【Ⅰ列王記8:29~34】(2023/10/29)


【8:29】
『そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く。』と仰せられたこの所に、』
 ソロモンが建てた宮は、神が『わたしの名をそこに置く。』と言われた場所でした。神の聖なる御名が置かれているのは至聖所です。このため、イスラエル人は宮の場所に行き、そこで神の御名を呼び求めたのです。神は御名を他の場所に置かれませんでした。ですから、古代においてこの宮は極めて重要な場所でした。ところで、名はその本体を直接示しています。名とその名が示す本体は一つです。これは神の場合でもそうです。すなわち、神の御名は神御自身を示しています。御名とは神のことであり、神は御名において示されます。それゆえ、御名の置かれていた宮には神がおられたのです。

【8:29~30】
『夜も昼も御目を開いてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。』
 ソロモンは、神が宮で『夜も昼も御目を開いてくださって』おられるよう願い求めています。神は物質を超越された目に見えない御方ですから、人間のように物理的な目を持っておられるのではありません。つまり、ソロモンは例えにより語っているのです。ソロモンは、神が宮で起こる事柄をいつも決して無視されないようにと願い求めているわけです。ソロモンはこの時に捧げている祈りを聞き入れてもらいたかったことでしょう。ソロモンはこれからも宮で神に祈りを捧げるつもりだったはずです。その度ごとにソロモンは祈りを聞いてもらいたかったでしょう。ですから、ソロモンは神がいつも宮で『夜も昼も御目を開いてくださって』おられるように願ったわけです。もし神が御目を開いておられなかったとすれば、どうなっていたでしょうか。そうであればソロモンが夜に祈っても昼に祈っても、その祈りは決して聞き入れられなかったはずです。この宮はソロモン王だけでなく、ユダヤの一般民衆もやって来て祈りを捧げる場所でした。もし神が御目を閉じておられたとすれば、一般民衆が祈りを捧げても虚しくなってしまいます。民の祈りも神に聞き入れられるのが喜ばしいのは言うまでもありません。ですから、ここでソロモンは自分だけでなく民衆が捧げる祈りも聞き入れられるように願い求めています。実際、ソロモンと民は何度も宮に行って祈りを捧げたことでしょう。神はその度ごとに捧げられた祈りを聞いて下さっておられたはずです。何故なら、ダビデが詩篇で言っているように神は『祈りを聞かれる方』だからです。

【8:30】
『あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください。』
 先にも述べたように、神が『お住まいになる所、天』とは霊的な世界のことです。そこはこの宇宙空間に属していない場所です。この『天』を地球の上空であると解さないようにすべきです。もちろん、神は全宇宙のどこにでもおられますから、当然ながら地球の上空にもおられます。しかし、ここで言われているのは霊的な場所である天のことです。この天で神は、地上から捧げられる祈りを聞いて下さいます。ですから、神は天から地上の聖徒たちに働きかけて下さいます。こうして聖徒たちは神により祝福されたり守られたりするのです。この神は今も、これからもずっと天におられます。そして、地上から捧げられる聖徒の祈りを聞いて下さいます。祈りが聞かれるというのに祈らないのは損でしょう。ですから、聖徒たちは神に祈るのが良いのです。

『聞いて、お赦しください。』
 ここで赦しが求められているのは何のことでしょうか。これは赦しを求める聖徒の祈りのことです。というのも、宮に来た聖徒たちは罪の赦しを神に祈り求めるからです。神はその聖徒たちに罪の赦しを与えて下さいます。何故なら、宮のところではキリストを示す動物犠牲が捧げられるからです。このキリストに罪の赦しがあります。『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』と使徒ヨハネが言った通りです。ですから、ソロモンが求めた『赦し』はキリストによります。

【8:31】
『ある人が隣人に罪を犯し、のろいの誓いを立てさせられることになって、この宮の中にあるあなたの祭壇の前に来て誓うとき、』
 ヤコブの子たちが聖なる民であったにしても、その一人一人は罪人に過ぎません。ですから、同胞に対して罪を犯すこともあります。ここではそういったケースについて言われています。ここで犯されたとされる『罪』がどのような内容だったかは、問題となりません。ここでは『罪』が一般的に言われているからです。ソロモンは、罪を犯した者が『のろいの誓いを立てさせられることになっ』たと言います。これは何のことでしょうか。罪を犯すというのは誰でも分かりますが、『のろいの誓い』とは何なのでしょうか。これは、罪を犯した者が「私は呪われるべき罪深い行ないをしました(または<しませんでした>)。」と誓うことです。『祭壇の前』とは、すなわち神の御前です。神の御前で偽りを誓うのは難しいことです。ですから、罪を犯された者は、罪を犯した者が決して偽れないよう『祭壇の前』で真偽について誓わせるのです。もし祭壇の前でなければ罪を犯した者は偽りかねません。そのように偽るのは咎めを免れるためですが、祭壇の前で誓うならば寧ろ偽ることが咎めへと直結するのです。この箇所で『のろいの誓い』と言われているのは、少し理解しにくいかもしれません。これは呪いを誰かにかけるための誓いという意味ではありません。これは呪われるべき行ないをしたかどうか神の御前で誓うことです。これは『祭壇の前』で誓うことに大きな意味があります。神がそこでまざまざと聞いておられるのに、どうして嘘の誓いを口にできるでしょうか。

【8:32】
『あなたご自身が天でこれを聞き、』
 ソロモンは、この『のろいの誓い』を神が聞いて下さるようにと求めています。確かに神はこのような誓いをしっかり聞かれます。何故なら、神は宮の場所で『夜も昼も御目を開いていてくださって』(Ⅰ列王記8章29節)おられるからです。神は宮で捧げられる普通の祈りであっても、しっかり聞いて下さいます。誓いとはつまり強力極まりない祈りです。ですから、神が普通の祈りでさえしっかり聞いて下さるのであれば、誓いの祈りは尚のことよく聞かれるのです。

『あなたのしもべたちにさばきを行なって、悪者にはその生き方への報いとして、その頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義を報いてください。』
 神は『さばきを行な』われる御方です。何故なら、神とは義そのものであられるからです。「義」は善で悪であれ裁かずにいません。それが義なのだからです。もし神が裁きを行なわれないのであれば、神は義なる御方でないことになってしまいます。このような義なる神は、ここで言われている通り、悪者にも正しい者にも報いられます。神は先に見た『のろいの誓い』の内容が真実であるかどうか完全に知っておられます。ですから、もし呪いの誓いをした者が本当に罪を犯していたならば、神は『その生き方への報いとして、その頭上に悪を下』されます。しかし、単に偽って誓わせられただけであれば、誓いを強要させた者が悪いことになります。この場合、偽りの誓いを立てさせられた者は無罪とされ、誓いを強要させた者が罰せられることとなります。神は今もこれからも義なる御方であられます。ですから、神は今でも悪者と正しい者に対して報いられます。そのようにして神は裁き主としての御栄光を現わされるのです。ところで、ここで『正しい者にはその正しさにしたがって義を報いてください。』と言われているのを、カトリックは行為義認の根拠とするかもしれません。しかし、この部分は決して行為義認を教えていません。ここでは単に、神が潔白な者には義の報いを与えて下さると言われているだけに過ぎません。この箇所を行為義認の根拠とするならば、疑いもなく滅びるでしょう。何故なら、そのような行為義認の徒は、キリストの贖いを否定しているのだからです。

【8:33】
『また、あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、』
 先に見た箇所で言われていたのは、イスラエル人が同胞に対して犯す罪のことでした。しかし、ここではイスラエル人が神に対して犯す罪について言われています。ヤコブの子らは神の民であるものの罪深いので、神に対しても罪を犯してしまうのです。それは旧約聖書を見れば明らかです。ここで言われている対神罪の内容が何であるかは、この箇所では問題となりません。ここでは対神罪が一般的に取り扱われているからです。御民イスラエルが神に罪を犯すならば、呪いとして『敵に打ち負かされ』てしまいます。この場合、その敵が罪深いかどうかはほとんど関係ありません。何故なら、その敵が罪深ったとしても、神は罪を犯したイスラエルが、そのような罪深い敵に打ち負かされるよう働きかけられるからです。神としても御自分に反逆した御民を祝福するわけにはいかないのです。もし祝福されるとすれば、罪が祝福の対象となってしまうでしょう。私たち人間にしても自分に反抗する者にはあまり良くしてやりたいと思えないでしょう。

『彼らがあなたのもとに立ち返り、御名をほめたたえ、この宮で、あなたに祈り願ったなら、』
 ヤコブの子らが罪を犯して神に反逆するならば、『敵に打ち負かされ』、呪いとしてその敵に捕らわれてしまいます。そして敵の国へと強制的に連れて行かれます。つまり捕囚されてしまいます。律法では、イスラエル人が罪を犯すならばこうなると定められています。神は御自分の民が反逆に陥るのを喜ばれません。ですから、イスラエルが罪を犯したならば、懲らしめの裁きとして悲惨な状況に陥らされるのです。実際にイスラエルはこのようになりました。紀元前585年にイスラエル人はバビロンに『打ち負かされ』、バビロンの国へと連れて行かれたのです。そして、イスラエル人は長らくその地で過ごさねばならなくなりました。これはイスラエル人が神への反逆をずっと止めようとしなかったからでした。

 しかし、イスラエル人は捕囚の苦しみを通して、罪のことで反省するようになります。何故なら、神に逆らったからこそ悲惨な裁きを受けているということが、彼らにもよく分かるからです。もし神に罪を犯していなければ、敵の手に引き渡されたりしなかったことは明らかなのです。そのようにイスラエルが反省するならば、神のもとに『立ち返り』ます。つまり、それまでは悪い流れの中に歩んでいたのですが、もう悔い改めてすっかり悪を捨て去り、正しい流れの中に歩むこととなります。そして御民は再び『御名をほめたたえ』るようになります。何故なら、もうイスラエルは神に立ち返ったからです。それまでは、まだ罪により神から遠ざかっていたので、神を褒め称えることはしませんでした。ここでソロモンは、イスラエルが『この宮で、あなたに祈り願ったなら』と言っています。ここでソロモンが言っているのは、イスラエル人が裁きにより祖国から追放されている時のことです。それなのにイスラエル人が祖国にある宮で祈り願うというのは、どういうことなのでしょうか。これはイスラエル人の幾らかの者たちが、捕囚の地から宮まで行って祈り願うということです。イスラエル人の全体は宮から遠く離れた場所にいても、少しの者たちが宮に行くということであれば可能なはずです。イスラエルが罰されている中にあって、幾人かでも宮まで祈りに行くというのは、イスラエルに多かれ少なかれ悔い改めの心があることを反映しています。そのように宮まで行ったイスラエル人が『祈り願』うのは、当然ながら悔い改めに関することです。何故なら、その者たちは御前で悔い改めるため宮まで向かうのだからです。

【8:34】
『あなたご自身が天でこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らの先祖たちにお与えになった地に、彼らを帰らせてください。』
 神は、悔い改めた御民イスラエルの祈りを聞いて下さいます。何故なら、神は憐れみ深い御方だからです。神は罪と罪人に対して厳しく報いられます。しかし、悔い改める者には豊かな憐れみを与えて下さるのです。神が『天でこれを聞』いて下さるのは、イスラエルが真に悔い改めた場合のことです。もしイスラエルが真実な心から悔い改めていなければ、神は祈りを聞いて下さいません。しかし、イスラエルが本当に悔い改めるならば、神は本当に祈りを聞いて下さいます。そのようにして神は『イスラエルの罪を赦し』て下さいます。この『赦し』はイエス・キリストによります。宮に行ったイスラエル人は、神に対して犠牲の生贄を捧げるでしょう。この生贄は神の御子イエス・キリストを象徴しています。ですから、神は御自分の御子のゆえに、イスラエルの罪を赦して下さるのです。もしキリストによらなければ罪が赦されることはありませんでした。このようにして赦されたイスラエルを、神は捕囚の地から『帰らせてくださ』います。これはイスラエル人が御前で悔い改めて赦されたからです。罪により捕囚の裁きを受けたのですから、その罪を悔い改めるならば捕囚の裁きも取り去られるのです。実際にイスラエル人はバビロンでの長い捕囚期間の後、祖国に帰ることができました。捕囚期にはダニエルが悔い改めの祈りを捧げました。このダニエルのように罪を嘆いたイスラエル人は、他にもいたと思われます。

 捕囚のような苦しみに陥っている民族や集団は、しばしば自力で苦しみから抜け出ようとします。ローマに支配されていた紀元1世紀のユダヤ人も、自分たちの力で屈辱的な状態から抜け出ようとしました。しかし、このような努力は無駄なことです。彼らは罪が苦しみを齎す原因であるということを知りません。罪により苦しみが与えられているのであれば、その罪を悔い改めて止めればいいことになります。そうすれば罪のゆえに与えられていた苦しみも取り去られるのです。このことについてよく理解するのは悟りです。