【Ⅰ列王記8:22~28】(2023/10/22)


【8:22~23】
『ソロモンはイスラエルの全集団の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に差し伸べて、言った。』
 この時は、聖なる宮に主が入られた偉大な記念すべき時でした。ですから、ソロモンは神に対し祈りを捧げました。このような時は当然ながら祈るべきでした。この祈りはこの章の53節目まで続いています。ソロモンはこの祈りを『全集団の前』で主に向かって捧げました。つまり、これは公的な祈りであり、ソロモンは民の代表として祈りを捧げたのです。また、ソロモンは『主の祭壇の前に立』って祈りました。これは祭壇においてキリストを指し示す動物犠牲が捧げられるからです。神はキリストにおいてのみ人と和解されます。ですから、古代において『主の祭壇の前』ほど祈りを捧げるのに相応しい場所は無かったと言えるでしょう。祈る際にソロモンが『両手を天に差し伸べ』たのは、言うまでもなく神が天におられるからです。ソロモンが常日頃からこのようにして祈っていたかどうかは分かりません。また、このようにして祈れと聖書が命じているわけでもありません。しかし、ソロモンがこのようにして祈ったのは間違っていませんでしたし、現代でこのようにして祈られることがあってもそれはそれで良いのです。

【8:23】
『イスラエルの神、主。』
 ソロモンはまず主の御名を呼び求めることから始めています。これは祈りの対象が神だからです。ちょうど平民が王に対して語りかける際、まず最初に「最も栄えておられる光輝ある王よ。」などと言うのと似ています。先にも述べた通り、ここでは『イスラエルの神、主』と言われているものの、この神はイスラエル人だけの神に決して限定されません。イスラエルの神は、全人類の神であられるからです。パウロがローマ書の中で言っている通りです。『それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。』(ローマ3章29節)

『上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。』
 ソロモンは神の唯一性について述べています。それは聖書の全体が教えていることです。確かに、神のような神はただ神だけしかおられません。『上は天』にも神のような存在は他にありません。ゼウスは天上にいる神として拝まれていましたが、これは古代ギリシャ人の空想神に過ぎません。太陽はこれまで神として多くの民族から拝まれてきましたが、それは単なる天体に過ぎず、被造物でしかありません。『下は地にも』神のような存在は他にありません。異教で崇められている地上の神は、偽りの神です。何故なら、そのような神は天も地も創らなかったからです。しかし、イスラエルの神は全宇宙を創られました。こういうわけで、律法では神だけを神とするように命じられているのです。こうです。『あなたには、わたしの他に他の神々があってはならない。』

『あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。』
 神は、聖徒たちが『心を尽くして御前に歩む』のを強く望んでおられます。何故なら、そのようにするのは神に贖われた民にとって当然の義務だからです。臣下は王に忠実な態度で仕え、僕は主人に従順をもって遜るべきでしょう。聖徒たちが『心を尽くして御前に歩む』べきなのも、これと同じことです。『心を尽くして』とは、純粋な熱心さを強く持つということです。聖徒たちがそうするならば、神は聖徒たちに対し『契約と愛とを守られ』ます。それというのも神は誠実な御方だからです。人間でも誠実な人は、自分への忠実さに対しきちんと応じるものです。神は誠実そのものであられます。ですから、神は『心を尽くして御前に歩む』聖徒たちに対し必ず良くして下さるのです。『契約』とは、神が主・王・父となり聖徒たちは子になるという聖なる契約のことです。もし聖徒たちが『心を尽くして御前に歩む』ならば、この契約のうちに留まることとなります。この契約は、先に見た通り、モーセ時代にユダヤ人と結ばれました。『愛』とは神の好意ある御恵みのことです。もし聖徒たちが敬虔に歩むならば、聖徒たちは神から豊かな御恵みを受けられます。ヤコブも『こういう人は、その行ないによって祝福されます。』と手紙の中で言っています。箴言の箇所でも『謹んで御言葉を行なう者は栄える。』と書かれています。マラキ書で言われている通り、神は決して変わらない御方です。ですから、神はいつの時代であってもこのような御方です。当然ながら今の時代でもそうです。それゆえ、今の時代でも聖徒たちは『心を尽くして御前に歩む』べきなのです。そうすれば私たちは神の『契約と愛』の中に留まることとなるのです。しかし、堕落するならば神から捨てられてしまうでしょう。実際、ユダヤ人たちは堕落したので神から捨てられてしまいました。

【8:24】
『あなたは、約束されたことを、あなたのしもべ、私の父ダビデのために守られました。それゆえ、あなたは御口をもって語られました。また御手をもって、これを今日のように、成し遂げられました。』
 神はダビデに約束されたことを、これまでに見た通り、しっかりと実現されました。神の約束された御言葉は地に落ちませんでした。神は決して偽りを言われないからです。神はその約束を『ダビデのために守られました』。これはダビデを裏切らないためです。神は、約束されることを、約束される前から既に成し遂げられるつもりでした。だからこそ、神はダビデに『御口をもって語られ』たのです。もし約束を成し遂げられないのであれば、神は最初から約束の御言葉をダビデに与えておられなかったでしょう。ですから、神が約束を必ず成し遂げられるということは、神が約束されたことは必ず実現するということです。神はその約束を、『今日のように、成し遂げられました』。それは『御手をもって』でした。つまり、神が御自身により宮を建てられたということです。神はソロモンを通して宮建設を成し遂げられたのです。このように神は御自分の御業を成し遂げるため、人また御使いを用いられます。成し遂げられることを約束され、約束されたことを成し遂げられる。ここに神の真実性が強く示されています。ですから、聖徒たちは神が真実な御方であるということを決して疑うべきではありません。もし神の真実性を疑う人がいれば、その人は神から偽り者として断罪されるでしょう。

【8:25~26】
『それで今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束して、『あなたがわたしの前に歩んだように、もしあなたの子孫がその道を守り、わたしの前に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に着く人が、わたしの前から断たれない。』と仰せられたことを、ダビデのために守ってください。今、イスラエルの神。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたみことばが堅く立てられますように。』
 神は、宮建設の約束だけでなく、もう一つの約束をもダビデに与えておられました。それは、もしダビデの子孫が正しく歩むならば、ダビデの子孫はずっと王権を持ち続ける、という約束です。神は御自分に忠実な者を喜ばれます。それゆえ、もしダビデの子孫が忠実であれば、その子孫は王座から決して退けられることがないのです。しかし、ダビデの子孫がしっかり歩まなければ、その子孫から王権は取り上げられます。何故なら、神は不敬虔な者を喜ばれないからです。この時、ソロモンは宮建設の約束が成し遂げられたのをしっかり確認しました。それまではまだ宮建設の約束が成し遂げられていませんでした。しかし、もう今やその約束は目に見える形で実現されました。ソロモンは、ダビデの子孫に関する約束も成し遂げていただきたいと、この機会を捉えて神に願い求めます。というのも、神がある約束を成し遂げられたのであれば、別の約束をも成し遂げて下さるだろうからです。通常の場合、神がある約束を成し遂げられたのに別の約束を成し遂げられないというのは、考えにくいのです。この時にソロモンはダビデのように正しく神の御前で歩んでいました。ソロモンはこれからも敬虔な歩みをするつもりだったと思われます。ですから、ソロモンはダビデの子孫に関する約束も成し遂げられることを期待したでしょう。このため、ソロモンはもう一つのほうの約束も成し遂げて下さいと願い求めたわけです。しかしながら、ソロモンとその子孫はダビデのようにしっかり歩むことがありませんでした。ですから、神はダビデの子孫から王権をやがて取り去られることになります。もしソロモンとその子孫が正しく歩んでいたとすれば、ダビデの子孫はずっと王権を保っていたことでしょう。すなわち、神の約束が実現されていたでしょう。ダビデの子孫である諸王たちは自ら神の約束に相応しくない振る舞いをしてしまったのです。ソロモンはまず25節目で約束について願い求め、26節目でも重ねて願い求めています。この繰り返しは約束に対するソロモンの強い思いを示しています。またソロモンはここで神を2度呼び求めています。これにもやはり神とその約束に対するソロモンの強い思いが示されています。

【8:27】
『それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。』
 ソロモンは『それにしても』と言って、少し話を切り替えています。ソロモンはここで神の無限性について述べています。神は無限なる存在であり、万物を完全に超越しておられます。神はこの宇宙よりも無限倍に大きい存在です。ですから、神からすれば宇宙など無も同然の大きさなのです。このような神の無限性を捉えることは決してできません。このように神は無限なる存在ですから、ソロモンがここで言っている通り、『地』は神を入れることができません。有限が無限をそのまま入れるというのは考えられないのです。私たち人間は鳥の巣や蟻の巣に入ったりそこで住んだりすることが決してできません。その巣は人間にとってあまりにも小さ過ぎるのです。神を『地』が入れられないのは、これ以上のことです。もし地が神を入れられたとすれば、尚のこと私たちは鳥や蟻の巣に入れたことでしょう。またこの神は『天』も入れることができません。ソロモンがここで言っている『天』とは、どういった意味の『天』なのでしょうか。地球の上空における天でしょうか、それともこの宇宙には属さない霊的な世界という天でしょうか。これは後者のほうです。何故なら、ソロモンはこの祈りの中で、神の御住まいについて『あなたのお住まいになる所、天』(Ⅰ列王記8章30節)と言っているからです。これは明らかに霊的な世界における『天』です。それゆえ、私たちが今見ている箇所で言われている『天』も同様の意味に理解すべきです。そのように理解するのが整合的であり自然だからです。更に神は『天の天も』入れることができません。これは霊的な世界における上空部分のことです。地球で言えば空の場所が、この『天の天』になります。天の領域がどれぐらいの大きさなのか私たちは何も知りません。ソロモンがここで神の無限性を示すため、天上の領域について言及しているのですから、もしかしたら天とは驚くほど大きい領域なのかもしれません。しかし、そのような『天の天』であっても、無限なる神を入れることはできないのです。このように神を『地』も『天も、天の天も』入れることができないとすれば、ソロモンの『建てたこの宮など、なおさらのこと』神を入れることはできません。無限なる神が、ソロモンの建てた有限の宮に無限であるまま住むというのは、どう考えてもできないでしょう。もし無限なる神が宮にそのまま住むとすれば、宮も神と同様に無限の大きさでなければいけませんが、ソロモンの建てた宮は有限の大きさでした。しかし、神はこの宮に住まわれました。それは、あたかもそこに限定的・排他的におられるかのごとく強く臨在するという仕方においてでした。こういうわけで、神は全宇宙のどこにでもおられるのですが、あたかもそこにしかおられないかのように「宮におられる」と聖書は言っているのです。

【8:28】
『けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。』
 ソロモンは、神の無限性をそのまま入れられる宮を建てたのではありませんでした。もしそのような宮を建てるとすれば、ソロモンは神でなければいけませんでした。しかしソロモンは被造物である有限な人間に過ぎませんでした。有限な存在は有限な物しか作れません。確かに宮は有限な大きさしかありませんでした。神にとってそれはあまりにも小さいのです。しかしソロモンは『けれども』と言い、そのような自分であるものの、祈りを聞き入れていただきたいと神に願い求めています。つまり、ソロモンはここで遜っています。このような謙遜は正しいことでした。ここでソロモンは『私の神、主よ。』とまた神を呼び求めています。これもやはり神に対するソロモンの強い思いを示しています。また、ソロモンはここで自分を神の『しもべ』であると言っています。ソロモンはイスラエル社会において王でした。しかし、神の御前でソロモンは王というより寧ろ『しもべ』でした。神の御前に僕であるという点で、ソロモンは一般民衆と同じ立場だったのです。ここでソロモンは『祈りと願い』と言っています。『祈り』とはソロモンが捧げている祈りの全体のことであり、『願い』とは祈りの中で語られている願いの部分を意味します。ですから、どちらも同じ行為について言っているものの、この2つの言葉は少しだけ違った意味を持っています。またソロモンはここで『叫びと祈り』と言っています。『叫び』とはソロモンの祈りにおける敬虔な激しさを示しており、『祈り』とはその叫びを含んだ祈りの全体です。つまり、『叫び』よりも『祈り』という言葉のほうが広い範囲の意味内容です。