【Ⅰ列王記8:41~46】(2023/11/12)


【8:41~42】
『また、あなたの民イスラエルの者でない外国人についても、彼があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て、―彼らは、あなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕について聞きますから。―この宮に来て』
 ここで『あなたの民イスラエルの者でない外国人』と言われているのは、『遠方の地』にいる異邦人のことです。イスラエル共同体の中にも、在留異邦人と呼ばれるイスラエル人でない外国人が多くいました。しかし、ここで言われている『外国人』はこの在留異邦人ではありません。在留異邦人はイスラエル人でないものの、イスラエル共同体の一員であり、外部にいる異邦人とは区別されるからです。この『遠方』にいる『外国人』も『この宮に来て』いました。異邦人も遠くから宮に来たのは、歴史が記録している通りです。異邦人が宮に来るのは、神の『御名のゆえに』です。つまり、偉大な神がそこにおられるからというので、異邦人は遠くから神の宮にまでやって来るわけです。というのも、『彼らは、あなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕について聞』いているからです。神の名声が異邦人を宮にまで引き寄せるのです。異邦人の国々にも神の『大いなる御名』が知れ渡っていました。異邦人たちは、神が『力強い御手』により、エジプトやカナンの地で働かれたことについて聞いていたのです。この神は『伸べられた腕』をもってイスラエル人をエジプトから助け出されました。このような神の話が諸国に流れていました。ですから、異邦人たちはそのような神がおられる宮に是非とも行ってみたいものだと感じたわけなのです。しかし、実際にどれぐらいの異邦人が宮に来ていたかは分かりません。多くの異邦人が来ていただろうことは容易に推測できます。歴史はこの宮にしばしば異邦人の王でさえ来ていたと記録していますから、実に多くの異邦人が来ていたと思われるのです。タルムードではこの宮について、「エルサレムの宮を見たことのない者は美しいものを見たことのない者である。」とまで言われており、実際に宮はこの言葉が誇張であると思えないほどの美しさを有していました。福音書の中で書かれている通り、キリストの御前で、人々は宮の美しさに感嘆としていました。偉大な神がこのような美しい宮におられたのですから、多くの異邦人がこの宮に来ていたとしても何も不思議なことはありません。

【8:42】
『祈るとき、』
 遠くから宮までやって来た異邦人は、そこで神に『祈る』ことをしました。異邦人は何のことで『祈』ったのでしょうか。彼らがどのような事柄を祈ったかは何も示されていません。異邦人ごとにそれぞれ様々な事柄を祈ったのでしょう。ある人は国家の平和を、ある人は健康の幸いを、ある人は災害からの守りを、といったように。それというのも人それぞれ思いや状況は異なるものだからです。異邦人たちが宮で神に祈ったのは、ヤハウェ神であれば祈りを聞いて下さるだろうと思ったからです。神の素晴らしい名声が、異邦人に祈りが聞かれることを期待させたのです。もしそのような期待を持たなければ、どうして異邦人はわざわざ遠くから宮までやって来て祈りを捧げたのでしょうか。実際に次の節から分かる通り、神は異邦人の祈りを聞かれました。また異邦人は宮で祈るだけでなく、犠牲を捧げることもしていました。王などは高価な動物を犠牲のため連れて来たものです。神がおられる宮に行くのですから、異邦人は神に犠牲を捧げたいと思ったわけなのです。それは彼らが自分たちの神々に犠牲を捧げるのと同じでした。もっとも、異邦人の神々は、ヤハウェ神と異なり、実際には存在しない偽りの神だったのですが。

【8:43】
『あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天でこれを聞き、その外国人があなたに向かって願うことをすべてかなえてください。』
 宮まで来た異邦人の捧げる祈りを、神は聞いて下さいます。『すべて』の祈りが聞かれるのです。これは御心に適った限りにおいて『すべて』ということです。ソロモンは、ここで御心に適った祈りが捧げられることを前提しています。ですから、御心に適わなければ、異邦人のその祈りは聞かれません。聖書は御心に適わなければ祈りが聞かれないと教えているのですから、確かにその通りです。

 このように神は異邦人が捧げる祈りだからといって、決して退けられませんでした。祈りが聞かれる点において、異邦人はユダヤ人と平等だったでしょう。何故なら、ソロモンはユダヤ人の祈りをことごとく聞いて下さいと神に願っていますが、それと同じことが異邦人についても願われているからです。タルムードにおいて、遠方にいる外国人は、ユダヤ人より2段下に位置付けられています。すなわち、ヤコブの子らである純粋なユダヤ人>在留異国人>遠方にいる外国人、という位置付けです。しかし、神は異邦人だからといって差別しておられません。これはパウロが『神は人を分け隔てなさいません。』と言っている通りです。神が異邦人の祈りも聞いて下さるというのは、やがて異邦人も神の御恵みに招かれることの前触れとして見てよいでしょう。実際、これから約1000年後には異邦人も神の民となれる時代が到来しました。神はやがて異邦人も聖徒になることを決めておられましたから、このように前もって異邦人にも慈しみを与えておられたのでしょう。もし異邦人が永遠に救われないのだとすれば、このように異邦人の祈りが聞かれることはなかったはずです。

 これまでに見た通り、宮とは神がおられる場所です。確かに宮は地上における神の御住まいです。しかし、ソロモンはここで神の『御住まい』が『天』であると言っています。つまり、「あなたの御住まいの所である宮で」とは言っていません。先に見た39節でも、やはり『あなたの御住まいの所である天で』と言われていました。確かに、地上の宮も天も神のおられる場所です。しかし、神は天のほうに実際的により強くおられますから、このように天が神の御住まいであると言われているのでしょう。しかし、このように言われているからといって、地上の宮に神がおられないというわけではありません。

 ここで見た通り、古代では救いの与えられていなかった異邦人でさえ神に祈りました。であれば、聖徒である私たちは尚のこと神に祈らねばならないでしょう。また神は御自分の民でない異邦人が捧げる祈りさえ、しっかり聞いておられました。ですから、聖徒である私たちは祈りが必ず神に聞かれることを堅く信じるべきです。

【8:43】
『そうすれば、この地のすべての民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じように、あなたを恐れるようになり、私の建てたこの宮では、御名が呼び求められなくてはならないことを知るようになるでしょう。』
 遠くから宮までやって来た異邦人の祈りも聞かれるのは、大きな意味がありました。それは異邦人たちと秩序のためです。つまり、何も実際的な効果が齎されないにもかかわらず、異邦人の祈りが聞かれるというのではありませんでした。ここで言われている『この地のすべての民』とは、イスラエルの地にいる全ての異邦人を指します。異邦人たちの祈りも神が聞いて下さるならば、『この地のすべての民が御名を知』るようになります。これは異邦人も神を真実な御方として強く感じるということです。こうなれば異邦人たちも『イスラエルと同じように』神『を恐れるようになり』ます。何故なら、異邦人の祈りさえ聞いて下さるような偉大で恵み深い神を恐れるべきであるのは明らかだからです。すると、異邦人たちも『宮では、御名が呼び求められなくてはならないことを知るようにな』ります。祈りを聞いて下さる恐れられるべき神が呼び求められねばならないというのは、わざわざ説明するまでもないことだからです。イスラエルに神的な秩序と平和が保たれるためには、どうしてもこのようになる必要がありました。もし異邦人たちは神を尊ばないとすれば、イスラエルの共同体が霊的に妨げられてしまいます。何故なら、そこにおいて為すべきことをしないような人々がいるのだからです。こうなればイスラエル人たちでさえ異邦人の不敬虔な振る舞いから悪い影響を受けてしまうでしょう。何故なら、ソロモンが言ったように『鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。』のだからです。冷水と一緒になった温水が冷めるように、共にいる人間が影響を齎さずにいることはありません。ですから、イスラエルの地にいる異邦人たちもイスラエル人のように敬虔な態度を持つため、異邦人の祈りも神は聞き入れて下さったのです。

【8:44】
『あなたの民が、敵に立ち向かい、あなたが遣わされる道に出て戦いに臨むとき、』
 古代ユダヤでは多くの戦いがありました。古代ユダヤは戦い続きの歴史だったと言っていいでしょう。これは旧約聖書を見れば分かります。ここでは、そのような戦いのうち、神の御心に適った戦いのことが言われています。何故なら、御心に適った戦争の場合、イスラエルは戦うべき『道』に神から『遣わされる』からです。これはしっかりと弁えておくべきです。ここでは呪いによるのでない戦いのことが言われているのです。第一次ユダヤ戦争をはじめ呪いによる戦争も、イスラエルでは多く起こりました。そのような戦争のことがここで言われているのではありません。

『あなたの選ばれた町、私が御名のために建てた宮の方向に向かって、主に祈るなら、』
 御心に適った戦いが起きた際、イスラエルは戦う前であれ戦っている最中であれ、『主に祈る』でしょう。何を『祈る』かと言えば、それは戦いで勝つこと、守られること、祝福されること、等々です。イスラエルが祈るのは、『あなたの選ばれた町』であるエルサレム、またそこにある『宮の方向に向かって』です。何故なら、そこにイスラエルが祈る対象である神は住んでおられるからです。

【8:45】
『天で、彼らの祈りと願いを聞いて、彼らの言い分を聞き入れてやってください。』
 このような戦争において捧げられる祈りを、神は聞き入れて下さいます。勿論、聞かれるのは御心に適う限りにおいてです。神がこのような祈りを聞いて下さるのは、前節から分かる通り、その戦争が神の御心に適っているからです。例えば、イスラエルが勝利を祈るならばイスラエルは勝利し、守られることを祈ればイスラエルは守られ、祝福を祈るならイスラエルは祝福されるのです。ここで『祈り』と言われているのは祈りの全体のことであり、『願い』とは祈りの中における願い事の部分です。

【8:46】
『彼らがあなたに対して罪を犯したため―罪を犯さない人間はひとりもいないのですから―』
 ここでもまたイスラエルが罪を犯した場合について言われています。イスラエルが神に罪を犯すとは、つまりイスラエルが神の律法を守らないことです。何故なら、ヨハネが言ったように『罪とは律法に逆らうこと』だからです。ここでは『罪』が全体的に取り扱われています。イスラエルが神の民であるからというので、罪を犯さないというわけではありませんでした。何故なら、イスラエルが道徳的にしっかりしているからというので、神がイスラエルを御自分の民にされたのではなかったからです。イスラエルは贖われた民であったものの、他の全民族と同様、神の御前で罪深い存在でした。ですから、イスラエルも幾度となく罪に陥ったのです。もしイスラエルが全く道徳的に完璧だったとすれば、神はイスラエルを御自分の民としておられなかったでしょう。というのも、神が招かれるのは正しい者でなく病人だからです。

 ここで『罪を犯さない人間はひとりもいない』と言われているのは真実です。ソロモンは伝道者の書でもこう言っています。『善を行ない、罪を犯さない正しい人間はひとりもいない』。あのモーセでさえ神に罪を犯しました。ノアも罪に陥りました。ダビデも大きな罪を犯しました。パウロも罪を犯してしまいました。神に恵まれていた彼らでさえ罪を犯したとすれば、他の人間は尚のこと罪に陥るでしょう。まさか彼らよりも自分は道徳的にしっかりしているなどとあえて言える人など決していないはずです。しかし、キリストだけは話が違います。キリストは真の人間であられますが、しかし私たちのように罪を犯すことは全くありませんでした。それはヨハネが『キリストには何の罪もありません。』と言った通りです。

『あなたが彼らに対して怒られ、彼らを敵に渡し、彼らが、遠い、あるいは近い敵国に捕虜として捕われていった場合、』
 イスラエルが神に罪を犯すならば、神はイスラエル『に対して怒られ』ます。神が怒られるのは当然のことです。何故なら、イスラエルは罪を犯すことで神に逆らったからです。そのようにしてイスラエルは自分たちの主である神を蔑ろにしています。ですから、罪に陥ったイスラエルを神が怒られるのは当然なのです。子どもが逆らったならば親は怒るでしょう。僕が蔑ろにすれば主人は憤るでしょう。罪を犯したイスラエルに神が怒られるのは、これとよく似ています。神は罪に陥ったイスラエルを、罰として『敵に渡し』てしまわれます。神の怒りには罰が伴っているのです。つまり、罰とは神が怒っておられることの現われです。その罰の種類は色々とあります。神がその種類を御心のままに決められます。そのうち『敵に渡』されるという罰は、罰の中で最大級のものです。このような大きな罰は神が大いに怒っておられることの証拠なのです。このような罰を受ける時、イスラエルは最悪の堕落に陥っています。神がイスラエルを『敵に渡』されるならば、イスラエルは『遠い、あるいは近い敵国に捕虜として捕われて』しまいます。つまり「捕囚」です。こうなればイスラエルはもう祖国に住むことができません。見知らぬ地で、話す言葉も分からない外国人に囲まれて、惨めに生きねばなりません。しかも聖なる神の宮もそこにはありません。こうしてイスラエルは大いに嘆くこととなります。こうなるのは神からの厳しい、しかし正当なる刑罰なのです。こうなるのはイスラエルが罪を犯したためですから、イスラエルにとって自業自得です。あのバビロン捕囚が正にこの刑罰でした。