【Ⅰ列王記7:10~33】(2023/09/24)


【7:10~11】
『礎は高価な石、大きな石で、十キュビトも八キュビトもあった。その上には寸法どおりの切り石、高価な石と杉材が使われていた。』
 ここまでに示された建造物の『礎は高価な石』で作られましたが、その礎が実際にどれぐらいの価値だったかまでは分かりません。その石は『十キュビトも八キュビトも』ある『大きな石』でした。ここでは単に大きさを示すため、一例として10キュビトと8キュビトが書かれているだけであり、石がどれもこの大きさしかなかったというのではありません。9キュビトの石もあったでしょうし、11キュビトまた7キュビトもあったかもしれません。このような石は工事現場まで持ち運ぶのにかなりの労苦がかかったと思われます。ソロモンの時代には、まだ今のような機械が何も無かったからです。この『礎』の『上には寸法どおりの切り石、高価な石と杉材が使われてい』ました。石が精確で高価だったのは、神と王とに相応しいことでした。『杉材』もやはり巧みに加工された最高級の素材だったはずです。また、それはどれもレバノン産だったと思われます。全てがレバノン産でなかったとしても、その多くはレバノン産だったでしょう。

【7:12】
『大庭の周囲には、三段の切り石と一段の杉角材とが使われ、主の宮の内庭や、神殿の玄関広間と同じであった。』
 宮の『大庭』は『三段の切り石と一段の杉角材』で仕切られていました。これらもやはり巧みに切り揃えられた高価な石材と杉材だったでしょう。また、それらは卓越した職人により加工されていたでしょう。『主の宮の内庭や神殿の玄関広間』も、このような作りでした。このような段差により、そこは周囲の場所としっかり区別されていました。このような区別は重要でした。何故なら、そうすることによりはっきりした把握が生じるからです。そうしなければ区別が曖昧となり、カオスな状態となり、困ることにもなります。主の宮にそういった状態が生じるべきではありませんでした。何故なら、聖なる場所にそのような状態は相応しくないからです。

【7:13~14】
『ソロモン王は人をやって、ツロからヒラムを呼んで来た。彼はナフタリ族のやもめの子であった。彼の父はツロの人で、青銅の細工師であった。それでヒラムは青銅の細工物全般に関する知恵と、英知と、知識とに満ちていた。彼はソロモン王のもとにやって来て、そのいっさいの細工を行なった。』
 ソロモンは工事の際、『ツロからヒラムを呼んで来』ました。これを先に見たツロの王ヒラムと混同しないようにすべきです。先に見たヒラムはツロの王でしたが、こちらのほうは一般人のヒラムであり、両者は別々の人間です。このヒラムは『ナフタリ族のやもめの子』でしたから、母はナフタリ族でした。父のほうは『ツロの人』でしたから、恐らくアシェル族だったと考えられます。イスラエル人は同じ部族同士で結婚すべきだったのですが。ヒラムの母は何らかの理由により『やもめ』となっていました。このヒラムの父は『青銅の細工師』でした。ヒラムも父と同じ青銅を取り扱う細工師となりました。ヒラムは父が神から受けていた青銅細工に関する賜物を受け継ぎました。ですから、『ヒラムは青銅の細工物全般に関する知恵と、英知と、知識とに満ちてい』ました。『知恵』とは青銅の分野に関する高い知性のことであり、『英知』とは実行力の伴った実益を生じさせる知恵のことであり、『知識』とは青銅に関する情報の総体のことです。このヒラムは青銅の細工師として優れており名高かったのかもしれません。ですから、ソロモンは青銅に関する仕事を行なわせるため、このヒラムをツロから呼び寄せたのです。このため、ヒラム『はソロモン王のもとにやって来て、そのいっさいの細工を行なった』のでした。この場合もそうでしたが、ソロモンのような知恵ある者は、どこに誰をどのようにして呼び寄せて使えばいいのか完全に弁えられるものなのです。

【7:15~22】
『彼は青銅で二本の柱を鋳造した。その一本の柱の高さは十八キュビト。周囲は他の柱といっしょに、ひもで測って十二キュビトであった。彼は青銅で鋳造した二つの柱頭を作り、柱の頂に載せた。一つの柱頭の高さは五キュビト、もう一つの柱頭の高さも五キュビトであった。柱の頂の柱頭に取りつけて、鎖で編んだ、ふさになった格子細工の網を、一方の柱頭に七つ、他の柱頭に七つ作った。こうして彼は柱を作り、柱の頂にある柱頭をおおうために、青銅のざくろが格子網の上を二段に取り巻くようにし、他の柱頭にも同じようにした。この玄関広間にある柱の頂の上の柱頭は、ゆりの花の細工であって、それは四キュビトであった。二本の柱の上にある柱頭の格子網のあたりで丸い突出部の回りには、二百個のざくろが、両方の柱頭に段をなして並んでいた。この柱を本堂の玄関広間の前に立てた。彼は右側に立てた柱にヤキンという名をつけ、左側に立てた柱にボアズという名をつけた。この柱の頂の上には、ゆりの花の細工があり、このようにして、柱の造作を完成した。』
 ソロモンは、青銅細工師ヒラムに『二本の柱』を鋳造させました。その2本の柱は『本堂の玄関広間の前に』右と左に設置されました。すなわち、一つの柱は宮の右に、もう一つの柱は宮の左に立てられました。この2本の柱には『ヤキン』『ボアズ』という名が付けられました。右の柱がヤキンであり、左の柱がボアズです。『ヤキン』とは「彼は設立する」という意味であり、『ボアズ』とは「力をもって」という意味です。『ヤキン』と付けられたのはソロモンがその宮を建てたからです。『ボアズ』と付けられたのは、そこが力強く全力で建てられたことを示しています。この2本の柱に恐らく優劣の差は無かったと思われます。これらの柱はどちらも『青銅』で作られました。すなわち、石や木材により作られたのではありません。これはこのような柱であれば青銅で作るのが自然だったからなのでしょう。この柱はそれぞれ『十八キュビト』すなわち7.92mでした。これはかなりの高さです。この2本の柱の『周囲』にも『他の柱』があり、そちらの柱は『十二キュビト』すなわち5.28mでした。幾つもあった柱のうち、このヤキンとボアズだけ特別に抜き出ていたことが分かります。この柱の頂点には『青銅で鋳造した二つの柱頭』が載せられました。その柱頭の『高さは五キュビト』すなわち2.2mです。また、その柱頭には『ふさになった格子細工の網』が『七つ』取り付けられました。これは装飾のためだったはずです。そして、その柱頭の上には『二段に取り巻く』『青銅のざくろ』が覆われました。雅歌の巻から分かる通り、『ざくろ』が覆われたのは柱の美しさを際立たせるためだったのでしょう。その『ざくろ』は『二百個』もありました。この「200」という数字に象徴的な意味はないはずです。この柱頭は『ゆりの花の細工』でした。細工が『ゆりの花』だったのは、その美しさを示すためです。このような装飾があった柱は、宮の芸術性を高めていたことでしょう。神の宮は外観的に素晴らしくあるべきだったのです。というのも、神とは栄光に満ちた御方だからです。

【7:23~26】
『それから、鋳物の海を作った。縁から縁まで十キュビト。円形で、その高さは五キュビト。その周囲は測りなわで巻いて三十キュビトであった。その縁の下に沿って、ひょうたん模様が回りを取り巻いていた。すなわち、一キュビトにつき十ずつの割りでその海の周囲を取り巻いていた。このひょうたん模様は二段になっており、海を鋳たときに鋳込んだものである。これは十二頭の牛の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いていた。この海は、これらの牛の上に載せられており、牛の後部はすべて内側に向いていた。その海の厚さは一手幅あり、その縁は、杯の縁のようにゆりの花の形をしていた。その容量は二千バテであった。』
 ソロモンは、青銅細工師ヒラムに『鋳物の海』も作らせました。この海は宮の左手前に設置されました。この海のすぐ右上には、先に見たボアズの柱が立っています。この『鋳物の海』は水を入れる大きな容器であり、その水は清めのために使われます。律法では汚れの清めについて定められています。ですから、ユダヤの各地には清めるための水が用意されていました。オリーブ山にもそのような水のある場所がありました。そのような場所のうち、この『鋳物の海』が最も多くの水を入れてある場所だったはずです。それというのも、宮の場所には、ユダヤ全土から犠牲を捧げるためユダヤ人がやって来るのだからです。つまり、宮には汚れた人々が多くやって来ます。ですから、そこには大量の水を入れる容器が必要だったのです。この容器の『容量は二千バテ』でした。1バテは23リットルですから、これは46トンです。物凄い量だったことが分かります。この海と呼ばれる容器は『円形』に作られていました。つまり、角ばったところがありませんでした。これは水の出し入れをし易くするためだったと思われます。どこかに角があれば、出すにしろ入れるにしろ、作業がしにくくなるからです。海は『縁から縁まで十キュビト』すなわち4.4mでした。これは容器の直径です。容器の『周囲は測りなわで巻いて三十キュビト』すなわち13.2mでした。『その高さは5キュビト』すなわち2.2mです。これは全てのユダヤ人の身長よりも高かったでしょうが、このような高さだったのですから、水を出し入れするためには上がらなければならなかったはずです。これは何か不純物がそこに入りにくくするため、すなわちそこにある水が綺麗に保たれるためだったと考えられます。高さがあれば、それだけ不要物は入りにくくなります。その容器の表面には『ひょうたん模様が回りを取り巻いて』いました。その模様は『一キュビトにつき十ずつの割り』でした。表面は『三十キュビト』だったのですから、この容器の表面には『ひょうたん模様』が全部で300個あったことになります。この模様は『二段になって』いましたが、これは装飾としてその容器を目立たせるためだったのでしょう。この模様は『海を鋳たときに鋳込んだもの』でした。つまり、この容器が宮に持ち運ばれた時は、もう既に模様が刻まれていた状態でした。このような模様が海に刻まれたのは、芸術性のため、また容器が単調にならないためだったと思われます。ちょうど人間の顔が単調でないように作られたのと一緒です。また、この容器は『十二頭の牛の上に据えられてい』ました。聖書で「12」は選びを意味していますから、これはつまり選ばれている御民を清めるために入れられた水だということなのでしょう。確かに神がキリストにおいて選んでおられないのであれば、人に清めが与えられることはないのです。海の下に牛の像が置かれたのは、牛が清い家畜であり、重い容器を支える家畜として相応しかったからなのでしょう。その牛の『三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いていた』のは、ユダヤ全土にいるユダヤ人が清めを受けるのだからです。事実、ユダヤ人はこの宮に東西南北の場所からやって来たのです。これらの『牛の後部はすべて内側に向いていた』のですが、これは牛の後部を覆い隠すためだったはずです。聖なる宮の場所で、牛の後部が露出されるというのは相応しくないのです。この容器の縁の『厚さは一手幅』ありました。これほどに縁が厚かったのは、容器の外観のため、また容器が水の圧力で壊れないためだったはずです。もし厚くなければ、多くの水で容器が壊れたかもしれませんし、見た目にもみすぼらしくなっていたかもしれません。その縁は『ゆりの花の形』をしていました。これもやはり外観の美しさのためだったでしょう。神の宮がある場所には芸術性こそ相応しいのだからです。

【7:27】
『彼は青銅で十個の台を作った。おのおのの台は長さ四キュビト、幅四キュビト、高さ三キュビトであった。』
 ソロモンは、この細工師ヒラムに『台』も作らせました。この通り、ヒラムはもちろん協力者や助手などもいたかもしれませんが、ただ一人で多くの仕事を成し遂げていました。ニュートンなどもそうですが、神はある特定の一人に巨大な能力をしばしばお与えになります。ですから、ヒラムのような人は、一人だけでも百万人分の仕事を成し遂げることができるのです。このヒラムが作った『台』は、全部で『十個』でした。これは「10」ですから、その数が十分に豊かだったことを示しています。10個も台があれば全ての必要に応じたのでしょう。また、この台は『長さ』も『幅』も『四キュビト』すなわち1.76mでした。台は正方形でした。これはかなりの大きさであり、多くの物を置くことができたでしょう。『高さ』は『三キュビト』すなわち1.32mでした。人によっても違いますが、これはだいたい胃や臍ぐらいの高さでしょう。これであれば作業をし易い高さだったことでしょう。2mもあれば何かを置くのは難しかったでしょうし、40cmぐらいでも低すぎて置きにくかったはずです。この台は『青銅』で作られましたが、その青銅は最高級だったことでしょう。木材や石で作られたのではありませんでした。これはこのような台であれば青銅を使うのが自然だったからであると思われます。

【7:28~30】
『この台の構造は次のとおり。台には鏡板があり、鏡板はわくにはまっていた。わくにはめられている鏡板の上には、雄獅子と牛とケルビムとがあり、雄獅子と牛の上と下にあるわくの表面には花模様が鋳込んであった。それぞれ台には青銅の車輪四つと、青銅の軸がついており、台の四隅には洗盤のささえがあり、そのささえは洗盤の下にあって、各表面が花模様に鋳られていた。』
 ここから『台の構造』が示されています。Ⅰ列王記7:37の箇所で書かれている通り、10個の台はどれも同じように作られていました。ミクロ的に見れば僅かな差はあったでしょうが、そこまで厳密に考える必要はありません。この台についてはかなり詳しく書かれています。ですから、台だというので軽んじることはせず、私たちは多かれ少なかれこの台に心を向けるべきでしょう。もしこの台がどうでもいい物だったとすれば、聖書はここまで詳しく書いていなかっただろうからです。まず、この台には『鏡板』がありました。鏡板とは、外側が高くなっている皿のような平べったい容器のことです。「鏡」とありますが、鏡を使っているわけではありません。ソロモンの時代に鏡はかなり珍しい物だったはずです。この『鏡板はわくにはまってい』ました。つまり、動かないように固定されていたということです。この鏡板の上には『雄獅子と牛とケルビム』が見られました。『雄獅子』は力強さを、『牛』は堅固さを、『ケルビム』は保護と神性さを意味しています。また、『雄獅子と牛の上と下にあるわくの表面には花模様が鋳込んで』ありました。この『花模様』は美しさのため鋳込まれたのでしょう。このような台も芸術的となるように作られたのです。この台には『青銅の車輪四つ』が付けられていました。つまり、台は移動できるようにされていました。車輪が『四つ』だったのはバランスと見栄えのためだったと考えられます。1つだけでは倒れてしまうでしょうし、2つであれば車輪が巨大となり不格好でしょうし、3つであれば倒れ易くなっていたことでしょう。この車輪は『青銅の軸』により台と繋げられていました。この台にある洗盤は台の四隅にある『ささえ』の上にあり、その『ささえ』は『各表面が花模様に鋳られてい』ました。このような『ささえ』の部分にさえ芸術性が付与されていました。宮に関わる物はどれも決して手抜きがされていなかったのです。あらゆる部分が重視されていたのです。

【7:31~33】
『洗盤の口はささえの内側にあって、一キュビト上に出ており、その口は丸く、花模様の細工があって、一キュビト半あり、また、その口の上にも彫刻がしてあり、わくの鏡板は四角で、丸くなかった。鏡板の下には四つの車輪があり、車軸は台に取りつけられ、一つの車輪の高さは一キュビト半であった。その車輪の作りは戦車の車輪の作りと同じで、車軸も、輪縁も、幅も、こしきもみな、鋳物であった。』
 台の車輪は『戦車の車輪の作りと同じ』でした。つまり、その車輪は単なる飾りでなく、実用的な部分として作られていました。もっとも、同じ車輪と言っても、こちらのほうの車輪は戦車の車輪に比べて芸術的に作られていたことでしょう。その車輪に関わる部分は全て『鋳物』でした。鋳て作られたというのは覚えておくべきでしょう。その車輪の『高さは一キュビト半』すなわち66cmでした。これはかなり身長の高い人の約3分の1ぐらいの高さ、また小さな子どもの半分ぐらいの高さです。先に見た通り台の高さは1.32mでしたが、この車輪が台の下に隠れていたのか、隠れていなかったのか、隠れていたとすればどのぐらいの割合が隠れていたのか、などについてはよく分かりません。この台には『洗盤の口』が作られていました。その口は『ささえの内側にあって』、外側に向けては作られていませんでした。その口は『一キュビト』すなわち44cm上に出ていました。また、その『口は丸く、花模様の細工があっ』たというのは、そこにも芸術性が現われていたことを示します。その口は『一キュビト半』すなわち66cmありました。そして、『その口の上にも彫刻がしてあ』りました。このような部分も手抜きは全くされていなかったのです。この『わくの鏡板は四角で、丸くなかった』のですが、これは先に見た『鋳物の海』が『円形』だったのと異なります(Ⅰ列王記7:23)。この台の場合、鋳物の海と違い、四角くするべき物だったのです。