【Ⅰ列王記7:48~8:7】(2023/10/08)


【7:48】
『すなわち、金の祭壇と供えのパンを載せる金の机、』
 ここから50節目までは、宮の中で使われる用具が示されています。これらは全て金により作られました。これは栄光に満ちておられる神がおられる宮の中で使われる用具だからです。金で作られてこそ神に相応しいのです。これらが金であったのに対し、先に見た外で使われる用具は青銅でした。金のほうが青銅より価値高いのは誰でも分かることです。これはつまり宮の中のほうが、外よりも重要だったことを示しています。まず『祭壇』は『金』で作られました。これだけは宮の外に置かれる用具です。これは重要な儀式用具ですから、金で作られるのが相応しかったのです。『供えのパンを載せる』『机』もやはり『金』でした。これは聖所に置かれる机であり、祭司たちはこの机に『供えのパン』を絶えず置いておかねばなりませんでした。そのようにするのが祭司の職務の一つでした。これは神に対して備えられる聖別されたパンです。

【7:49~50】
『純金の燭台―内堂の右側に五つ、左側に五つ―、金の花模様、ともしび皿、心切りばさみを作った。また、純金の皿と、心取りばさみ、鉢、平皿、火皿を純金で作った。』
 『燭台』もやはり『純金』で作られました。これはメノラーと呼ばれ、『内堂の右側に五つ、左側に五つ』置かれました。これは火を灯すための燭台であり、灯す部分が全部で10ありました。ヨハネが第一の手紙で言ったように『神は光』であられ、そのうちに暗いところは全くありません。その神が住まわれる宮の聖所は、神に相応しくいつも明るくなっているべきです。ですから、聖所で仕える祭司たちは、いつもこの燭台に火を欠かさず灯し続けねばなりませんでした。それが祭司の職務の一つだったのです。祭司たちは夜でも徹夜で灯火の職務を行なわなければなりません。また、この燭台に関する様々な用具もやはり金で作られました。祭司たちはこの燭台において神に仕えていました。神に仕えるというのは尊いことです。それゆえ、燭台に関わる小道具も、燭台と同じく金で作られました。もし小道具だけは燭台と違い青銅で作られたとすれば、それは非常に不自然で不釣り合いだったことでしょう。それは例えばどこかにある青い車が、どうしてか左後方のドアだけ黒い色であるのも同然です。このような不自然さは問題なのです。ところで、ここまで多くの金を使えるほど当時のイスラエルが富んでいたということは覚えておくべきでしょう。神がこの時代のイスラエルを繁栄させておられたゆえ、ここまで多く金を用意することができたのです。貧しければ話は違っていたことでしょう。

【7:50】
『また、至聖所に通じる神殿のとびらのちょうつがい、神殿の本堂に通じるとびらのちょうつがいも金で作った。』
 宮には2つの扉がありました。一つは『至聖所に通じる神殿のとびら』であり、もう一つは『神殿の本堂に通じるとびら』でした。既に見た通り、この扉は左右に2つあり、開閉するタイプでした。その開閉は左右の端にある『ちょうつがい』によりました。至聖所の扉も本堂の扉にもそれぞれ2つの『ちょうつがい』がありますから、作られた『ちょうつがい』は全部で4つです。これらもやはり『金』で作られました。このような部分でさえ決して疎かにはされていなかったのです。極めて重要な物であれば全てが重視されるべきなのです。この『ちょうつがい』も最高級で芸術的な素晴らしい作りだったに違いありません。

【7:51】
『こうして、ソロモン王が主の宮のためにしたすべての工事が完成した。』
 このようにして宮の工事が全て完了しました。伝道者の書では、全てに「時」があると言われています。まず宮の工事を開始する時がありました。そして、その工事を行なう時もありました。ですから、その工事が完了する時もあったのです。このように完成できたのは神の御恵みによりました。もし神の御恵みがなければ、完成には至らなかったでしょう。その場合、何か起きたりして宮の工事が途中で中止されていたはずです。ギボンも書いている通り、中世にユダヤ人はエルサレムで神殿の再建を幾度か試みたのですが、全て失敗しました。これはユダヤ人とその志に神の御恵みが注がれていなかったからなのです。

『そこで、ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の器具類を運び入れ、主の宮の宝物倉に納めた。』
 宮の工事が完了すると、ソロモンは『主の宮の宝物倉』に『父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の器具類を運び入れ』『納め』ました。それらは『聖別』された物、つまり神に捧げられた物だったからです。それらはダビデが異邦人に神の御恵みにより勝利した際、獲得した物です。

【8:1】
『そのとき、ソロモンはイスラエルの長老たち、およびイスラエル人の部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムのソロモン王のもとに召集した。ダビデの町シオンから主の契約の箱を運び上るためであった。』
 ここまで見た通り、宮の工事は全て完了したものの、まだ聖なる箱は宮に運び込まれていませんでした。契約の箱がそこにないのであれば、どうにもなりません。何故なら、この箱に神がおられたからです。聖なる箱が宮になければ、宮に神がおられるとは言えません。もし箱がなければ、宮は単なる建築物に過ぎなくなります。それは人間の社会で例えれば、どこかの家が空室となっているようなものです。この時に箱はまだ『ダビデの町シオン』にありました。箱が置かれていたのは幕屋の中です。この時までは、幕屋が神の御住まいだったのです。しかし、宮という神の御住まいが新しく完成したのですから、当然ながら箱はこの宮に移されるべきでした。それゆえ、ソロモンは『イスラエルの長老たち、およびイスラエル人の部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレム』に召集しました。これは彼らが箱の移動と共に歩むためです。神は全てのイスラエル人の神でしたから、全てのイスラエル人がこの移動に出られたら幸いだったはずです。しかしイスラエル人は無数にいましたので、そのようにするのは物理的に難しかったでしょう。ですから、民衆のリーダーだけが代表としてこの移動に参加することとなったのです。『イスラエルの長老たち』とは、最高評議会における70人の長老だったはずです。これは今の日本で該当する職務がありません。『イスラエル人の部族のかしらたち』とは、12部族の族長だったはずです。『一族の長たち』とは、部族内に多く存在した氏族ごとのリーダーだったはずです。この時に召集されたリーダーたちが実際にどれぐらいいたかは分からないものの、それはかなりの数だったことでしょう。

【8:2~4】
『イスラエルのすべての人々は、エタニムの月、すなわち第七の新月の祭りに、ソロモン王のもとに集まった。こうして、イスラエルの長老全員が到着したところで、祭司たちは箱をにない、主の箱と、会見の天幕と、天幕にあったすべての聖なる用具とを運び上った。これらの物を祭司たちとレビ人たちが運び上った。』
 こうしてイスラエルのリーダーたちは全て召集されました。北はダン、南はベエル・シェバ、西はペリシテ人の地、東はギルアデの場所から、リーダーたちが集まったことでしょう。この時に召集を拒む者はいなかったはずです。何故なら、ソロモンの支配は完全に確立されていたからです。これがダビデの時であれば何か問題も生じていた可能性はあります。というのも、ダビデの時はまだ支配が完全に確立されていなかったからです。この招集が実現したのは『第七の新月の祭り』の時でした。これは「7」ですから、そこには意味があったはずです。7という聖なる象徴数の月に召集されるというのは、こういった重要な出来事の時には相応しかったのです。この招集が完了するまでにどれほどの時間を必要としたかは分かりません。イスラエル全土からリーダーたちが集まるのですから、かなりの時間がかかったと思われます。しかし、これはそこまで重要なことなのではありません。

 リーダーたちが全て到着すると、『祭司たちとレビ人たちが』『主の箱と、会見の天幕と、天幕にあったすべての聖なる用具とを運び上』りました。これらを実際に持ち運んだのはレビ人だけです。レビ人は聖なる職務に仕える者として神から選ばれた唯一の部族だったからです。他の部族であったリーダーたちは、何も持ち運ぶことがありませんでした。彼らはただレビ人たちと共に宮まで進んだだけです。しかし、このように何も持ち運びはしなかったものの、共に移動するということがどうしても必要だったのです。何故なら、主の箱や聖なる用具などを持ち運ぶというのは、イスラエルにとって非常に重要な出来事だったからです。この時に持ち運ばれたのがどれだけの総量だったかは不明です。それらはかなりの総量だったことでしょう。ですから、それらを持ち運ぶレビ人たちもかなりの人数だったはずです。

【8:5】
『ソロモン王、そして彼のところに集まったイスラエルの全会衆が彼とともに、箱の前に行き、羊や牛をいけにえとしてささげたが、その数があまりに多くて数えることも調べることもできなかった。』
 こうしてソロモンとイスラエルの長たちは『箱の前に行き』ました。これは、彼らが神に対して『羊や牛をいけにえとしてささげ』るためでした。神に犠牲を捧げたのは、神を宥めるためです。ソロモンたちはこの移動において神と関わる以上、このような犠牲をどうしても捧げる必要がありました。贖いなしでは神の御前で燃える御怒りを受けることになるからです。この時に捧げられた犠牲は、『その数があまりにも多くて数えることも調べることもでき』ませんでした。キリストは『多く与えられた者は多く求められ』ると福音書で言われました。ソロモンは神から多くの財物を与えられていたので、多くの犠牲を捧げるべきだったのです。リーダーたちもソロモンほどではないにせよ、多くを受けていたでしょうから多く捧げたことでしょう。このような犠牲の儀式は、彼らが当然に為すべき聖なる敬虔な義務でした。神はこの時に捧げられた生贄を喜ばれたことでしょう。何故なら、この時にソロモンはまだ堕落に陥っていませんでしたし、この時は宮が建てられたばかりで喜ばしい状況だったからです。パリサイ人のごとく偽善的な儀式が為されたということも無かったはずです。

【8:6~7】
『それから、祭司たちは主の契約の箱を、定めの場所、すなわち神殿の内堂である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れた。ケルビムは箱の所の上に翼を広げた。ケルビムは箱とそのかつぎ棒とを上からおおった。』
 聖なる儀式が行なわれると、祭司たちは箱をシオンからエルサレムまで運び入れました。この時に移動した距離は、そこまでなかったはずです。ソロモンたちはこの移動の際、どのようにしたでしょうか。箱を持ち運ぶ祭司たちの前に進んで行ったでしょうか。ちょうど王の前に進む僕や兵士たちのようにして。それとも箱の隊列の後を進んで行ったのでしょうか。こうだった可能性もあります。隊列の横に並んで進んだというのは考えにくい話です。何故なら、これは少し自然でないように感じられるからです。ソロモンたちが移動に付いて行かなかったというのはなかったでしょう。祭司たちは、この箱を『定めの場所、すなわち神殿の内堂である至聖所』に運び入れました。そここそ箱の置かれるべき場所だったのです。ほとんど全ての祭司たちにとって、至聖所に入るのは生涯でこの時だけだったでしょう。また再び至聖所に入れたのは大祭司だけだったはずです。至聖所には、先に見たケルビム像が、箱の運び込まれるより前からもう置かれていました。聖なる箱は、この『ケルビムの翼の下に』覆われるような形で運び込まれました。このようになるため、ケルビム像があらかじめ作られたのです。このようにして聖なる箱には守護性が付与されることとなりました。私たちは、このケルビム像が単なる像に過ぎなかったと考えないようにすべきでしょう。このケルビム像は、霊的な現実を示す意味があったはずです。つまり、至聖所には箱が守られるため、本当に本物のケルビムがいたはずです。しかしながら、ケルビムは御使いであって人間の目には見えませんから、そこにケルビムがいることを示すため、このようにケルビム像が置かれたのでしょう。このケルビム像が単なる置き物に過ぎなかったとは考えにくいのです。何故なら、神は実際的な御方であられるからです。このようにして箱は至聖所に置かれることとなりましたが、それは実に神聖な光景だったことでしょう。たとえこの場所を絵画で再現しようとしても、再現し切れないはずです。神の箱とその箱が置かれた至聖所を絵画で示すのは、限界を越えていると思えるのです。もうこの神殿はありませんから、二度とこの光景を見ることはできません。