【Ⅰ列王記8:35~40】(2023/11/05)


【8:35】
『彼らがあなたに罪を犯したため、天が閉ざされて雨が降らない場合、』
 天候は全て神の支配下にあります。神は御自分の御心のままに天候を動かされます。天候は神と無関係に変わると考える無神論や、機械的に動かされるまま天候が決まるとする理神論は、誤っています。このように理解するのは呪われているからです。何故なら、このように理解する人間には信仰が与えられていないからです。天候は神の支配にありますから、もしイスラエル人が神に罪を犯すならば、『天が閉ざされて雨が降らな』くなってしまいます。このことは律法ではっきり示されています。勿論、イスラエルが罪を犯した全ての場合に、このような悲惨が起こるというのではありません。何故なら、罪に対して他の悲惨が下される場合もあるからです。神は御心のままに下される悲惨を決められます。ここで言われている『罪』とは一般的なことですから、具体的な罪を特定する必要はありません。神は御自分の民が罪を犯すのを喜ばれません。ですから、『彼らがあなたに罪を犯した』ならば、裁きとして『雨が降らない』という悲惨をお与えになるのです。実際にイスラエルでこのようなことが起こったのです。イスラエルが不敬虔だったアハブの時代に、3年6か月もの間、イスラエルには雨が降りませんでした。このため、イスラエルの地は不作となり、人々は飢饉に悩まされたのです。今でも雨が降らず不作になったならば、それは何かの罪が原因としてあります。つまり、神から裁かれるので雨が降らず不作となるのです。しかし、今の時代でこのような理解を持てている人はごく稀にしかいません。誰も不作の背景に神罰を見出せないのです。

『彼らがこの所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたの懲らしめによって彼らがその罪から立ち返るなら、』
 イスラエルが神から『懲らしめ』られるなら、イスラエルは大いに悩まされます。人は苦悩から何とかして抜け出したいと思うものです。ですから、懲らしめにより苦しんだイスラエルは、『その罪から立ち返る』ことにもなります。何故なら、罪から立ち返らなければずっと苦しい状況が続くことを悟るからです。そのようになれば、イスラエルは神に『祈り』を捧げます。これは先に見た場合と同じで、悔い改めの祈りです。その祈りは『この所に向かって』、すなわちエルサレム神殿に向かって捧げられます。つまり、イスラエルが神殿の近くで住んでいれば宮に行って祈りを捧げ、神殿から遠く離れていれば遠くから神殿に向かって祈るのです。その時、イスラエルは『御名ほめたたえ』るようになります。それは彼らが神の御前で立ち返ったからです。それまでイスラエルは罪により神から遠く離れていました。ですから、神を褒め称えることもなかったのです。つまる所、「罪」が全ての問題なのです。罪があるからこそ悲惨も起こるのです。試練などの場合を除き、何かの悲惨は罪をその背景に持っています。ですから、問題解決のためには『その罪から立ち返る』ことが求められるのです。このことについて理解するのは良い悟りを得ることです。

【8:36】
『あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に雨を降らせてください。』
 神は、このように祈ったイスラエルの祈りを聞いて下さいます。何故なら、イスラエルが悔い改めたからです。神は悔い改めた者の祈りに御耳を傾けて下さいます。こうして、神は『イスラエルの罪を赦し』て下さいます。この『赦し』は、先の箇所で見た場合と同じで、イエス・キリストによります。というのも、キリストの象徴である犠牲動物をイスラエルは生贄として神に捧げるからです。ここでソロモンが『あなたのしもべたち』また『あなたの民イスラエル』と言っているのは、少しニュアンスが違います。しかし、どちらも同じイスラエルのことを言っています。御民を赦して下さった神は、『彼らの歩むべき良い道を彼らに教え』て下さいます。『良い道』とは律法のことです。こうしてイスラエル人は律法で命じられている神の命令を守って歩むようになるのです。それまでイスラエル人は、その律法を守っていませんでした。ですから、正しい道から逸れて歩んでいたのです。こうして神は、またイスラエルの地に『雨を降らせてくださ』います。悲惨を齎していた罪が悔い改められたのですから、その悲惨も取り去られるわけです。もしイスラエルが罪に留まり続ければ悲惨な状況もずっと続いていました。今でも不作と飢饉にどこかの国や地域が長く悩まされるのであれば、やはりそれは罪が原因としてあります。そのような場合、罪を悔い改めて止めるならば、悲惨な不作と飢饉も取り去られることとなります。罪が悲惨の原因ですから、罪を残したまま自分たちで何か解決しようとしても無駄なことです。罪を悔い改めることが実際的な問題解決となるのです。

【8:37】
『もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合、また、敵がこの地の町々を攻め囲んだ場合、どんなわざわい、どんな病気の場合にも、』
 ソロモンは、ここでもまたイスラエルが悲惨に陥った時のことを述べています。ここでは大きく分けて2つの悲惨が言われています。すなわち、イスラエル人の内部において起こる悲惨と外部から降りかかる悲惨です。『ききん』が起こるならば、イスラエル人たちは飢えに悩まされてしまいます。『疫病』の種類は神が御心のままに決められます。『立ち枯れ』により作物が駄目となるので、イスラエル人は困ってしまいます。『黒穂病』もイスラエル人を悩ませます。『いなご』は作物を食い尽くすのですから、『ききん』の大きな原因となります。『油虫』も、やはり作物を駄目にします。これらはイスラエルの内側において起こる悲惨です。『敵がこの地の町々を攻め込んだ場合』というのは、イスラエルの外部から降りかかる悲惨です。このようになれば御民は、大きな恐怖と悩みに満たされます。敵たちがイスラエルに打ち勝つならば、イスラエルは最悪の不幸に苦しみかねないからです。これらが『わざわい』また『病気』の具体例です。ヤコブの子らが罪を犯すならば、こういった悲惨が下されることになります。箴言で言われているように、『みことばを蔑む者はその身を滅ぼす』のです。この箇所で挙げられている悲惨は7つです。すなわち、(1)『ききん』、(2)『疫病』、(3)『立ち枯れ』、(4)『黒穂病』、(5)『いなご』、(6)『油虫』、(7)『敵がこの地の町々を攻め囲んだ場合』、です。これはあらゆる種類の悲惨を示しています。つまり、ここで7つの悲惨が挙げられているのは、部分により全体を示す提喩法です。ここで『わざわい』と『病気』について『どんな』と言われていることからも、これは分かります。ソロモンはここで意識して7つの悲惨を挙げたのでしょう。

【8:38】
『だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の心の悩みを知り、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、』
 前節で書かれていたような悲惨がイスラエルに襲いかかるならば、イスラエルは大いに嘆くこととなります。すると、イスラエルには悩みが起こります。それは罪の悩みです。「ああ、このような悲惨が降りかかるのは罪を犯したからなのかもしれない。」などと思う悩みです。それがここでは『心の悩み』と言われています。このような悩みを持ったイスラエルは、『この宮に向かって両手を天に差し伸べて祈る』ことにもなりましょう。『この宮に向かって』祈るのは、そこに神がおられるからです。神に祈る内容は、悔い改めと赦しのことです。『両手を差し伸べて』祈るのは、イスラエル人が強く神を求めていることの反映です。今でも惨めな人は憐れみを求めてこうする場合がありましょうけども、イスラエルが『両手を差し伸べ』るのは、これとよく似ています。私たちが今でもこうして神に両手を挙げたとしても、何も問題はありません。ただ両手を差し伸べるのが偽善的・演技的になってはいけません。神は単なる見せかけを喜ばれないからです。神への強い思いが自然と両手を上に動かすようであれば、それは好ましいことです。自然とそのようになる祈りは本質的に力強いでしょうから、そのような祈りは神に聞かれることでしょう。もっとも、それはその祈りが御心に適っていればの話です。もしその祈りが御心でなければ、どれだけ両手を天に差し伸べても、祈りは決して聞かれないでしょう。

【8:38~39】
『どのような祈り、願いも、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天で聞いて、赦し、またかなえてください。』
 神は、このような悔い改めたイスラエルの祈りを必ず聞いて下さいます。何故なら、その時のイスラエルは悔い改めたからです。悔い改めたというのは、つまり神の御心に適わない罪を捨てたということですから、そのようにしたイスラエルであれば必ず御心に適った祈りを捧げるはずなのです。その祈りが御心に適っていれば聞かれるでしょう。『聞いて』とは、イスラエルの捧げる祈りの全体を聞いて下さいということです。『赦し』とは、祈りの中で告白された罪を赦して下さいということです。『かなえてください』とは、祈りの中で求められた願いの事柄を実現させて下さいということです。

【8:39】
『ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけがすべての人の子の心を知っておられるからです。』
 神は、人間の生き方に応じて報いられる御方です。これは聖書の全体が教えていることです。伝道者の書では、こう書かれています。『神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれる』。私たち人間が死ぬようになったのも、私たちの罪に対する報いです。『罪から来る報酬は死です。』とローマ書で言われている通りです。それゆえ、報いない神とは神でなく、そのような神は存在していません。また、神は『人の子の心を知っておられる』御方です。神『だけが』人の心を知っておられます。実際、神であられるキリストは、福音書で書かれている通り、人間の心を全て見ておられました。これは神が人間の創造者であられるからです。人間の心は、神の御前で全く剝き出しとなっています。しかし、人の目からは人の心が見えません。これは人間が人間の創造者ではないからです。確かに、私たち人間は、人間の心をそのまま見ることができません。勿論、間接的に認知・推察することであれば可能ですが、直接的に誰かの心をそのまま見ることは決してできません。それでは、御使いや悪霊どもの場合はどうなのでしょうか。御使いや悪霊どもであれば、人の心を知ることができるのでしょうか。ここでは神『だけがすべての人の子の心を知っておられる』と書かれています。ですから、御使いや悪霊どもは、人間の心をそのまま見ることができないのでしょう。事実、御使いか悪霊どもが人の心を直接的に知った出来事は聖書で何も書かれていません。こういうわけですから、神は人の『生き方』における本質を全て知っておられます。人間であれば人の心を見ることができず、誰かの生き方を表面的にしか知れませんから、その生き方における本質を知るのは難しい場合がほとんどです。しかし、神の場合は、その心に基づいて人の『生き方』を見られますから、常にその本質を弁えておられます。それゆえ、神は『ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報い』られるのです。もしその人が神の御前で心から正しい『生き方』をしているのであれば、そのような人は神に祝福されるでしょう。しかし、その人の『生き方』が表面的には正しく見えても、パリサイ人のように偽善的であったとすれば、そのような人は神から罰せられるでしょう。何故なら、神は『人の子の心を知っておられる』からです。そのような人の生き方は、その心と一致していませんから、そういった虚しい偽善の生き方は罰せられるに値するわけです。

【8:40】
『それは、あなたが私たちの先祖に賜わった地の上で彼らが生きながらえる間、いつも彼らがあなたを恐れるためです。』
 先に見た通り、神が祈りをことごとく聞かれ報いられるのは、ここで言われているように、『いつも彼らがあなたを恐れるため』でした。というのも、神が祈りを聞かれ報いられるのであれば、ユダヤ人は神を恐れるしかないからです。神が祈りを聞かれるならば、ユダヤ人は神を恐れるでしょう。何故なら、もし神を恐れなければ、神は祈りを聞いて下さらないだろうからです。また神が報いられるならば、やはりユダヤ人は神を恐れることになります。何故なら、もし神を恐れない歩みをしたならば、神から報いにより罰せられるからです。このように祈りと報いが、神を恐れる理由としてあります。それは神を恐れる正しい理由です。ソロモンがここでそのような理由について述べているからです。それゆえ、私たちは神が祈りを聞かれ、私たちに報いられるということを、よく考えるべきでしょう。そのようにすれば、神を恐れていなかった人が神を恐れるようになり、神を少ししか恐れていなかった人が神を強く恐れるようになり、既に恐れていた人はますます神を恐れるようにもなるからです。もしこの祈りと報いという理由がなければ、それだけ人は神を恐れなくなってしまいます。神を恐れる理由が2つも欠けているのです。そうであれば、その理由がある場合に比べ、神を恐れるのは難しくなるのです。しかし、このような理由がしっかり示されたにも関わらず、ユダヤ人は神を恐れることがありませんでした。これは完全にユダヤ人の咎であって、弁解の余地は全くありませんでした。ですから、ユダヤ人は神から滅びの刑罰を受けてしまったのです。ここでソロモンが言っていることは、かなり重要です。それというのも、古代における神の民が神を恐れるべきであったのと同じで、現代における神の民であるクリスチャンも神を恐れるべきだからです。ですから、ここでユダヤ人が神を恐れるようにと言われているのは、私たちにとっても実際的な重要性を持つことなのです。