【Ⅰ列王記7:34~48】(2023/10/01)


【7:34~37】
『それぞれ台の四隅には四本のささえがあり、ささえと台とは一体をなしていた。台の上部には高さ半キュビトの丸い部分が取り巻いており、その台の上のささえと鏡板とは一体をなしていた。そのささえの表面と鏡板には、それぞれの場所に、ケルビムと、雄獅子と、なつめやしの木を刻み、その周囲には花模様を刻んだ。彼は、以上のように、十個の台を作った。それらは全部、同じ鋳方、同じ寸法、同じ形であった。』
 ところで、このⅠ列王記が書かれた時は、もう宮と宮に関する物が見られなくなっていたはずです。この『台』もそうです。記者は、ここで宮に関する物を「かつてあった物」として示しています。ですから、記者はここで書かれている『台』を実際に見ていなかったはずです。しかし、ここでは『台』について詳しく書き記されています。これは正確な記録を記者が参照していたからなのでしょう。その記録文書はもう今となっては残っていないのですが。さて、この『台』には台を支える『四本のささえ』がありました。その支えは台と全く一体に繋がっていました。ですから、この支えも台の一部でした。また、1.32mあるこの台のうち、上の『半キュビト』すなわち22cmは『丸い部分』となっていました。その部分と『鏡板とは一体をなして』いました。つまり、台は上のほうにも一体感があったということです。この支えの表面および台の鏡板には、『ケルビムと、雄獅子と、なつめやしの木』が刻まれ、『その周囲には花模様』が刻まれました。『ケルビム』は保護と神性さを、『雄獅子』は力強さを、『なつめやしの木』は堅固さを、『花』はその美しさを示しています。このように台も全てが有意味な部位となっていました。

【7:38】
『ついで、彼は青銅で十個の洗盤を作った。洗盤の容量はそれぞれ四十バテ、それぞれ直径四キュビトであった。洗盤は、一つの台の上に一つずつ、十個の台の上にあった。』
 ソロモンは、ヒラムに『洗盤』をも作らせました。その洗盤もやはり『青銅』で作られました。その青銅は厳選された最高級の素材だったことでしょう。このような『洗盤』を作らせるためにもヒラムは呼ばれたのです。この洗盤は移動可能とされねばなりません。このため、この洗盤を置いて移動させるための『台』が作られたわけです。この台のことは先に見た通りです。この『洗盤』は『十個』作られました。このため、それを乗せる台も10個作られたのです。この『洗盤』における「10」という数字も、やはりその十分さを示しています。つまり、意味なく洗盤が10個作られたというわけではありません。この洗盤の『容量はそれぞれ四十バテ』すなわち920リットルでした。これはかなりの容量です。またその直径は『四キュビト』すなわち176cmです。洗盤はしっかり台の上に乗る大きさとして作られていました。宮に関する物は不自然さが見られないようにすべきだからです。

【7:39】
『彼はその台の五個を神殿の右側に、五個を神殿の左側に置き、海を神殿の右側、すなわち、東南の方角に置いた。』
 作られた10個の台は、そのうち5個が宮の右側、別の5個が宮の左側に置かれました。これは利便性と外観のためだったはずです。右にも左にも5個ずつだというのが、もっとも良いバランスだからです。誰がこれを疑うでしょうか。私たち人間の指も、右手と左手に5本ずつでバランスよく造られています。10個の台は、宮の真正面に置かれませんでした。そのような配置であれば、移動の妨げとなっていたかもしれません。またそれは宮の中に置かれることもありませんでした。この台と洗盤は、宮の外にある庭で使用されるのだからです。右か左のどちらか一方に全ての台が置かれるということもありませんでした。そのような配置は不自然だからです。また右に4個で左に6個とか、右に2個で左に8個などといった配置でもありませんでした。「5:5」という配置がもっとも良いバランスだからです。先に見た『海』は、『神殿の右側、すなわち、東南の方角に置』かれました。つまり宮の正面にいる人から見れば、宮の左側に海は置かれていました。海が宮の『右側』に置かれたのは、右側が左側より優先されるべき位置だったからなのでしょう。もし海が宮の真正面の位置に置かれたとすれば、交通や作業の妨げになっていたかもしれません。海が左のほうに置かれても不自然だったはずです。ここは神の宮ですから、この台と海は秩序正しく置かれていたことでしょう。そのような光景はまるで絵画のように芸術的だったはずです。しかし、今となってはもうそのような光景を見ることができません。これから永遠に経っても、です。何故なら、ユダヤ教徒たちが虚しく思い描いている宮の再建は絶対に実現しないのだからです。これらの台と海は、どちらも水を入れる容器という点で共通しています。

【7:40】
『さらに、ヒラムは灰つぼと十能と鉢を作った。』
 ヒラムは更に『灰つぼと十能と鉢』をも作りました。ヒラムが作ったといっても、確かにヒラムが作ったものの、それはヒラム自身の力によりません。何故なら、ヒラムに青銅細工の賜物を与えたのは神だからです。もしヒラムが神から恵みを受けなければ、このような物を作ることはできなかったでしょう。全ての良い事柄は神の御恵みによるのです。これらの物が作られたのは、祭壇で焼かれた生贄の灰を処理するためでした。宮には多くの人が来ますから、祭壇では多くの灰が必然的に生じることとなりました。その灰を処理しないままにすることはできません。また処理するにしても、いい加減なやり方は決してできません。ですから、灰のためにこのような道具がしっかり作られたわけです。これらは灰を処理する道具だといっても、決して手抜きされたりはしなかったでしょう。宮に関わる物はどれも重要だからです。この『灰つぼと十能と鉢』も、やはり最高級の素材と卓越した技術により作られたはずです。

『こうして、ヒラムは主の宮のためにソロモン王が注文したすべての仕事を完成した。』
 ここまでに書かれたのが、ヒラムの作った物の数々でした。それらはヒラムが自分自身により作ったわけではありません。それは『ソロモン王が注文したすべての仕事』だったからです。これらの制作にどれぐらいの時間がかかったかは分かりません。かなりの時間がかかったと思われます。神の宮に関する物を手抜きするわけにはいきません。良い物にはしばしば多くの時間が費やされるものです。ですから、これらの物がすぐさま作られたということはなかったかもしれません。しかし、これらの制作時間が分からなかったとしても致命的な問題は生じませんから、その点で心配する必要はありません。このようにしてヒラムとその仕事は、聖書で永遠に記録されることとなりました。宮の仕事を行なうためヒラムは神から特別に選ばれていたのです。ヒラムが宮のために行なった仕事は重要な仕事でした。

【7:41~45】
『すなわち、二本の柱と、二本の柱の頂にある丸い柱頭、および、柱の頂にある丸い二つの柱頭をおおう二つの格子網、また、二つの格子網に取りつけた四百のざくろ、すなわち、柱の先端にある丸い二つの柱頭をおおうそれぞれの格子網のための二段のざくろ。また、十個の台と、その台の上の十個の洗盤、一つの海と、その海の下の十二頭の牛、また、灰つぼと十能と鉢であった。』
 ここでは確認のためヒラムが作った物を纏め示しています。これらのリストを見るならば、ヒラムがどれだけ多くの仕事をしたかよく分かります。作る者は多くを作るものなのです。それというのも、恵まれた者は神から豊かな恵みを受けるのだからです。まず『二本の柱』すなわちボアズとヤキンはヒラムの制作によりました。宮の記念と外観のためにはどうしてもこの柱が必要でした。その柱の頂にある数々の物また装飾も、やはりヒラムが作りました。これらを作るのにどれだけの時間がかかったことでしょうか。その制作には緻密さと芸術性も求められたはずです。『十個の台と、その台の上の十個の洗盤』もヒラムが作りました。これは「10」個であるというのがポイントです。何故なら、この台と洗盤における「10」は間違いなく象徴的な実際数だからです。海とその下にある牛も、先に見た通り、ヒラムの制作によりました。海は非常に大きかったのですから、その制作にもかなり時間がかかったと思われます。海の下にある牛には緻密な巧みさが要求されたと考えられます。『灰つぼと十能と鉢』も、やはりヒラムの作った道具でした。これら3つの道具がどれぐらい作られたかは分かりません。宮には多くのユダヤ人がやって来たわけですから、そのことを考えるならば、これら3つの道具はかなりの数量が作られたと推測されます。

【7:45~46】
『ヒラムがソロモン王の注文により主の宮のために作ったすべての用具は、みがきをかけた青銅であった。王は、ヨルダンの低地、スコテとツァレタンとの間の粘土の地で、これらを鋳造した。』
 ヒラムがこれらの物を作るために使われたのは『みがきをかけた青銅』でした。青銅を磨くのにも巧みな技術が必要となったはずです。この青銅は磨かれねばなりませんでした。何故なら、主の宮は完全とされるべきだったからです。青銅がしっかり磨かれてこそ、主の宮も完全となるのです。しかし、この青銅がどのようにして、またどのような用具により磨かれたのかは分かりません。宮のために使われる青銅だったのですから、最高の方法により、また最高級の用具により磨かれたのでしょう。このような青銅の仕事が行なわれるため、どうしてもヒラムが必要だったのです。神は御自分の宮のため、ヒラムが青銅細工師となるよう定めておられました。もしまだ宮が作られなかったとすれば、ヒラムが生まれていたかどうか分かりませんし、生まれていても巧みな青銅細工師にはならなかったかもしれません。これらは『ヨルダンの低地、スコテとツァレタンとの間の粘土の地で』『鋳造』されました。そこはヨルダン川における中央部分の東側です。またそこはギルアデの地であり、ガド族の相続地でした。そこは『粘土の地』でしたから、粘土が豊かに得られる地だったのでしょう。これらの物は『ヨルダンの低地』で鋳造されてから、南西に離れたエルサレムまでヨルダン川を渡って運ばれたことでしょう。

【7:47】
『ソロモンは、この用具があまりにも多かったので、みなそれを量らないままにしておいた。青銅の重さは量られなかった。』
 ソロモンは、宮と宮に関する物をしっかり記録させていました。宮の建設は国家事業だったのですから、詳細に記録するのは当然です。今でも政府が公的な建物を建てるならば、その詳細がしっかり記録されます。その記録がⅠ列王記の書かれた時代まで残されていたのです。このため、宮とその物については詳細がしっかり示されているわけです。しかし、ここまでに見た青銅用具の重量は記録されることがありませんでした。すなわち、『青銅の重さは量られなかった』のです。つまり、『この用具があまりにも多かったので』、量ることを諦めたというわけです。ソロモンの英知をもっても量る方法が見出せないほどに莫大な数だったのです。これは海の砂粒を見て、数えるのを断念するようなものかもしれません。もししっかりと量れたのであれば、ソロモンは量っていたことでしょう。つまり、「量りたくなかった」のではなく、「量れなかった」のです。ヒラムが卑しい身分だったとか、何か不正を働いたとか、そのようなことで測られなかったわけではありません。聖書はそのようなことを何も述べていません。ただ方法的・技術的に量ることが不可能だったのです。これはどうしても出来ないことでしたから、量られなかったとしても怠慢とか悪にはなりません。ですから、私たちは『青銅の重さは量られなかった』としても、それを問題視すべきではありません。私たちはただ作られた青銅の用具が『あまりにも多かった』ということを知るだけで満足すべきでしょう。

【7:48】
『ついで、ソロモンは主の宮にあるすべての用具を作った。』
 宮の用具でまず初めに作られたのは、宮の外に関する用具でした。つまり最初は青銅の用具が作られました。それらは先に見た通り、ヒラムにより作られました。その青銅用具が全て作られてから『ついで』、『宮にあるすべての用具』が作られることとなりました。宮の中で使われる用具は後でした。どうして宮の中における用具は外の用具よりも後だったのでしょうか。これは宮の中の用具のほうが重要だったからなのでしょう。人間も被造物の中でもっとも重要な存在ですから、もっとも後の時期に創られたのです(創世記1章)。