【Ⅰ列王記1:15~52】(2023/07/02)


【1:15】
『―王は非常に年老いて、シュネム人の女アビシャグが王に仕えていた。―』
 先に見たアビシャグは、これまでずっとダビデに仕えていました。ダビデはこのシュネム人が自分に仕えるのを認めていました。すぐにも陥ることのできる美貌の誘惑がそこにはありました。しかし、ダビデはそれに陥るのを認めませんでした。先にも述べた通り、ダビデは霊的に成長していたはずだからです。これを老いによる衰えのためだと考えるべきではないでしょう。何故なら、老いても女色を求め続けた王などこれまで幾らでもいたのだからです。

【1:16~21】
『バテ・シェバがひざまずいて、王におじぎをすると、王は、「何の用か。」と言った。彼女は答えた。「わが君。あなたは、あなたの神、主にかけて、『必ず、あなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に着く。』と、このはしためにお誓いになりました。それなのに、今、アドニヤが王となっています。王さま。あなたはそれをご存じないのです。彼は、牛や肥えた家畜や羊をたくさん、いけにえとしてささげ、王のお子さま全部と、祭司エブヤタルと、将軍ヨアブを招いたのに、あなたのしもべソロモンは招きませんでした。王さま。王さまの跡を継いで、だれが王さまの王座に着くかを告げていただきたいと、今や、すべてのイスラエルの目はあなたの上に注がれています。そうでないと、王さまがご先祖たちとともに眠りにつかれるとき、私と私の子ソロモンは罪を犯した者とみなされるでしょう。」』
 バテ・シェバがダビデのもとに行くと、彼女はアドニヤのことでダビデに話します。彼女はナタンの命令通り、ソロモンこそが王になると誓ったダビデの言葉を示します。これはダビデを必ず動かすためです。またバテ・シェバはソロモンがアドニヤから招かれなかったと言うことで、更にダビデに訴えています。アドニヤがソロモンを無視したというのは、アドニヤがソロモンを敵と見做していたということだからです。そして、バテ・シェバはダビデが次の王について公の宣言をするよう促します。イスラエルで次の王が誰になるかということは、全イスラエルの気になるところでした(20節)。勿論、バテ・シェバはダビデが誰を次の王に指名するか全く知っていました。それはソロモンです。つまり、バテ・シェバはここでダビデがソロモンのことで宣言するよう求めているわけです。

 21節目でバテ・シェバは、ダビデの死について言及しています。『眠りにつかれるとき』とは死ぬ時のことです。『ご先祖たちとともに』と書かれているのは、ダビデも先祖たちと同じように死ぬということです。この頃のダビデはかなり年を取っていましたから、もう間もなく死ぬというのは誰でも分かることだったのでしょう。このままアドニヤが王として歩むならば、ダビデが死んだ時、アドニヤは好き放題できるようになります。何故なら、それまで国の支配者だったダビデがいなくなるので、アドニヤこそが新たな支配者となるのだからです。そうなればバテ・シェバとソロモンはアドニヤから『罪を犯した者とみなされる』ことになります。その場合、この2人は死刑になったり監禁されたり追放されたりしてしまいます。このように言うことで、バテ・シェバは更にアドニヤのことで訴え、ダビデを動かそうとしているわけです。

【1:22~23】
『彼女がまだ王と話しているうちに、預言者ナタンがはいって来た。家来たちは、「預言者ナタンがまいりました。」と言って王に告げた。彼は王の前に出て、地にひれ伏して、王に礼をした。』
 バテ・シェバがダビデ王に話していると、ナタンが自分で言った通り、ダビデのもとへやって来ます。預言者とは神の御言葉を語るのですから、常日頃から真実を自分のうちに保つべき存在です。特に口の偽りがあってはなりません。このため、ナタンは自分の言葉通りにこうしてやって来たのです。この時にナタンは、家来たちに導かれてダビデの前へと進み出ました。そしてナタンは、神の権威者であるダビデの前でひれ伏して礼をします。

【1:24~27】
『ナタンは言った。「王さま。あなたは『アドニヤが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に着く。』と仰せられましたか。実は、きょう、彼は下って行って、牛と肥えた家畜とをたくさん、いけにえとしてささげ、王のお子さま全部と、将軍たちと、祭司エブヤタルとを招きました。そして、彼らは、彼の前で飲み食いし、『アドニヤ王。ばんざい。』と叫びました。しかし、あなたのしもべのこの私や祭司ツァドクやエホヤダの子ベナヤや、それに、あなたのしもべソロモンは招きませんでした。このことは、王さまから出たことなのですか。あなたは、だれが王の跡を継いで、王さまの王座に着くかを、このしもべに告げておられませんのに。」』
 ナタンは、ダビデがアドニヤを次の王に任命したのかと述べています。当然ながらナタンは、ダビデがアドニヤを任命していないことぐらいよく知っていました。ナタンはこのように述べることで、アドニヤのことをダビデに訴えているのです。この箇所から分かる通り、アドニヤは王になる際、多くの家畜を生贄として捧げました。これはアドニヤが自分の任職を大きな出来事であると考えていた印です。もし小さな出来事だと考えていれば、恐らく捧げた生贄の数はあまり多くなかったはずです。その時に招かれていた人々は、『アドニヤ王。ばんざい。』と叫んで、アドニヤが王になったことを喜び歓迎しました。これはとんでもないことでした。このように不遜だった彼らは、罰されて当然のことをしていたのです。26節目でナタンは、幾らかの人々が任職式に招かれなかったことを知らせています。26節目で挙げられている人々がアドニヤに招かれていたなら、アドニヤに罪は無かったのでしょうか。そういうことはありません。たとえ『ツァドク』や『ベナヤ』や『ソロモン』が招かれたとしても、アドニヤは罪深い振る舞いをしていました。何故なら、誰を招き誰を招かなかったとしても、勝手に王になるという不遜な振る舞いをすることからして既に大きな悪なのだからです。

【1:28~30】
『ダビデ王は答えて言った。「バテ・シェバをここに呼びなさい。」彼女が王の前に来て、王の前に立つと、王は誓って言った。「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。私がイスラエルの神、主にかけて、『必ず、あなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に着く。』と言ってあなたに誓ったとおり、きょう、必ずそのとおりにしよう。」』
 ダビデはバテ・シェバを自分の前に呼び、彼女の子ソロモンこそが次の王になると述べました。ここにおいてソロモンが王になることは二重に確定されました。「二重に」と言ったのは、これまでもダビデはソロモンが王になると誓っていたからです。この時、正式な王になろうとしていたアドニヤの企ては打ち砕かれます。ダビデはアドニヤが王になるのを望んでいませんでした。神も彼が王になるのを望んでおられませんでした。バテ・シェバはこの言葉を聞いて、安心したり喜んだりしたと思われます。アドニヤはもう王になれなくなりました。彼は罪深い暴走をしていたに過ぎなかったのです。

 29節目で言われている通り、神はダビデの『いのちをあらゆる苦難から救い出してくださ』いました。だからこそ、ダビデは幾度となく戦いで出陣したにもかかわらず、ここまでこのように生きていることができたのです。もし神がダビデに働きかけれておられなければ、ダビデは敵に殺されたり、敵から致命的な打撃を受けていたかもしれません。ダビデはこのことをよく弁えていたはずです。ここでダビデはこの神により、ソロモンこそが次の王になると『誓って』います。前にも述べた通り、『主は生きておられる。』とは誓いの言葉です。このようにしてアドニヤは退けられ、バテ・シェバとその子ソロモンは安全な状態とされました。

【1:31】
『バテ・シェバは地にひれ伏して、王に礼をし、そして言った。「わが君、ダビデ王さま。いつまでも生きておられますように。」』
 バテ・シェバはダビデの言葉を聞くと、ダビデの前にひれ伏して応じました。バテ・シェバはここでダビデに「わが君。」と言っています。つまり、彼女はダビデを夫というより王として取り扱っています。権力の大きい王が多妻である場合、一人一人の妻たちは、夫である王に対して僕のようになるものです。ソロモンが次の王になると聞いたバテ・シェバは、ダビデに『いつまでも生きておられますように。』と言っています。この時のダビデはかなり老いていたのですから、近いうちに死ぬと誰でも察せたはずです。『いつまでも生きておられますように。』と言ったその言葉がそのことを示しています。まだまだ生きることが分かりきった幼児や子どもに対しては、こんなことをあえて言うことさえしないからです。ソロモンが次のイスラエル王になるというのは、ダビデの老いを前提としていますから、死の匂いが漂って来ることです。ダビデがもう死ぬ頃だからこそ、ダビデの後任としてソロモンが立てられるのだからです。しかし、バテ・シェバは恐れずダビデに『いつまでも生きておられますように。』と言いました。これはソロモンが次の王になるとしても、ダビデには何とか生き続けていてほしかったからです。このようにしてアドニヤ事件にはひとまず解決が付いた形となります。

【1:32~35】
『それからダビデ王は言った。「祭司ツァドクと預言者ナタン、それに、エホヤダの子ベナヤをここに呼びなさい。」彼らが王の前に来ると、王は彼らに言った。「あなたがたの主君の家来たちを連れ、私の子ソロモンを私の雌騾馬に乗せ、彼を連れてギホンへ下って行きなさい。祭司ツァドクと預言者ナタンは、そこで彼に油をそそいでイスラエルの王としなさい。そうして、角笛を吹き鳴らし、『ソロモン王。ばんざい。』と叫びなさい。それから、彼に従って上って来なさい。彼は来て、私の王座に着き、彼が私に代わって王となる。私は彼をイスラエルとユダの君主に任命した。」』
 ダビデはツァドクとナタンを呼び寄せ、この2人がソロモンに『油をそそ』ぐように命じます。油を注ぐのは任職の儀式です。ツァドクとナタンの2人で油を注ぐのは、その任職を強調するためだったのでしょう。しかし、2人いなければ油を注ぐことができないというわけでもありません。たとえ一人であっても油を注ぐことは十分に可能でした。この時に『エホヤダの子ベナヤ』はソロモンに油を注ぎません。これは、油を注ぐ者は油を注がれた者であるべきだったからでしょう。この時にソロモンは『雌騾馬』に乗せられて移動しなければなりませんでした。これは古代社会において騾馬が王たちの乗る乗り物だったからです。ソロモンが任職される際は、『角笛を吹き鳴ら』さねばなりませんでした。これはソロモンが王になったことを公に宣言するためでした。また、その時には『ソロモン王。ばんざい。』とも叫ばねばなりません。これはソロモンに対する忠誠を示すためでしょう。こうして王になったソロモンはダビデのもとに行かねばなりません。これはソロモンがダビデから直接的に次の王として指名されるためでした。しかし、ソロモンが王になるため『ギホンへ下って行』かねばならないのは何故だったのでしょうか。ソロモンは、どこにも出かけたりせず、ダビデの目の前で王になることも出来たはずです。これはダビデがソロモンの王権を独立的にさせたかったからなのかもしれません。つまり、ダビデはソロモンに自分の干渉をあまり与えたくなかったのかもしれません。

【1:36】
『エホヤダの子ベナヤが王に答えて言った。「アーメン。王さまの神、主も、そう言われますように。』
 ソロモンが王になると聞いたベナヤは、ソロモンが次の王になることは神の御心であるようにと言います。実際にソロモンの王権とその治世は御心でした。ですから、ベナヤやその他の者が親ソロモンの態度を取ったのは正しいことでした。しかし、親アドニヤの立場を取った者たちは間違っており、それは非常に大きな間違いでした。

【1:37】
『主が、王さまとともにおられたように、ソロモンとともにおられ、彼の王座を、わが君、ダビデ王の王座よりもすぐれたものとされますように。」』
 ベナヤはここでソロモンについて2つのことを願っています。まず一つ目は、神がダビデと共におられたように、ソロモンとも共におられることです。これはベナヤがイスラエルとその王を尊んでいた証拠です。実際、神はソロモンと共にいて下さいました。もっとも、ソロモンは晩年になると、偶像崇拝に陥り大きな罪を犯してしまったのですが。二つ目は、ソロモンの王威と治世が、ダビデのそれより『すぐれたものとされますように』ということです。これもやはりベナヤがイスラエルとその王を蔑ろにしていなかった印です。ベナヤがこのように言ったとしても、ダビデに妬みは起こらなかったでしょう。というのも親は往々にして子が自分を越えることを望むものだからです。ソロモンはベナヤが願った通り、ダビデよりも輝かしい王座に与かることとなりました。歴史が示す通り、このソロモンの時代に、イスラエルの繁栄はピークに達したのです。

【1:38~40】
『そこで、祭司ツァドクと預言者ナタンとエホヤダの子ベナヤ、それに、ケレテ人とペレテ人とが下って行き、彼らはソロモンをダビデ王の雌騾馬に乗せ、彼を連れてギホンへ行った。祭司ツァドクは天幕の中から油の角を取って来て、油をソロモンにそそいだ。そうして彼らが角笛を吹き鳴らすと、民はこぞって、「ソロモン王。ばんざい。」と叫んだ。民はみな、彼のあとに従って上って来た。民が笛を吹き鳴らしながら、大いに喜んで歌ったので、地がその声で裂けた。』
 こうして親ソロモンの立場だったツァドクとナタンたちは、ダビデの命令通り、ソロモンをギホンで王にしました。この時には民が集まって来ました。その集まった民の数がどれだけだったかは分かりません。しかし、かなりの数がいたのではないかと思われます。こうして民が『笛を吹き鳴らしながら、大いに喜んで歌ったので、地がその声で裂け』ました。『地がその声で裂けた』とは、つまりあまりにも巨大な歓声が生じたということを示す詩的な表現です。このような類の表現は聖書に多く見られます。

 こうしてソロモンこそ御心だったので、ソロモンが正式にイスラエルの王となりました。この通り、神の御心に適った者が、その国を支配する者とされるのです。アドニヤのような御心に適わない者は、正式な王になることができません。というのも、パウロがローマ書で言っている通り、権威とは神が与えられるものだからです。神の御心に適わない者がどうして神から王権をいただけるでしょうか。ソロモンのような御心に適った者であれば、自分から願わなかったとしても、支配者の地位に導かれます。しかし、御心に適っていなければ、たとえ人々がその人による治世を望もうとも、決して支配者となることはありません。要するに神の御心に全てがかかっているのです。私たちの願いや支持は究極的な決定要因になり得ません。私たちはこのことをよく弁えるべきでしょう。

【1:41】
『アドニヤと、彼に招待された者たちはみな、食事を終えたとき、これを聞いた。ヨアブは角笛の音を聞いて言った。「なぜ、都で騒々しい声が起こっているのだろう。」』
 アドニヤは、自分が王になったのを祝おうとしたのでしょう、招待された者たちと共に食事をしました。これは祝いのために行なわれる食事だったでしょうから、かなり豪華な宴会だったと思われます。皆がこの時に食事を終えると、ちょうどエルサレムからソロモンの任職を喜ぶ大きな声が聞こえて来ました。それは地を裂くほどの声でしたから(Ⅰ列王記1:40)、離れた場所にいたアドニヤたちにも聞こえたのです。しかし、まだヨアブにはこれが何の声であるか分かりません。大きな声であっても、離れていれば、何だかよく分からない音にしか聞こえないものです。その声は、ヨアブたちにとって悲劇となるものでした。御心に適っていない者たちには、神からの悲劇が、突如として襲い掛かって来るものなのです。

【1:42】
『彼がまだそう言っているうちに、祭司エブヤタルの子ヨナタンがやって来た。アドニヤは言った。「はいりなさい。あなたは勇敢な人だから、良い知らせを持って来たのだろう。」』
 ヨアブが話していると、アドニヤたちのもとに『祭司エブヤタルの子ヨナタン』がやって来ます。この時にアドニヤはまだ都で何が起きているのか全く知りませんでした。しかし、アドニヤはこのヨナタンが都のことで『良い知らせ』を持って来たに違いないと思います。というのも、このヨナタンは『勇敢な人』だったからです。彼と同名であるサウルの子ヨナタンも、勇敢な人でした。この通り、アドニヤは大きな音のことで期待を抱きました。しかし、ヨナタンが持って来た報告は、アドニヤの期待を粉々に打ち砕く内容でした。このように、愚かな者には悲惨な不幸が容赦なく襲いかかって来るものです。ですから、愚かな者たちはずっと喜び続けることができません。呪われた者の喜びは束の間だと定められているからです。

【1:43~45】
『ヨナタンはアドニヤに答えて言った。「いいえ、私たちの君、ダビデ王はソロモンを王としました。ダビデ王は、祭司ツァドクと預言者ナタンとエホヤダの子ベナヤ、それにケレテ人とペレテ人とをソロモンにつけて送り出しました。彼らはソロモンを王の雌騾馬に乗せ、祭司ツァドクと預言者ナタンがギホンで彼に油をそそいで王としました。こうして彼らが大喜びで、そこから上って来たので、都が騒々しくなったのです。あなたがたの聞いたあの物音はそれです。』
 アドニヤの期待を裏切るかのようにして、ヨナタンは都で起きた出来事をありのままに告げ知らせます。アドニヤはこのような報告を間違っても聞きたくなかったでしょう。ヨナタンの報告が出来れば嘘であると思いたかったことでしょう。しかし、ヨナタンは事実をそのまま告げました。悪い者を不幸な現実は容赦なく呑み込んでしまうものです。45節目では、『祭司ツァドクと預言者ナタン』の2人がソロモンに『油をそそいで王とし』たと書かれています。先に見たⅠ列王記1:39の箇所では、祭司ツァドクがソロモンに油を注いだとしか書かれていませんでした。先の箇所では、ただツァドクが油を注いだとしか書かれていなかっただけです。この箇所から分かる通り、実際はナタンもツァドクと共に油を注いでいました。

【1:46~48】
『しかも、ソロモンはすでに王の座に着きました。そのうえ、王の家来たちが来て、『神が、ソロモンの名をあなたの名よりも輝かせ、その王座をあなたの王座よりもすぐれたものとされますように。』と言って、私たちの君、ダビデ王に祝福のことばを述べました。すると王は寝台のうえで礼拝をしました。また、王はこう言われました。『きょう、私の王座に着く者を与えてくださって、私がこの目で見るようにしてくださったイスラエルの神、主はほむべきかな。』」』
 ヨナタンは更に追い打ちを掛けるかのごとく、アドニヤにとって耐え難い報告を続けます。ヨナタンは既にソロモンが王としての任職に関わる全てを完了させたことを告げ知らせました。もうアドニヤがどのようにしても変えられない状況となっていたのです。王となったソロモンがダビデの前に来た際、ダビデはソロモンのことで神に礼拝しました。これは神がソロモンのことで良くして下さったからです。ダビデがそのように礼拝したのは『寝台の上』でした。ダビデが寝台の上で礼拝したとしても、いい加減だと言うことはできませんでした。何故なら、ダビデは老いのため寝台で寝ているしかない状態だったはずだからです。もし寝台から起き上がって礼拝できたとすれば、ダビデはそうしていたことでしょう。身体がどうだからというので礼拝を差し控えるということのほうがよっぽどいい加減でした。また、ダビデはその時、ソロモンのことで神を褒め称えました(48節)。これは神が恵んで下さらなければソロモンに王権は与えられておらず、ダビデが王となったソロモンを見ることも出来なかったからです。この時、ダビデは心からの感謝をもって、神を褒め称えたはずです。

 私たちもダビデのような状況となり、後継者がしっかり与えられたならば、ダビデと同じように神を褒め称えるべきでしょう。というのも、神に恵まれていなければ後継者が現われないか、たとえ現われても呪われた後継者となるからです。神に恵まれるからこそ恵まれた後継者も現われるのです。もし恵みを受けたにもかかわらず、神を褒め称えなければ、忘恩の徒となりかねません。そのような忘恩の者となれば私たちは一体どうなるのでしょうか。その場合、私たちに与えられる御恵みは減少するでしょう。神からの呪いを招く可能性も十分にあります。それは神が御自分に栄光を帰さない者を喜ばれないからです。

【1:49】
『すると、アドニヤの客たちはみな、身震いして立ち上がり、おのおの帰途についた。』
 ヨナタンの報告を聞いたアドニヤ派の人々は、そこから立ち去り、逃げるかのようにして『帰途につ』きました。彼らは恐怖に満ちていました。パニック状態になっていた人もいたかもしれません。新しく王になったソロモンから謀反者として粛清されかねないからです。この通り、愚かな者たちの喜びは恐れまた悲しみに変わります。御心に適わない者たちに喜びは長く続かないのです。

 私たちはアドニヤのような愚か者に組しないよう注意すべきです。それは、そのような者の不幸に巻き込まれないためです。親アドニヤの立場を取っていた人々は、アドニヤに組することで、このような恐れを抱かねばならなくなりました。正しい者に組するのがよいのです。そうすれば不幸の巻き添えとなることはありません。神は正しい者を災いから遠ざけて下さるからです。

【1:50~51】
『アドニヤもソロモンを恐れて立ち上がり、行って、祭壇の角をつかんだ。そのとき、ソロモンに次のように言って告げる者がいた。「アドニヤはソロモン王を恐れ、祭壇の角をしっかり握って、『ソロモン王がまず、このしもべを剣で殺さないと私に誓ってくださるように。』と言っています。」』
 アドニヤも当然ながらソロモンを恐れて震え慄きました。今やアドニヤはソロモンに対し邪魔者となっています。もうソロモンが王になった現実を変えることもできません。彼はソロモンから粛清されてもおかしくありませんでした。このため、アドニヤは幕屋にあった『祭壇の角をつか』みました。古代社会では、祭壇の角を掴むならば命だけは助けられるという一般的な考え方がありました。つまり、神の御前で助けを求めている者を殺すべきではないという考えがあったのです。これはイスラエルだけでなく他の国や地域でも同じことでした。そこでアドニヤは、ソロモンが自分を殺さないようにと命乞いします。アドニヤがこのように命乞いをしたのは当然でした。何故なら、アドニヤは自己愛に基づいて王になろうとしたからです。つまり、彼は王になろうとするほど強い自己愛を持っていたので、殺されることも非常に恐れたわけです。この命乞いは、それを聞いた者により、ソロモンに報告されました。このようにしてアドニヤの望みと期待は全く粉砕されてしまいました。このように愚かなアドニヤが私たちの前で示されました。それゆえ、私たちは誰もこのアドニヤと同じにならないよう気を付けるべきでしょう。まさかアドニヤのように恐怖で震え慄きたいと願う人もいないはずです。

【1:52】
『すると、ソロモンは言った。「彼がりっぱな人物であれば、彼の髪の毛一本でも地に落ちることはない。しかし、彼のうちに悪があれば、彼は死ななければならない。」』
 アドニヤは単に命乞いをしただけでした。彼は自分の命を愛するあまり、全く理性を失っていました。しかし、ソロモンはこのアドニヤに対し、全く理性的に応対しました。ソロモンはアドニヤと異なり感情に揺り動かされませんでした。すなわち、怒りに動かされてアドニヤを殺そうとしたり、憐れみによりアドニヤを助けようともしませんでした。ソロモンはここで全く理知的に応じています。つまり、アドニヤが生きるか死ぬかは全くアドニヤの善悪にかかっていると言うのです。もしアドニヤが『りっぱな人物』であれば、ソロモンはアドニヤを殺すつもりなどありませんでした。何故なら、正しい者を殺すというのは道理に適っていないからです。しかし、アドニヤに『悪があれば』ソロモンはアドニヤを容赦なく殺すつもりでした。何故なら、悪人と悪は罰されるべきであって、王とはそのような罰を下すべき存在だからです。ここでソロモンが『髪の毛一本でも地に落ちることはない。』と言っているのは、つまり害が全く与えられないということです。これは古代ユダヤ人のよく使った表現方法であり、パウロも使徒の働きの巻でこのような表現を使っています。