿を建てた。』
 ソロモンは『レバノンの森の宮殿』をも建てました。これは先に見たソロモン王宮とは異なった宮殿です。ソロモンの王宮は主の宮のすぐ左側にありました。レバノン宮殿は、このソロモンの王宮の左側にあり、主の宮とは隣り合っていませんでした。ソロモン王宮とレバノン宮殿の間には、2つの広間(王座の広間/柱の広間)がありました。ですから、レバノン宮殿はソロモン王宮から2つ左に離れた場所にあり、主の宮からは3つ左に離れた場所にありました。

『その長さは百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトで、』
 レバノン宮殿の『長さは百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビト』であり、これはつまり長さ44m、幅22m、高さ13.2mです。これはかなり大きい建物だったことが分かります。今の日本で分かり易く例えるならば、学校の体育館がこれに近いでしょうか。このレバノン宮殿は主の宮よりも大きく作られていました。

『それは四列の杉材の柱の上にあり、その柱の上には杉材の梁があった。』
 レバノン宮殿は『四列の杉材の柱の上にあり』、つまり宮殿は高くなっていました。これが『四列』だったのは、単に構造上の要請からでしょう。この『杉材』もやはりレバノン産だったはずです。

【7:3】
『また四十五本の柱―一列に十五本ずつ―の上の階段式脇間の屋根は杉材でふかれていた。』
 レバノン宮殿は『階段式脇間の屋根』の下に『四十五本の柱』があり、それは『一列に十五本ずつ』すなわち3列になっていました。これが「45」本だったのも、やはり構造上の必要性からだったはずです。聖書で「45」は何も象徴的な意味がありません。この柱も『杉材』であり、それはオリーブ材ではありませんでした。この柱における産地もやはりレバノンだったのでしょう。

【7:4~5】
『戸口は三列、三階になって、向かい合っていた。戸口のとびらと戸口の柱とはすべて四辺形で、三階になって向かい合っていた。』
 レバノン宮殿にあった『戸口は三列』でしたが、これは先に見た15本ずつ並んでいる3列の柱と関連しているのでしょう(Ⅰ列王記7:3)。その戸口は『三階になって』いました。つまり、戸口は三列が三階まであったので、合計9あったことになります。『戸口のとびらと戸口の柱とはすべて四辺形』でしたが、これが『四辺形』だったのは構造上の要請からだったのでしょう。

【7:6】
『彼はまた、柱の広間を造った。その長さは五十キュビト、その幅は三十キュビトであった。その前に玄関があり、その前に柱とひさしとがあった。』
 ソロモンが造った『柱の広間』は、レバノン宮殿の右側、王座の広間のすぐ左隣にありました。この『柱の広間』はレバノン宮殿とはまた異なった建造物です。この広間の『長さは五十キュビト、その幅は三十キュビト』でしたが、つまり長さ22m、幅13.2mでした。高さについてはここで書かれていません。この広間の前には『玄関があり』、そこから入るようになっていました。この玄関の向いていた方向は、主の宮と同じ東側だったと思われます。つまり、東から入り西に進むわけです。

【7:7】
『彼はまた、さばきをするための王座の広間、さばきの広間を造り、床の隅々から天井まで杉材を張りつめた。』
 ソロモンは『さばきの広間』すなわち『王座の広間』をも造りました。この広間は先に見た柱の広間のすぐ右に隣接しており、左にはソロモン王宮が建っていました。この王座の広間は、主の神殿およびレバノン宮殿とは隣り合っていません。またこの広間は隣にある柱の広間より大きなサイズでした。この広間はその名が示す通り、『さばきをするための』『広間』でした。私たちは先の箇所で、ソロモンが裁きをしている出来事を見ました。もう述べたことですが、古代において王は裁判官でした。ですから、ソロモンはここを裁判所として裁いていたのです。先に見た2人の遊女に対する裁判が行なわれた際は、まだこの『さばきの広間』が造られていませんでした。あの裁判は別の場所で行なわれたのです。ソロモンはこの広間で裁判をしていましたが、この広間にはそれまで処理できなかった難しい事案だけが持ち運ばれたはずです。下位の裁き司が取り扱えなかった事案は徐々に上位の裁き司へと持ち運ばれる。このような裁判方式がイスラエルのやり方でした。今の日本でも同じ方式が採用されています。もしあらゆる事案がソロモンのもとに持ち運ばれていたとすれば、ソロモンは悲惨な状態になっていたでしょう。この広間にソロモンは『床の隅々から天井まで杉材を張りつめ』ました。この広間で使われた『杉材』もやはりレバノンから調達されていたのでしょう。

【7:8】
『彼の住む家は、その広間のうしろの庭にあり、同じ造作であった。』
 ソロモンの『住む家』は、先に見た『王座の広間』『のうしろの庭にあり』、それは『王座の広間』と『同じ造作』でした。つまり、そこはソロモンが職務と生活をスムーズに切り替えられるような作りでした。それというのも王とは、その職務と生活が一体化している存在だからです。大統領や首相も、やはりその通りです。国家の支配者は、その職務が生活そのものとなっており、生活は全く職務の流れに呑み込まれ職務と一体化してしまいます。それゆえ、このように家と職務の場所が隣り合っているのは、合理的で多くの益となります。

『また、ソロモンは、彼がめとったパロの娘のためにも、この広間と同じような家を建てた。』
 先に見たように、ソロモンは『パロの娘』を妻として娶りましたが、ソロモンはこの妻のためにも自分の家と同じような家を作り与えました。ソロモンが自分の家と同じような家を与えたのは、パロの娘を妻として尊んでいた証拠なのでしょう。しかし、どうしてソロモンは妻のために別の家を建てたのでしょうか。Ⅱ歴代誌8:11の箇所によれば、それはパロの妻が聖なる箱を迎え入れたダビデの家に住むべきでなかったからです。異邦人であるエジプト女が、聖なる住まいに住むというのは許されません。ソロモンはこのことをよく弁えていました。ですから、ソロモンは自分の住まいを妻の住まいと別にしたのです。ソロモンがこのように判断し行なったのは正しいことでした。もっとも、そもそもソロモンは異邦人であるエジプト女を妻として娶るべきではありませんでした。ソロモンは神の民でしたから、同じ神の民である女を妻にすべきだったのです。たとえ相手がパロの娘という高貴な女であったにしても、ソロモンがそのような女を娶ったのは御心に適いませんでした。しかし、ソロモンは妻がパロの娘である以上、このように配慮せざるを得なかったのでしょう。その妻は大国エジプトを支配するパロの娘なのです。そのような妻を軽んじるならば、色々な意味で「まずい」ことになるのです。

【7:9】
『これらはすべて、内側も外側も、寸法どおりにのこぎりで切りそろえた切り石、高価な石で造られていた。礎から頂上に至るまで、さらに外庭から大庭に至るまでそうであった。』
 ここまでに示された建造物は、どれも『寸法どおりにのこぎりで切りそろえた切り石』により造られていました。神と王に関わる建造物は、完全な精確性が求められるからです。それらの石は卓越した職人が熟練と集中の業により加工していたに違いありません。またそれらはどれも『高価な石』でした。神の宮と王に関わる建造物ですから、最高級の石を使う必要がありました。もし高価でない石を使うならば、それはそれらの建造物に相応しくありませんでした。石が精密に切り揃えられ高価であったのは、『礎から頂上に至るまで、さらに外庭から大庭に至るまでそうで』した。つまり、それらの建造物は全てが全てにおいて徹底されていました。これはそれらが非常に重要な建造物だったからです。